2月2日、夜、鬼やらい

ドント in カクヨム

21時06分

「それで、息子さんが外に出ようとしたら、足の指先が切れたんですね?」

 その青年は玄関の外から声をかけてきた。

「えぇ。そ、そうなんです」

 母親は震えながらそう言った。平屋の一軒家、上がりがまちに敷いた絨毯の上にへたりこみながらも、腕には息子を強く抱きしめている。

「さっきも電話で伺いましたが、スッパリ綺麗に切れていて? もう血は出ていない?」

「えぇ、はい。あの」戸惑いながら母親は続ける。「数度拭いたらふさがって……もう血は止まってます」

「なるほど」

 青年はウェーブのかかった前髪の奥から、透き通った茶色い瞳を覗かせた。丸く大きな目が怯える家族と、玄関に並ぶ革靴やブーツを見た。 

「それから次は、お父さんが?」

 母子のそばにいた若い父親が無言で頷く。三本の指先に巻いた包帯が赤く染まっていた。三者とも一様に、顔に血の気がない。




 それもそのはずである。




 124年ぶりの、2月2日の節分の夜のこと。

 この父と母と子は、ごく平和に恵方巻きを食べ、豆まきをし、それから撒いた豆を拾った。

 床や外に落ちてもあとで食べられるよう、落花生を割らずに殻つきで撒いていたのだった。

 自室、キッチン、風呂、トイレ、廊下、それに玄関の内側に散らばる落花生を拾い上げる。

 幼稚園の年長組になる息子が「外のはボクがひろう!」と、母親が使っているサンダルを履いて外に出ようとした。

「待って。電気をつけるから」と母親が玄関先のライトをつける。「暗いから気をつけろよ」と父親が釘を刺す。 

 息子が「うん」と答え、夜8時前の暗がりの広がる玄関の向こうへと、少しばかり慎重に敷居を跨ごうとしたその時──



「いたい!!」



 彼は玄関側にひっくり返った。父母が駆け寄ればなんと、右足の親指から血が出ている。痛い痛いと泣いている。

 サイズの合わぬサンダルがよくなかったのかと最初は思った。だが傷口があまりに鋭い。こすれた痕ではなかった。おまけにサンダルの先までスッパリと無くなっている。これは確実に「切れた」のだ。


 何事か。息子の足を手当てしている母親の脇を父親が抜ける。

 すぐ外にガラスか陶器の破片でも落ちているのかもしれない。

 父親が靴を履き、玄関から出ようとした。その途端。 

「うっ!!」

 左手を押さえて後ろへ下がった。開いたドアの外枠あたりをつかもうとした指先──薬指と中指と人さし指──から血が飛んだのだ。



 幸い二人とも、すぐに血は止まった。傷も一筋の痕を残して綺麗に閉じている。まるでよく研いだ刃物で斬って、すぐにぴったり合わせたかのように。


 うろたえて救急車を呼ぼうとする母親を、父親は押しとどめた。 


 彼の脳裏に何か、かすめるものがあった。悪い予感、第六感、そのような類のものである。

 これは、尋常一様の出来事ではない。そう直感した。

「ちょっと待ってくれ」

 そう言って、あることを試した。

 すると母親も息子も、試してみた当の父親さえも震え上がる事態となった。

 もはや玄関先から動けなくなってしまった。


 血は出ていないとは言え、息子の傷は心配だった。しかしこれでは医者に見せに行けない。救急車を呼ぶこともできない。外に出れないし、人を呼ぶことも難しい状況に陥っていた。

 幸運にも父親はパジャマのポケットにスマホを入れていた。そこで救急隊員の代わりに呼んだのが、この青年だったのである。

 連絡がついて状況を説明してから40分後、彼は平然とした顔で道路に接する門を素通りし、玄関先までの短い距離を歩いてやってきた。

 開いたドアの屋内から、父親も母親も息子も、彼の身体がどうなるものかとヒヤヒヤしながら見ていた。

 一家の危惧を知ってか知らずか彼は敷居の手前まで来て、しれっとした顔で「こんばんは」と挨拶したものだった。


 

