茅ケ崎随想

上松 煌(うえまつ あきら)

茅ケ崎随想

 茅ケ崎のプロローグはユーライア・ヒープの『7月の朝』を連れてやってくる。

淡々しい夜明けの最初の光の向こうで、靄のケープをまとった江の島がまどろみ、まだ眠たげなうねりが密やかに寄せては返す。

早起きの漁船が烏帽子岩の先の漁場に向かい、商船が何隻も相模湾を越えて世界に散っていく。

なだらかに積み重なる雲の向こうに朝焼けの富士が浮かぶころ、次第に高くなる波。

そう、ハンティントン・ビーチのチューヴを夢見てサーファーたちが集うのだ。


 駅の南側、造成して少し高台の薄バラ色のマンション。

コート・ダジュールをイメージしたい住人のためのパーム・トゥリーが、少し気恥ずかしげに縁どる。

エントランスまでの綴れ折れの20段の石段、ちょっと遠回りのスロープ。


 「あのね、松が丘公園の向かいにね、新しくマーケットが出来たんだよ。道の駅みたいな感じで、なんでもあるの。9時半開店でもう、茅ケ崎にこんなに人がいるのって思うくらい混んでた」

朝から楽しげなカノの声。

「え?なんだ、おれも行ったのに。道狭いから荷物重いとチャリじゃ危ない」

「いいの。よく寝てたから、コッソリ行っちゃった。忙しいんでしょ?土・日くらいゆっくりしてね。えへへ、ボジョレー買っちゃった。今年の出来、すごくいいって」

ご満悦の笑顔につられて笑いながらも、少しだけ文句を言う。

「え~?。おれは大吟醸がいいのに」

「うふふ、そう言うと思ってネットで蔵元に注文しちゃった。男山。でも、5升だけよ。宮城の地元の人たちのためのお酒だから、もう、残り少ないんだって」

「サァンクス!」


 土曜日の遅い朝の食卓にグラスワインと大吟醸が並ぶ。

カノの好きなムール貝のチーズ焼き、トマトとアボカドのココット、おれの好きな角切りビーフ、サラミとマグロとクルトンを散らしたシーザースサラダ。

それに新鮮な塩エビのグリルとホタテ貝柱のバター焼き、天然酵母のパン。

どれもありふれた簡単なものだけど、素材がいいとシンプルなほうがかえって美味い。


 「湘南は、さ。本来は大磯のことなんだぜ。二の宮なんか、もう小田原!」

「やだ、出たっ。地元民~」

ワインの酔いに促されて、都内出身のカノはいつもより賑やかに笑う。

「あははは、じゃ、発狂するコト言っちゃおうかな。うふふ、あのね、茅ケ崎にはカーストがあるんだって。駅から山側の北が下で海側の南が上。知ってた?」

「は?なにそれ?だ~れが言ってんの?おれ、そんなの承認した覚えね~ぜ」

大人気ないが、山側生まれのおれには聞き捨てならない。

思わず気色ばむ。

「でしょうねぇ。たぶん、不動産屋の陰謀よ。昔は東海道の宿場とかあって北側に人家が集中してたから、海側の南側は土地が安かったのよ、きっと。それで一計。サザンの桑田なんかが海側だから、その知名度に便乗ね。移住者たちにリゾート風の高級感をあおって、あこがれの地に画策。見事、逆転成功。じゃない?」

「う~ん、あり得るな。でも、冷静に考えれば東京でも神戸でも高級住宅地って山の手じゃん」

「だからぁ行政もバッチリ絡んでるのよ。ホント思うんだけど、エメロードとかサザンビーチCとか発想貧困よねぇ」

「ま、地頭が悪いんだろ~な」


 役所が聞いたらそれこそ発狂しそうな会話を続けながら、自然に4Fのベランダに目が行く。

「あ~、煙ってるぅ。今日は洗濯物干せない。塩と砂の来襲。塩害、大したことないなんてウソよね。ガラス拭いたばかりなのにぃ」

「家電も寿命短いしな。だから山側にしろって言ったのに。もろ、不動産屋の手に乗るんだから」

「だって、一面の海は憧れだもん。地盤が弱いって言われてるのに、海近のタワマンに人気が集まるのと同じ。都民は青いニンジンに弱いのよ」

「カースト上位にもだろ」

「は?なにもう。その言い方」

平手で叩いてくるのを笑ってよけながら、茅ケ崎もずいぶん変わったなと思う。

いつの間にかゴルフ場がいくつもできて、豊かだった緑が虫食い状態に変わり、家も車もウジャウジャ増えて地元民の自慢だったのんびりした風情と開けっ広げのおおらかさがなくなった気がする。

移住者が増えるのは、たぶん住みやすいからいいんだろうけど、カーストなんか作られちゃせっかくの地元が台無しだ。

 



                    ◇



 「あ、スマホ鳴ってる」

カノがリビングダイニングから立ち上がって、やはり海の見える自室に消える。

ごく普通の2LDK角部屋のこの家は、南東に見渡せる海だけが他の物件を圧倒できるのだ。

そのために地盤を上げてあり、防風林と道路越しに1Fでも海原を垣間見られる。

「どしたの?」

なんだか気がかりそうに戻ってきた彼女に声をかける。

「うん…。ちょっとあたし、出てくる」

「え?誰からの電話?」

「うん、いつもの人。昔の知り合い。…とにかく行って話してくる」

すでに着替え終わっていて、手早くマスクだけ付けて出て行こうとするのを呼びとめる。

「待てよ、その知り合いが何の用事よ?男?女?」

「男」

短く答えて、目の前でドアが閉まる。


 立ちすくむ感じで取り残された。

心が今日の海みたいに白く波立つ。

そう言えば半年くらい前から、メールの着信音が目立っていた。

その後、電話のコールに変わり、そのたびにカノが席をはずして話しこむ。

気がかりではあったものの、彼女を信じて放置していた。

それがいけなかったのだろうか?


