悪夢

 いい夢を見たあとの目覚めというのは、なんだか素直な心地よさでなかった。

 喉元に刃物の切っ先がぷすりとわずか刺さっているような、微妙みみょうな不安が胸中に広がる、気持ちの悪い心地がするのである。

 だから男は、日中常に『悪夢を見る方法』なんてのを研究していたし、悪夢にうなされたあとの目覚めが、格別に爽やかであることを信じて疑わなかった。

 男は悪夢を見たことが、未だかつて無かったのである。

 周囲の人間はことさら悪夢を見ようとする男のことを奇人扱いしていたが、男はなかなか人格が出来ており、出色の好青年だったことから、敬遠されることもなく、社会に溶け込んでいた。

 

 男は大学四年生だった。


 「どうして君は、そんなにも悪夢を見ることに固執するのだね」

 経済の講義を受講しながら、山崎は男に問うた。

 山崎と男は親友だった。いつも日脚を避けながら生活する、山崎の珍妙さ、暗澹とした目つきに男はひどく惹かれていたようであった。

 「そう云う君も、日脚を避けていきるなんてどうかしている、ビタミン不足で死んでしまうぞ」

 男がそう云うと、山崎は暗澹とした、海の奥底を思わせるような目つきで男を見つめた。

 「太陽なんて、信じれるものか。あんなもの、うそだ、あんなものが存在しているなんて、うそっぱちなのさ。だからあんなものの成分は恐ろしくて体に浴びせたくもない」

 「変な男だね」

 「君はどうして悪夢が見たいのか、聞かせておくれよ」

 男はため息をつきながらこう云った。

 「俺はいつも、いい夢ばかり見る。夢の中で、傾国の美女が俺を口説いてきたり、誰に怒られることもなく狂ったように淫蕩に耽る…杯盤狼藉に及ぶのだ。そんな夢ばかりなのだ」

 「いいことじゃないか、羨ましい限りだ」

 「いいことなもんか、夢と現実の落差に、毎度死にたくなる、この現実こそが悪夢そのものなのだ。毎日真っ当に生きてみろ、真っ当であればあるほど損をするのだ」

 男のこめかみには青筋が何本も、ぴくぴくと浮かび上がっていた。

 「それで君は、その差を埋めようと、悪夢を見ようとしているのか」

 男がなにか言葉を紡ごうとするのを、山崎は遮って続けた。

 「現実を、悪夢から吉夢に変えれば、いいんでないのかい」

 深海のように青黒く広がる山崎の目は、以前暗澹としていた。

 「はっ、この世は地獄にほかならんだろう、他人に阿って生きていくことしか、生きていく道筋はないのだからね」


 山崎はそれを聞くと、もう何も言わなかった。

 その日の帰り、男は山崎が日脚を避けながら帰宅してるところに出くわした。

 「相変わらず、珍妙なやつめ」

 男はその日も悪夢を見ることを渇望したが、まったく悪夢は見れなかった。

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刺繍記 上野駿太郎 @jariboy2w4

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