「ち、知人で、こういうのに詳しい人がいたもので。彼に相談したんです。スピリチュアル系に詳しい人で。そうしたらあなたの名前を」

「……スピリチュアルかぁ」

 父親のその言葉に、玄関の向こうにいる青年は首をかしげながら前髪の付け根あたりを掻いた。

「まぁ突き詰めればそういうのなんだけど、スピリチュアル系って言われたのははじめてだなぁ」

 茶色の、ウェーブのかかったショートカット、その前髪が目をそっと隠している。細身のジーンズに白いパーカーを着て、黒い上着を羽織っていた。

 歳は二十歳前後だろう。顔色は白く、肌には艶と張りがある。ここに来た時から現在までずっと上がっている口角には機嫌のよさよりも悪戯っぽさが宿っている。どことなく、猫のようであった。

「し、失礼しました」

 父親は頭を下げた。青年はいやいや、と手を振る。

「気にしないでください。何せはじめての呼称だったんで。いつもは呪術師とか何とか呼ばれてるもんで」

「呪術──あの、霊能者の方ではないんですか? お祓いとかそういうことをする方とばかり」 

 母親が不安そうに青年を見る。彼はまた「いやいや」と言った。 

「まぁそういうの全般、みたいなものですね。何でも屋というか──それで、お父さん」

 青年の声が硬くなった。口角は上がったままだ。しかし瞳は鋭くなっている。

「嫌な感じがして、投げてみたんですね? そこの、それを」

 青年は目で示した。

「そっ、そうなんです」

 父親はパジャマに裸足の足元に置いてあった靴べらを拾い上げる。


 だがそれは、半分しかなかった。


 ちょうど真ん中のあたりで切れている。切り口が斜めに走り、鋭角を作っている。



 悪い予感に促されるまま、父親は立てかけてあった靴べらを玄関の外に放ってみたのである。


 すると。


 ぱしん、という軽い音と共に、靴べらが宙からさらに高く浮き上がり、回転した。 

 父親の革靴の脇に落ちたのが、この半分であった。


「なるほど、真っ二つだ。ということは」

 青年は下に目をやる。左右と後方を見てから屈んで、平たいものを持ち上げた。

「ありました」

 靴べらの、頭の方であった。先端は丸いが、もう一方の端はやはり、斜めに切れている。青年は尖ったそこに指をやりつつ、

「なるほど、これもスッパリいってますね。ギロチンみたいに……あ、ごめんなさい。怖いですよね」

 青年はまた前髪を掻く。どうやらそのようなクセらしい。

 そう言われて父親と母親の身がぶるっと震えた。

 もし息子が、あるいは自分が、頭や顔を先にして素早く玄関から出ていたら。

 切れていたのは、足や手の指の先ではなかった。

 その可能性に思い至ったからである。



「あっ、やっぱり怖がらせちゃった。すいません。僕よく言われるんです。お前は不謹慎だ、って。それでそのぅ、不謹慎ついでにお聞きしたいんですが」

 青年はそこではじめて口を真一文字に結んだ。

「この、コレをやっつけたら、その……おいくら、いただけますか?」


 一瞬、家の内と外とに静寂が訪れた。青年は再び、気まずそうに前髪を掻いた。

「いっ、いくらでも払います!」 

 息を吹き返したように父親が叫んだ。

「このおそろしい事態がどうにかなるのなら、いくらでも……100万や200万なんて惜しくありません!」 

「ひゃっ、ひゃくまん!? いや僕は、そんな」

 青年は急におどおどして身体の前で両手を振る。 

「即金は無理ですが、一週間待っていただければ1000万までなら」 

「わっ。ちょっとやめてください。学生の身分でそんなに貰ったらバチが当たります」

「あなたのおっしゃる額で結構です。私も起業して、信用第一でここまでやってきた男です。嘘は言いません。おいくらご入り用ですか」 

 興奮して鼻息荒く若い父親は言う。この恐怖をどうにかしたいとの思いからか、顔が真っ赤だった。