 心の動揺が指先に出て、グラスを取り落とす。

アイアンのテーブル脚に当たって、いとも簡単に飛び散ったのはバカラのパルメだ。

幻の鳥のエッチングが特にカノのお気に入りだった。

(っちゃぁ)

イヤな予感が砕けたグラスに重なる。



                  ◇



 駅前、南口の小じんまりした喫茶店。

いくつかのカウンターとテラス席。

テラスのひとつに目的の人がいた。

懐かしいというより、昔より大物感が出ていてちょっと取っつきにくくなってしまっている。

「遅い」

彼の前に立つなり、開口一番、額にしわを寄せて非難された。

神経質そうな長い指でカップをつまみ、すっかり冷めたコーヒーを喉に放り込む。

「あ、ごめんなさい…お久しぶり…」

ちょっと他人行儀な彼女の声に片眉を上げて一瞥し、それから大仰な身振りでひざ下を振り上げて足を組んだ。

「電話でも言ったろ。4年ぶり。で、とにかくボクのほうはOKだ。しっかし、きみがボクを裏切るとはね。ま、その件については問わない。4年も一人でいろというのは酷なことだろうから」


 性急な口ぶりも態度も昔とちっとも変っていない。

自信満々で切れ者だ。

日米の最高学府を出ていて弁も発つし、外国語も複数を巧みに操る。

現在は日本有数のLNG(液化天然ガス)プラントの設計施工会社に職を得ていて、オーストラリア北部ダーウィンでのプロジェクトを成功裏に終え、6ヵ月ほど前に帰国したばかりだ。


 「あの、山科(やましな)さん。あたし、あなたから連絡があってから、ずっと言い続けていたと思う。もう、昔のことは忘れて。本当にごめんなさい。学生のころ、あなたは憧れだった。でも、経験を積んで少し大人になったから思うの。あたしは山科(やましな)さんにふさわしくないって…」

「だから?」

「うん、だから…どうか…別れてください」

この言葉をこの半年、もう何度言ったことだろう。

「はあぁ?ひな乃は自分の言ってることがわかってないっ。ボクの想いは4年前とちっとも変ってない。それで充分だろ~が。ボクは寛容にもきみの心変わりを許すと言ってるんだ。精神的に未熟なのも咎めない。きみはボクのもとでボク好みの洗練された女性に成長する。そうすべきだ。それがきみのためだ、最高の幸せじゃないか」

山科(やましな)の答えもいつも同じだ。

彼女は困惑して口ごもる。

かつてはその強引さが魅力でもあった。

6歳年上で、余裕ある鷹揚な態度で彼女を子供扱いし、大人びた口ぶりで常にリードしてくれた。

リッチでおしゃれで都会的。

男性経験の少ないひな乃には理想的なカレだった。

だが、今のカレと巡りあってからは、少し違ってしまった。

山科瑛輝(やましなえいき)は本当に彼女を愛してくれているのだろうか?

彼が口にする愛は彼女へのものでなく、本当は彼自身の自己愛に起因するものでは?