「じ、じゃあその…………」

 青年は振っていた手を後ろに回し、モジモジしながら言った。

「に……いや、3万円、ほど……」

「3万円」

 父親も、それから母親もぽかん、と口を開いた。つられて息子の善郎もぽかん、と口を開いた。 

「あとよろしければ、ここまでのタクシー代と電車賃と」

「電車で来られたんですか」

「二駅だったので……駅からのタクシーと合わせて1500円……」

「では、3万と1500円」

「はい」

「本当に、それでよろしいんですか」

「いやもう全然。それだけいただければ十分で……あっ、コレはサービスしておきますので」

 彼はやおら、尻のポケットから包装された小袋を取り出した。

 親子が2メートルほど離れた位置から目をこらすとそれは、小さな縦長の、おつまみの袋だった。「塩ふりピーナッツ」と書かれている。

「駅前のコンビニで買ったんです。こちらに何がいるのかはおおよそ、見当がついていましたから」

「えっ」と母親の喉から声が洩れた。父親の喉の方からはごくり、と唾を飲む音がした。

「電話でのご説明だけで、お分かりになったんですか」

「いいえ。今日がそういう日だからです」

「そういう日?」

「124年ぶりに日のズレた、少し不安定な日取りの節分です」

「節分。じゃあ、まさか」

「鬼ですね」

 青年は小袋をもてあそびながらごく軽く答えた。

「ここに鬼がいます」



 言った途端に子供がワッ、と母親にしがみついた。

「おにこわい! たべられちゃう!」

「大丈夫、大丈夫……」

 母親が息子の髪を撫でる。だがその手は震えていた。

「そうそう、お兄さんが来たからには大丈夫だよ」

 子だけでなく母にも声をかけるように、青年は言った。

 子供は涙を浮かべた目を向けた。

「おに、やっつけてくれるの?」 

「うん、そうだよ」

「タンジローみたいに?」

「タンジロー? ああ……」

 青年は困ったように、また前髪を掻く。

「お兄さん、刀は持ってないから、鬼を斬ってやっつけるのはできないんだ。でもね」

 ピーナッツの袋を開けて、ひと粒つまみ出した。

「タンジローくらいかっこよくやっつけてあげるから、見ててごらん」




 周囲の空気がざっ、と一気に冷えた。 

 青年の唇が、かすかに動く。

 何か呟いたようだった。

 指先につまんだ豆が白く光るのを、三人は見た。

 ふわりと、目を隠していた前髪が上がる。

 大きく澄んだ瞳の奥に、鋭く白い光が走った。



「シッ」

 息を吹くと同時に、豆を足元に叩きつけた。



「ギャッ」

 豆がはじけて、玄関の敷居から短い叫びが上がった。

 白くまばゆい光の中に飛び上がったものを、青年は刹那のうちに掴んだ。




 親子三人は呼吸することを思い出した。ゆるやかに深く大きく一息ついて、青年の右手からはみ出ているものを見た。

 黒く短い帯のようなものがしっかと握られている。拳の上と下からはみ出た一部が、水揚げされた魚の尾のように動いていた。


 棒を呑んだように突っ立っていた父親がようやく言った。

「それが、鬼ですか」

「はい。まぁ、世間のイメージと違いますし、一撃でずいぶん弱ってしまいましたが、魂魄……鬼ですね」

「どうしてこんなものが、うちの玄関に」ハッとして顔を上げる。「まさか、誰かの呪いが」

「違うと思います」

 青年はにべもなく言う。

「呪いにしては防御力がなさすぎます。豆ひとつでこうですからね。おそらくですが、120年ぶりの日付のズレで、突然変異的にこのように形になったんでしょう」

 青年は手首を返して、黒い帯を眺めた。

「この家に来たのも偶然、いやそうでもないかな。お父さん、こちらは建ててから何年ですか?」

「まだ一年経っていません」

「あぁ道理で。綺麗な外観だと思ったんです。新築だと──どう言えばいいかな。『人の思念』みたいなのがまだ薄いんです。こういうのが入り込みやすい」