彼はペットを愛でるように、ひょっとしたら植物を育てるように彼女を矯め、育成し、まるで光源氏のように理想の異性創りを求めているのだとしたら…。


 今のカレは瑛輝(えいき)とは根本的に違う。

同い年の彼は等身大の彼女を認め、愛し、それに喜びを見い出してくれるのだ。

ひな乃は自然体でいられる新しいカレとの日々が、どれほど自由で心地よいかを知ってしまった。

対等に交わす愛情の自然さとお互いの情愛の交歓、慈愛のもたらす豊かで満ち足りた時間。


 「ったく、ラチが開かないなっ、きみは」

イラだった声にビクッとする。

「あ、あ…ごめんなさい」

小さくなって謝罪する彼女に目もくれずにウェイトレスを呼び、5千円札をテーブルに叩きつける。

「会計だ、釣りはいらない」

そのまま足早に店を出てしまう。

「どこへ行くの?ね、どこへ?」

追いすがるひな乃に、瑛輝(えいき)は当然のように宣言した。

「きみの家だ。グーグル・マップで検索して、すでに知っている」



                  ◇



 丹念にガラス片を拾い集め、モップをかけた。

これで破片を踏む危険はないだろう。

氷温まで冷やしたシャイン・マスカットを噛みながら、防風林越しの海を見渡す。

グレーに陰った江の島の上で展望灯台が不機嫌に反射し、波もよくないらしくサーファーの姿もまばらだ。

なんとなく孤独な海にあてもない視線を走らせたまま、所在ない時間がゆるゆると過ぎていく。

待ちくたびれる思いで玄関のほうに目をやった時だった。

カチャリと聞き慣れた音がして、ドアが開いた。


 「あ、ひな乃、悪い。パルメ割っちゃっ…」

おれの声が途中で消える。

カノを従えるようにして見知らぬ男が立っていた。

視線はすでにおれを通り越して、無遠慮に部屋の内装を値踏みしている。

気まずいというより、ちょっと唖然とした。


 「あ、あの、いきなりでごめんなさい。山科瑛輝さん…なの」

ひな乃の声に我に帰る。

「あ…御ノ門岳人(みのかどがくと)です。…初めまして」

山科は海外の礼儀に慣れた様子で握手を求めてきたが、社交辞令が見え見えのあっさりとしたものだった。

「急だったからね。悪かったかな?」

悪いだなんてコレッパッチも思っていない、押しつけがましい声だ。

「あ、いえ…」

如才なくやり過ごす。


 ひな乃が手早く食器を片づけ、茶を入れて出す。

それに見向きもしないで、ワインクーラーの中でまだ冷えているおれの吟醸酒を手に取った。

「ボクはこれにする。グラスを」

「あっ、はい」

カノの緊張した声が、なんとなく神経をイラ立たせる。

突然やってきたこの招かざる客の意図が薄々わかるだけに内心、気が重い。

ひな乃が以前、ちょっとだけ話してくれた「大好きだった前のカレ」なのだ。


 「学生ではないようだね」

声とともに日本式の名刺が差し出され、石油プラント筋の超有名会社の写真の下に主任技師とあった。

「あ、おれは服飾小物の工房やってます」

こっちも素早くサイフから抜き出す。

山科の目が光った。

「お、いいね。これ」

名刺をそっちのけで人のサイフをひったくる。

「うん、いい。ガード差しに緩みもあるし、コインも取り出しやすい。それにこの風合い」

「はい、ゾウ革に部分的に絹の繊維をコーティングしてあります。このほかあらゆる革、不織布、紙などを加工できます。おれが開発した新素材です」

「ふ~ん、いくらだ?」

「5万5千円です」

「安い。ゾウ革のこれを5ダースもらおう」

あっという間の商談だった。


 山科は淀みない手つきで小切手を切り、おれ入金前だが領収書を手渡した。

「工房には職人が4人いますが、工程はすべて1から手作りなので、納品には1ヶ月を見てください」

彼は事もなげに言った。

「当然だろう」


 ひな乃が大吟醸にチーズを数種添えて、そっと出してきた。

「どうぞ…お口に合うかどうか」

それに鷹揚に、

「うん」

と、うなづく。

それがカノというより、使用人かメイドのように見えるのはなぜだろう?


 「きみはボクのことをひな乃から全く聞いていないのか?フィアンセ、つまり許婚(いいなづけ)だ。ボクの親も彼女のご両親も2人のことを喜び祝福している」

「はぁ…。そこまでのことは…初耳です」

思うに山科瑛輝とひな乃の恋愛感情にはすでにギャップがある気がする。

どう思い出しても彼女からは「昔、大好きな人がいた」としか聞いていない。

そしてこの4年間、忙しいという理由でカレからはほとんど連絡はなかったのだ。

そう、少なくとも帰国する半年前までは…。

仕事で海外に長期出張し、会うことはもちろん、連絡も途絶えたとしたら…?

つまり、ひな乃の中では山科はすでに過去の人になっていた可能性がある。

その証拠に彼女は玄関ドアを開けながら「昔の知り合い」と言って出て行ったのだ。


 一方、山科は仕事人間にありがちな集中力で、オーストラリア滞在中は仕事に専念した。

もちろん、彼女のことを忘れていたわけではないが、お互いの親たちが承諾した許婚という安心感と自信で、彼女への思いやりが疎かになったのだろう。

自信家の男にありがちは恋愛上のミスで、自分に心変わりがない限り、相手は絶対に変わらないという間違った妄想に取りつかれていたに違いない。




                  ◇



 少し沈黙が続いた。

山科は額にしわを寄せて酒をあおり、ひな乃は硬い表情でうつむいたままだ。

おれはたぶん、困惑しきった顔をしていたと思う。

「きみが身を引くべきだ。きみは獲物を咥えて逃げるノラ犬のように、ボクから彼女を奪おうとしているのだから」

「……」

返事が出来なかった。

理屈は確かにその通りかもしれなかった。

だが、彼女の気持ちはどうなる?

山科とひな乃の愛情の温度差こそ、問題にされるべきではないのか?


「山科さん。状況を見てください。おれに言わせてもらえるなら、あなたはひな乃に冷たすぎたと思うんです。仕事に集中したいからと、4年も放ったらかしにされたらどう思うでしょう?愛は終わったのではと疑い、自分の恋愛感情も整理していくのでは?」

彼は不審そうに眉を跳ね上げる。

「きみはおかしなことを言うね。ボクが仕事に集中したかったのは、彼女との将来を重く見たからだよ。彼女への責任感だ。だから、オーストラリアに発つ前に婚約もした。ひな乃もそれを十分わかっているはずだ。事情も知らないくせに、妄想でものを言うのは愚かなことだな、きみ」

少しため息の出る気がした。

山科は彼なりに誠実に彼女を愛したのだ。

だが、その中には彼自身の我、思い込み、上書きできないエゴが濃厚にちらつく。

人を愛する上でそれは危険なことなのに、山科は全く気づいていないどころか、それこそが彼女への愛だと勘違いしているのだ。


 ひな乃が遠慮がちに言葉を添えてきた。

「山科さん、ごめんなさい。本当にいつも同じことしか言えないけど、わたしはあなたが思っているような女性にはなれないと思うんです。この4年間で自分の限界が見えてきた気がするの。わたしは怠け者だし、頭もそんなに良くないし、性格だって弱い。それに引き換え、あなたは海外で実績を積み、評価も高いわ。私はあなたにふさわしくないし、あなたの理想も壊してしまうと思う」

山科は少し笑った。

それが鼻先で嗤うように見えるのは偏見だろうか?

「そんなに自分を卑下するな、ひな乃。きみにはボクがいる。今度のことだってご覧。きみが他の男に目移りしたとしても、ボクはそんなこと問題にもしていない。ボクを信じればいいんだ。とにかくここは引き払いなさい。御ノ門岳人(みのかどがくと)…くんかな、少ないがサイフの代金がきみへの手切れ金だ。どちらの名義の家か知らんが、どうせ賃貸だろ?こんな田舎に住まなくても、ひな乃には広尾のマンションが借りてある」

いちいち引っかかる言葉だった。

特に末尾。

茅ケ崎は確かに田舎だが、地元民にとっては誇りの地域なのだ。


 「お願い、山科さん」ひな乃の声が哀願に変わった「ね、どうかわかってください。わたしはもう、あなたとはやって行けないの。あなたの気持ちに添えなくて、本当に心苦しく思ってます。でも、このまま行ったらお互いにダメになる。わたしにはそれが見える気がするんです。別れてください。わたしはたぶん、もう、あなたを愛していないと思う」

決定的な言葉だった。

「なんだって?」さすがの彼も少し狼狽する「本気か?ひな乃。どういうことだ?いや、この男がきみに言わせてるんだな」

もう、潮時な気がした。

恋敵のおれがいてはこじれるだけだ。

「あ…。おれ、席を外します。そのほうがいいみたい。でも、断っときますが、ひな乃の言葉はすべて彼女の本心です。彼女に口裏を合わさせるような卑怯な真似はおれはしませんから」

立ち上がるおれに山科は上目づかいにギラッと視線を投げた。

ちょっとキレた感じの危ない眼差しだった。


 「いや、いい。ここにいろ」

重量感のある声は有無を言わせぬものだった。

おれは黙って素直に席に着き、彼はおれにまともに向き直った。

「ケットウするか?」

「えっ?」

血糖、結党、血闘、血統…瞬間的にいろんな漢字が浮かんだが、ピンと来ない。

性急な彼にはとまどっているおれがもどかしかったのだろう。

イラつきながら言葉を補った。

「手袋でボクの横っ面を張る度胸があるかと聞いてるんだ」

これでわかった。

彼はヨーロッパ貴族式の決闘を言っているのだ。

「えっ、あ…いいですけど、銃ないし、法治国家だし、ルール知らないし…」

あんまり現実感がわかない。


 「銃は必要ないさ」

山科は落ち着き払って、テーブルからアイスピックを取り上げた。

ワインクーラーの氷を適宜に砕くために置いてあったのだ。

「ボクが滞在していたオーストラリアは流刑の島でね、政治犯なんかの貴族も送られたんだ。その伝統が今も生きている。もちろん、日本と同じ法治国家さ。銃も禁止だし、私闘も許されていない。が、コレを使う」

彼が渡してきたので、普通に受け取った。

握り手の上に15センチの鉄串のついた一般的なものだ。

「ルールも簡略だ。日時と場所を決め、双方から数人の立会人を出す。アイスピックは立会人たちが共同で全く同じものを用意する。そして全員が平等を確認したのち決闘に入るのだが、死ぬまで闘ったりはしない。どちらか一方が怖気づいて詫びを入れたり、傷付いて戦意を失ったりした時点で、即、終了になる」

「はぁ、わかりやすいです」

「だろ。オーストラリアではこの決闘は名誉あるものとされていて、敗者はそれを恥じる。けがの程度や場所にもよるが、アイスピックの傷は口径は小さいが深いものが多い。第三者に負けを知られたくなくて医者にも行かずグズグズしていると1~2日、せいぜい4~5日で地獄の門をたたくことになる。うちのプラントでもそんな技師や労働者が数年にひとりふたりはいたよ」

「ああ…敗血症か何かで。怖いですね。でも、負けた人の気持ちもわかりますね。名誉に殉ずるんだ。そういう男は信用できる」共感の言葉が出た「日本でも名誉をかけた果たし合いは明治22年には非合法になりましたが、戦後まで続いていましたから。さすが武士道の国だと思います」

「うん。それだけは意見の一致だな」

山科がほほ笑むのを初めて見た。


 おれの目も輝いていたと思う。

南半球のオーストラリアで今なお、こうした身体を張った原始的な私闘が水面下で行われているのも意外だったが、それに血が騒いでしまう自分にも少しびっくりした。

男は人類に進化した元初のDNAを、この身体の中に色濃く保っているのかもしれなかった。


 