「しかしどうしてこんな、玄関なんかに……?」

「今夜、豆まきはされましたか?」

「えぇもちろん。だから不思議なんです。きちんと『鬼は外、福は内』と、全部の部屋をやって、玄関まで豆をまいたんですが」

「だからこそ、ですね」

 青年は下の、玄関の敷居を指さした。

「鬼は外、福は内とやったので、こいつはこの隙間に逃げこんだわけです──『内』でも『外』でもない、敷居のこの部分に」

「あぁ……」父親は額に手を当てた。「そんなことに……」

「広い空間なら悪さも大雑把なものだったかもしれませんが、この狭さです。鬼の力も狭く鋭く出て、ここを通ろうとするものを『切る』ように作動した、と、あくまでこれは僕の想像ですが……」

「──お兄ちゃん」

 子供がぼそりと言った。

「おに、やっつけたの?」

「うん? まだだよ。あとは簡単にやっつけられる──ああそうだ、君、名前は?」

「ヨシロウ」

「ヨシロウくん。鬼、やっつけてみる?」

「えっ、やっつけられるの?」

「うん、マンガみたいには倒せないけど、ほら、豆をぶつけて、やっつけられるよ」 

「……ホントに?」

「うん、ホントに」

 青年は父親と母親の心配そうな視線に気づいて、説明した。

「この鬼、もうだいぶ弱ってます。豆粒をいくつかぶつければ、消えちゃいますよ」



 それから善郎は、拾い回った落花生を、青年の手に握られた鬼にぶつけた。

 もちろん、「ふくはーうち! おにはーそと!」というかけ声と一緒にである。

 落花生が四つばかり当たると鬼は、蚊の鳴くような声を上げて、あっけなくパラパラと崩れて消えてしまった。


「やったぁ! おに、やっつけたよ!」

 振り向いて嬉しそうに言う我が子を、父親と母親は膝をついて強く抱きしめた。

「よかったね……よかった……」 

「よかったな……」

 両親の目には、光るものがあった。


 青年はその様子を見て、満足そうに頷くのだった。

「あの、僕、帰ります」

「……あっ! 待ってください。謝礼を」

 父親が腰を上げかけるのを、青年は手を伸ばして止めた。

「いえ、皆さんお疲れでしょうから。それに、そんなやりとりを今するのも何ですし、ね?」

「あの……本当にありがとうございました」

 子供の前で膝をついていた母親がそのまま座り直し、深く頭を下げた。夫もそれに習った。

「どうお礼を言ったらいいか……妻と息子と、私を助けていただいて……」

「いやいや、そんな大したことは……“力”もそんなに使ってないですし、経費だってこのピーナッツ一袋で……これ召し上がりますか?」

「いえ、大丈夫です」

「アッそうですか」

 断られて少しうろたえた青年は、左手にずっと持っていたピーナッツの袋をもてあまして、ジーンズのポケットにしまいこんだ。

「それじゃあ、都合のよろしい時にご連絡ください」

 青年はさっきまで鬼が潜んでいた敷居をごくあっさりと踏み越えて家の中に入ってきた。

 財布を出して、厚紙を一枚抜き取る。 

「これ、僕の名刺です」

 父親はそれを受け取った。

 




八神恵護





 真っ白な紙の真ん中に、黒くただそう書いてあった。そして裏の下部に、携帯の番号とメールアドレスが一行ずつ。それだけの名刺だった。 

「お兄ちゃん、これなに? なんてよむの?」

 善郎が名刺を覗きこみながら尋ねた。

「それはね、ヤガミケイゴ、って読むんだ。ヤガミケイゴ、それが僕の名前です」

 青年──八神恵護は親子に向かって言った。

「もしも万が一、また不思議なことや怪しいことが起きたら呼んでください」

 それから八神恵護は、前髪の奥から子供に向かって軽くウインクしてみせた。 

「絶対、助けてみせますから」







【完】




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