                  ◇




  「やめて、もう」今まで半信半疑のようすで黙っていたひな乃が眉をひそめて止めてきた「山科さんも岳人(がくと)くんもおかしい。そんな怖いこと真面目に話すなんて」

「怖くはないさ」

山科は子供をあやすように軽く言ったが、もう、その話は持ち出さなかった。

「話を戻そう。いいか、御ノ門(みのかど)くん、女性の気持ちにはつかみ難いところがあってね。マリッジ・ブルーやマタニティ・ブルーなどはきみも聞いたことがあるだろう?ひと口で言えば来るべき変化に対する恐れだ。現状を維持したい願望が結婚そのものを否定したい気持ちや、パートナーを信頼できない気にさせたり、他の男に愛情が移ってしまった錯覚に陥らせたりする。だが、ほんの一時的なものだ。ボクはひな乃を信じているし、彼女にはボクしかいないんだからね」

「はぁ…まぁ」

説得に窮した気がした。

彼の鉄壁の自信の前にはどんな言葉も綿の礫(つぶて)だ。

心理学者のような冷静さでひな乃の言葉を分析し、さまざまな事例を引いて結論を導き出す。

一見、公平で正論、愛情ある行為に見えるが、その実、彼は自分に都合のいい事実、用例、言葉しか見出さない。

カノを見守っているかの優しげな眼差しは、AIのように無機質な非情さを裏に秘めている。

彼の歓心は常に自分自身の目的完遂にあり、常に彼自身の意思の成就に向けられているのだ。


 おそらくひと晩じゅうかかっても妥協点は見いだせないだろう。

「山科さんお願い。もういち度だけ考えさせて。あなたの言うとおり、マリッジ・ブルーかもしれない。ひとりで思いっきり考えてみたいの。それで同じ結論が出たら、あなたにあきらめて欲しい」

ひな乃の言葉に彼は思った通り首を振る。

「ははは。単なる気の迷いにそこまでする必要はない。結論が見えていることに時間をかけるのは価値的でないからだ」

「待ってください、山科さん。結論が見えているって、あなた、ひな乃の心が読めるんですか?さっき、あなた自身、『女性の気持ちにはつかみ難い』って言ったばかりじゃないですか。彼女の心は彼女に任せるべきです。おれやあなたが口出しすべきじゃない。ビジネスだってそうでしょう?商談で迷ってる相手に性急に結論を迫ったら、まとまるものもまとまらなくなることだってある」

山科はちょっと黙った。

ビジネスに例えると彼はよく理解するようだった。


 「うん。では、こうしよう。ボクが購入したサイフの納期と同じ1ヵ月、彼女に考えてもらう。納入と同時に結論を出す。これでいいな?ひな乃」

「ええ、ありがとうございます」

彼女が頭を下げると、彼はフッと立ち上がった。

そして彼らしい性急さで玄関に向かったが、ふと立ち止まり、手にしていたおれの名刺を事も無げにピッと指ではじき飛ばした。

小さな紙片は見事にテーブルに着地した。

おれを舐めきった動作だった。

「山科さん」とっさに口走っていた「じゃあ、おれ、納期までひな乃と別に暮らします。一切、会わない。それで彼女がどんな結論を出しても、おれが言わせた言葉でないと納得してください」

「好きにするさ」

取り合わないというか、全く問題にしていない返事だった。

彼はそのままドアの向こうに消え、別れの言葉すらなかった。


 「ヴィッシュ・ド・ノエルみたいな人だな。その心は木で鼻をくくったよう」

爆弾台風が去った安堵感が軽い冗談になった。

カノは少し笑いかけたけど、言葉はため息交じりだった。

「悪い人じゃないんだけど…」




                  ◇

 



 山科瑛輝(やましなえいき)への約束はきちんと履行された。 

ひな乃は両親への状況説明と説得のために都内に帰り、おれも本村町の家にもどったので、海の見えるこのマンションは一時的に空き家状態になった。

神社や寺の複数ある古い町の一角にあるおれの家は明治から続く歯医者だ。

大時代的な御影石の門柱には『御ノ門齒科醫院』と書かれた陶器の表札が埋め込まれている。

木造2階建ての診療所兼住居は、明治期の和洋折衷の希少さから患者以外の注目も集めていて、近隣に迷惑をかけないように庭園をすべて潰して広げた駐車場には、スマホを手にした人がたいてい1人2人はウロウロしている。

ロード・マップにはそんな人たちが投稿したらしい実家の写真がズラリと出てくるのだ。


 「あ、岳人(がくと)いたのか?カノに振られてご帰還か。おまえの部屋そのままにしてあるけど、ホコリできったねぇぞ。先ず掃除しろ」

後を継いだ兄貴は医者らしい几帳面さでそんなことを言って、そそくさと治療室に戻って行く。

薬剤師と医療事務資格を持つ兄嫁の如才ない人柄もあって、親父のころより患者は倍増している。

「おい、お父さんはな、今忙しいから食いものは自分でとって食え。歯科医は前のめりで仕事するだろ、近頃、腰痛くてさ。おまえも手伝うか?ま、ムリだな」

ニコニコと顔を出した親父の言い草もこのありさまで、家に戻ってもこれといったもてなしもない。

ポツンと店屋物を取ってボソボソ食っていると、兄から聞いたのだろう、兄嫁が大急ぎでやってきた。

「岳(がっ)くん、ゴメンねぇ。ほら、お茶でも飲んで」

手早く消毒した手で、濃い茶を出してくれる。

「秀斗(しゅうと)さんに聞いたんだけど、本当にフラれちゃったの?」

「え?兄貴、ひでぇな。ま、可能性は否定できないんだけど…カノ、婚約者がいたんだ」

「あら、まぁ。でも、彼女、ちゃんとしたおうちの子なのね」

話しながらも甲斐甲斐しく、菓子折を出してくる。

「患者様にいただいたパウンドケーキ。有名なお店なんだって。おいしいわよ」

「サンクス。…あの、義姉(ねえ)さん。聞くけど婚約って気が変われば解消できるんだよね?」

未熟な質問が出てしまう。


 「やだ。あったり前でしょう?婚約解消に困難があったのは、都会ならせいぜい昭和初期までかな?彼女、そんなことにこだわってんの?」

「いや、相手の男がさ。成功体験しかない自信家野郎で、その分、人の気持ちがわからない。技師だからいいけど、医者には絶対NGタイプだよ」

「あはは、岳(がっ)くんが最も軽蔑するヒトね。そういう人って山より高いプライドだから、気をつけないとコジれるわよう」

兄嫁はもう1杯、茶を入れてくれて「ごめんね」と言って去って行った。

忙しそうなスリッパの音が遠ざかると、古い日本家屋はシンと静まり返った。

ま、考え事をするにはいい環境のようだった。


 「久しぶりにスパで風呂入って夕飯にしよう。岳(がく)が好きだった烏帽子岩カレーも健在だぞ。薫子(かおるこ)さんもどう?いっしょに」

「いえ、私は…。たまには親子水入らずで行ってきてください」

親父に兄嫁が気を使っている声が聞こえる。

診療は18:30までだが、終了はたいてい19時をまわるのだ。


 あまり知られてはいないけど、茅ケ崎には数か所天然温泉が出る。

その1つが家から徒歩圏なのでたまに利用していた。

円筒形全面ガラス張りのデイ・スパは2Fに湯船があり、3人でのんびり岩ぶろ風の露天につかってから宴会に突入する。

「いやぁ、疲れたな。もう1人か2人、医師を入れますか」

「うん。おまえの友人にイイのいないか?岳は掃除夫ぐらいにしか使えんからなぁ」

兄貴と親父がビール片手にからかう。

「岳は要領悪いから便所掃除にも使えないでしょ。今回だって、2年も付き合ったカノに逃げられそうなんだから。それにひきかえ、おれは薫子(かおるこ)さんをゲット。兄弟でここまで差がつくかなぁ。あははは」

男の親兄弟なんてこんなものだ。

うっかり弱音や愚痴でも言おうものなら、鼻先であしらわれてしまう。

「ま、それでも岳の工房は案外評判いいぞ。知人にファンがいてね。使い勝手がいいってホメられた」

「ああ。確かに。小物にうるさい友達の中にも絶賛するヤツがいて…その点は大したもんだ」

上げたり下げたり忙しい家族だった。




                  ◇




 実家と辻堂駅前の工房を往復するだけの、味気ない日々が4週間ほど続いた。

カノがどんな結論を出そうと動揺はしないつもりだが、やはり気になっていたころ、スマホの着信だ。

「あ、ひな乃。で、どう?」

性急な言葉が出た。

「うん。結論はやっぱり変わらないよ。両親はびっくりしていたけど、結婚するのは親じゃないからって言ってくれたし。で、ね、岳人くんは当日来ないで。男同士だと張り合っちゃったりすると思うの。わたし1人でもちゃんと話せるから」

「大丈夫?彼、思い込みキツそうだけど?」

「うん、それ…。本当にそれ。昔はそれがすっごくステキに見えたの。わたしへの想いの強さが言葉や態度に出てるんだって思えて。でも、今は気がついたの。彼は理想を愛してて、お人形みたいなわたしに焦がれてるんだなって」

「だろうね」

「でしょ?ね、来ないで。わたし、あの人にきちんと納得してもらうつもりだから。ね、大丈夫。信じて」

「…わかった。言うとおりにする」

「良かった。じゃね」

明るく言って短い電話は切れた。


 そう、ひな乃の言うように、おれはいないほうがいいかもしれない。

相手の敵愾心を掻き立てるような行動は避けるべきだ。

恋敵の前ではたいていの男が好戦的になるのだ。

一応、兄嫁に話すと、笑いながら

「そうね。彼女、賢明だわ。当事者は彼と彼女よ。彼の言うとおり岳(がっ)くんはノラ犬」

という返事が返ってきた。


 約束の当日、おれはマンションには行かなかった。

イラつく気分で部屋にこもり、ベッドに転がってコミック片手に時間をつぶしたが、どうにも間が持てない。

しまいには待合室に入って患者のフリをしながら、あてもない時間を消費するありさまだった。

蝸牛のような時が過ぎ、午後も遅くなったころだ。

突然のスマホの着信。

イヤな予感にためらう。

「…あ…あの。御ノ門ですが…」


 「今どこだ?すぐ来い」

山科の声に即、行動する。

車を飛ばして駆けつけると1ヵ月ぶりの室内は案の定、重苦しい雰囲気だ。

ひな乃の説得は功を奏さなかったのだ。

彼女はダイニングテーブルに両肘をつき、顔を隠すように手で覆っている。

声を押し殺して泣いているのがわかった。

おれを心配させないためだろう、涙をぬぐおうと急いでミニタオルに手を伸ばした時の異様に赤い頬。


 「山科さんっ、あんた、ひな乃を叩いた?」

気色ばむおれの声に、彼は平然と反応する。

「当然だろう。彼女は錯乱している。正気に戻すための平手打ちは効果がある」

「そんな…。ここはオーストラリアではないでしょっ。日本の男は女は叩かない。どんな時でもね。あんたはいつもそうだ、自分の目的のためなら何でもする。無駄吠えの犬畜生でも叩いてりゃいいっ」

「こんなことできみも錯乱か?情けないな。ひな乃は自信喪失している。自分を過小評価するあまり、ボクとの結婚を疑問視するに至っている。自己肯定が異様に低い。こんな心理状態させたのはきみの責任だぞっ」

「違う。山科さん。彼女は等身大の自分でいたいと言っているだけです。あなたは自分の理想の女性像を強引に押し付けようとしている。それは愛ではない、エゴだ。彼女はそれに気づいたからこそ、あなたと別れたいと言っているのです」

「非難の後はボクに責任転嫁か?ボクが悪いと?馬鹿を言うな。きみが現れるまで、ひな乃は希望に燃えてボクと同じ方向を見ていた。ボクの理想を彼女も理想としていた。それが彼女の本来の姿だ。きみの出現でひな乃は堕落し、現状に甘んじるようになってしまった。その責任はどうとるんだ?」

「過去の彼女はあなたの言うとおりだったかもしれない。いや、言うとおりでしょう。でも、人は変わるんです。彼女はそれを未熟だった自分が成長したからだと認識しています。傍から見ておれも同意見です。いみじくも彼女は言っています。あなたは人形のような彼女を愛しているのだと」

「馬鹿な。100歩ゆずってひな乃が変わったとしよう。だが、その変化は明らかに退歩だ。彼女を愛する者としてそれは見過ごせない。是正しなけれないけない。彼女にとってきみは必要ない。責任をとって一言謝罪が欲しかったが、とる気がないなら消えることだな」


 思った通りの平行線だった。

ちょっとためらったがおれは抑えに抑えた言葉を口にしていた。

「山科さん。過去を上書きできないあなたの現状認識のなさ。その異常な思い込みの強さは脳の欠陥ですか?他人を思いどおりにしようと執着するさまはまるでサイコパス(反社会性人格)そのままだ」

「なんだとっ」

「やめてっ」

ひな乃が激しくさえぎった。

「お願い。わたしはもう、山科さんとも御ノ門くんとも付き合いたくないの。1人になりたい。ねっ、もう争わないで。わたしを1人にしてくださいっ」

悲鳴のようだった。

山科瑛輝が物も言わず激しく立ち上がった。

再び彼女を叩きそうな勢いに、素早く間に割って入る。

「外に出ましょう、山科さん」

     



                  ◇



 「待って。どこに行くの?」

ひな乃は不安げに玄関まで追ってきたが、おれも山科も取り合わなかった。

互いに無言のまま沿岸道路を越え、防風林を抜けて砂浜に出ると、夕焼けが終わった空に名残りの紅色が少しだけ残っていた。

サイクリングロードの先にあるヘッドランド・ビーチに立ち、灯台の明かりに飾られた江の島を振り返る。

「山科さん、決闘しましょう。おれが勝ったらひな乃のことをスッパリ忘れる約条で」


 唐突に思えるこの提案は、実は以前から考えに考えたものだった。

ほとんど病的に見えるひな乃への執着は、おそらくショック療法でしか上書きできないのではないか?

彼女やおれが百万遍、真実を言ったところで彼の心には届かないのだ。

それどころか精神の未熟さからくる、単なる気の迷いとしか認識しない。

意地や嫌がらせでなく、本当に本心からそう思っているのだ。                       

本人の資質もあるだろうが、おそらく賞賛や傾倒、賛美に満ちていたであろう半生が、彼の異常な自己肯定感と自信を助長させるのだろう。

そう考えれば彼は、ただひたすら表面の学歴や実績のみを評価して内面を見ない、世間の浅薄な人間観の被害者ともいえるのだ。

ひな乃の言うとおり、確かに悪い人間ではない。

だが、悪意でないだけに根は深いのだ。


 「いいね」彼は微笑する「名誉と女性をかけた闘いは男の美学だ。で、きみが負けたら?」

「おれ、すべてあなたの言うがままになります。なんでも命令してください。死ねと言ってくださってもけっこうです。ただし、悪事はダメです」

「ふっ、ボクにとっては損な条件だな。きみ如きを思い通りにしたところで、なんのメリットがある?だが、条件は馬鹿げているが提案は魅力的だ。受けよう」

「ありがとうございます。感謝ですっ」

思いっきり頭を下げていた。


 「ルールについても提案があるんですが」勢い込んで話す「立会人は立てたくないんです。現代の日本では暴力沙汰はご法度どころが、低級な行為だと軽蔑の対象になる。途中で止められたり、もしかしたら通報されてしまうかもしれない。そうなったら台無しだ。それから、アイスピックも必要ない。腕力で、生身の体で殴り合いたいんです」

山科は笑顔を深くした。

基本的に彼もこうした話に血が騒ぐタイプらしかった。

「うん、その提案もいい。が、ボクは筋トレやスパーリング程度なら常時やっている。プラントでは運動不足になりがちなので会社が奨励しているんだ。そんな状況ではきみが不利にならないか?」

それも織り込み済みだった。

彼については初対面からそんな感じがしていたのだ。

仕立てのいいスーツの下のガタイはしっかりと鍛えられたものだったからだ。

「いや、おれは学生時代、馬術をやっていましたから。社会に出てから止めてますが、今でも脚力腕力、瞬発力、バランス感覚は常人の比ではありませんからご心配なく。馬って時々暴発するやつがいるんです。その時の1馬力って、かなりアレですよ」

「ふ~ん、なるほど」

「あと、場所ですけど、ここから北東方向の甘沼というところのゴルフ場に隣接して、残土や古材なんかの資材置き場があるんです。道路より高くなっていて、一応、ゲートやフェンスもあるけど、いいかげんなもので出入りは自由。敷地には街灯があって、真っ暗ではない」

彼の笑顔は哄笑になった。

「あはは、素晴らしい。いつにする?ボクは今からでもいいが?」

余裕の言葉だ。

「え?ホントですか。じゃ、おれの車で早速、行きますか」

おれも即、その気になる。

お互いにグズグズしていて気が変わってしまったら元も子もない。





                  ◇




 マンションの駐車場からはひな乃のいる部屋が遠く見えた。

心なしか少し暗く見える明かりの下で、彼女は1人、思いに沈んでいるのだろう。

「しかし、きみも妙な男だな。ひな乃はボクともきみとも別れたいと言っている。それなのに決闘か?」

「いや、山科さん。おれや彼女にとって、あなたはそれだけ恐怖なんです。彼女がいくら本心を言ってもあなたは自分がフラれたのだとは認識しない。婚約を盾に取って、あなたは堂々とストーカー化するでしょう。だったら、おれは勝つか負けるかの勝負をして、できればあなたを打ち負かしたい。そうすればプライドの高いあなたは、ひな乃への執着を自ら捨てようとするでしょうから」

「ふ~ん?なにやら思い切ったものだな?確実に勝てる保証もない」

彼の返事は他人事だ。

愛する者への脅威や障害を出来る限り除去したいと身体を張るのは男の愛のひとつだが、山科瑛輝にはそれは理解できないようだった。

茅ケ崎高田郵便局を目指してひたすら北上する。

そこから先は少し東寄りに進路を取れば目指す甘沼の資材置き場だ。


「おれ、山科さんと話して、ひな乃が最初あなたに魅かれたワケがわかりましたよ。さっき、あなた、自分はスパーリングとかやってるから、おれが不利にならないか、と言ってくれましたよね」

「うん」

「それを一般の人たちは自分のことを思いやってくれた、と認識するんです。公平な人だ、とも。でも、勝利を確信しているあなたは弱いものと闘っては自分のプライドが傷付くと考えてる。結局、自分のことだけ。一事が万事のそんなエゴ、時間がたてばヒトを疑わないひな乃にだってバレますよ。おれ、がんばって絶対、彼女をあなたから引き離して見せますよ」

「ふっ」彼は鼻先で笑った「勝手にボクの心理分析とはきみもおかしなヤツさ。一体何様のつもりなんだ?」

「おれはただのおれです。でも、あなただって十分、変なヒトだ。こうして決闘しようというのになぜかあなたが憎めない。おれ、思うんです。正々堂々と勝敗を決することによってひょっとしたら理解しあえるんじゃないかって…」

山科は眉を跳ね上げる。

「甘ったれた美学だな。だが…ま、その点にはシンパシーを感じておくか」


 行く手に白く現場打ちの擁壁が見えてきた。

「ここです」

そのままスロープを上がり、ゲート前で車を降りる。

山科は事もなげにシャツを脱ぎ捨て、ランニング姿になった。

夜目にも日本人離れしたいいガタイだ。

半開きの扉をすり抜け、土砂や木材に囲まれた広場に立つ。

オレンジの街灯の明かりが孤独にあたりを照らしていた。

少し湿った山の匂いに深呼吸する。

「うん、いいところだ」

彼は軽くステップを踏みながら筋肉をほぐし、おれも伸縮運動をして気分と身体を解き放つ。


 おもむろに向き直って握手をした。

お互いの顔には微笑が浮かんでいる。

なかなか胴に入ったボクシングの構えをする山科瑛輝を、間合いを取って近づけない作戦だ。

絶え間なく左右に動き、隙を突いて背にまたがり、後ろからネックブローをかける。

同時のニーグリップは彼に音を上げさせるだろう。


 「じゃ、よろしくお願いしますっ」

開始のゴングはおれの声で発した。

瞬時にひな乃のことも勝敗のことも頭から吹っ飛ぶ。

多少の恐怖を含んだ緊張感が、強い高揚を伴っておれを満たす気がした。


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茅ケ崎随想 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

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