約束するから。

 背中側、身動ぎする気配でアトリアはうっすら目を開けた。

 いつもの癖で目線を上げるが、ある筈の窓が無い。

 あれ? と思っている内に、お腹に腕が回された。体に巻かれたシーツごと軽く引き寄せられると、すっぽりと温もりに包まれる。

 まさかと思い後ろを見れば、すぐそこにクロードの寝姿があった。途端にドキドキと鼓動が早く激しくなる。

 いつもは覚醒に時間が掛かるが、今日はもう眠気が吹っ飛んでしまった。


「…え、…あれ?」


 クロードのベッドとアトリアのベッドとの間にある衝立が、今日は目の前にある。

 いつもと違う体勢で視界に入ったそれが、いつもとは違う朝を知らせている。


 なんで……どうしてこっちに……?


 アトリアが寝ているのは、クロードのベッドだったのだ。ここ最近、頑なに別だったその場所へ横たわっていたことが信じられない。

 昨夜の事を必死に思い出そうと頭を巡らせる。


 夕べは確か、クロさんと一緒に花火見て、帰って来てから串にくお腹いっぱい食べて、そしたら眠くなって……

 ……その後の記憶が無いな。


 自分でここまで来た記憶もないから、きっと運んでくれたのはクロードだろうと思う。

 という事はだ。アトリアがこちらに寝ていたという事は、彼が自分のベッドにアトリアを運んだという事だ。


 ——もう子供扱いしない


 欲情を孕んだ瞳と熱を纏った声が、まるで今見聞きしたかのように鮮明に蘇る。

 その後に僅かに触れた熱も。

 無意識に自分の唇へ触れた。


 顔が熱い。思い出した途端に体も熱い。

 あの後にすぐ花火が上がり、毛むくじゃらに戻ったから良かったものの、今どんな顔をしているのか、どんな顔でクロードに向き合えばいいのか分からなかった。

 兎に角体は熱いし、バクバク鳴り続ける心臓のせいで胸は苦しいしで、一旦落ち着こうと体を起こす。

 急いで側に置いてあったシャツを着ながら、よく今までクロードの眼前に裸を晒して平気でいられたものだと今更ながら恥ずかしくなった。

 一人で悶々としていると、伸びてきた腕が腹部に回され強引に引き寄せられる。


「わぁっ」


 布団へ引きずり込まれ、大きな体にすっぽりと包まれる。今度は目の前にクロードの固い胸板が迫った。

 背中に回された腕が優しくアトリアの体を締め付ければ、心臓はあっという間に大暴れしている。

 大好きな大きな手が髪をすきながらゆっくり頭を撫でている。それにふわふわと幸せを感じながら、固く引き締まった胸板に頬を擦り寄せた。


「もう仕事か?」


 頭の上から声が聞こえる。

 ふるふると頭を振る。


「今日はお昼から」

「……そうか」


 大きな掌が不意に体をなぞっていく。

 背中から腰へ、腰から腿へ。布越しに感じる熱と感触に、体の奥から震えが起こった。

 畏怖や恐怖とは違う感覚に戸惑う。今までに感じた事の無い、知らない感覚だった。


「…っ、クロさん…仕事は…?」


 声が出そうになって咄嗟に誤魔化す。


「俺も昼から」


 眠そうな瞳が目の前でアトリアを捕らえる。

 いつもよりもずっと近しいその距離感に、身動きが出来ない。

 体をなぞる掌が、腿の産毛を逆立てるようにゆっくりはっきり撫で上げてくる。


「…んっ…」


 更にぞくぞくと肌を粟立たせるそれに抗えず、洩れ出るように声が零れた。


「もう少し、このままで」


 吐息を感じた時には鼻先が触れていた。瞼を閉じる間も無く唇が重なる。

 体をなぞっていた掌がアトリアの手を捕らえると、重なり指が絡んだ。そのままベッドへ縫い付けられれば、キスが益々深くなる。

 急な展開に驚くアトリアの心臓が、壊れてしまうのではないかと不安になる程暴れ回っている。


 子供扱いされるのは嫌だけど、これはこれでドキドキし過ぎて困る……


 そんなアトリアの思いなど露知らず。

 忘れていたからとクロードから告げられた遅すぎる「おはよう」に、唯々頬を真っ赤に染めて頷く事しか出来ないアトリアなのであった。





 夏の季が終わり、季節は秋の季へと移り変わった。

 道の脇に植えられた樹の葉が派手に色付き始めている。祭りが終わると、ベリエの食堂にも徐々に活気が戻ってくる。

 サブストリートは、大半の屋台が既に解体され、静けさを取り戻しつつあった。

 そうなると一気に辺りが侘しさに包まれる。その様子もまた秋を感じさせる要因にもなっていた。

 祭りの喧騒が収まると同じくして、今年は不穏な噂が広まりつつあった。


「いよいよ始まるらしいぞ」

「隣国との諍いが収まらないらしい」

「とうとう戦争か」

「騎士団も派遣されるようだ」

「有力者は既に国外へ逃げてるとさ」

「こりゃ王都も危ないかもな…」


 食事をする兵士達の専らの噂。嫌でもベリエやシエロの耳にまで入ってくる。二人が知るのなら自ずとアトリアも知るところとなった。

 心がざわめく。

 クロードからは出兵に関する話は全くされていない。至って普通だ。特に変な様子も無いし、何かを隠しているような気配もない。

 だから大丈夫だと思っていた。思い込みたかっただけかもしれない。

 心のずっと奥のざわざわは消えない。小さくなっただけで、ずっと燻り続けているのだ。

 胸騒ぎがしていた。気付かないようにしていたけれど、予感がある。そして、そういった予感程、何故か当たってしまうのだ。



 ガラッ

 夕の刻の鐘が鳴ってしばらく経った頃、食堂の扉が開かれた。入って来たのは仕事の終わったクロードとレオニだ。

 いつものようにアトリアを見つけたクロードは少しばかり表情を緩めて手を上げた。


「クロさん! お帰りなさい」


 ぱたぱたと駆け寄ると、クロードは大きな手で優しくアトリアの頭を撫でる。


「ただいま。あがれるか?」

「うん! 母さんに言ってくる」

「ついでに夕飯包んで貰ってくれ」

「はーい」


 そのまま食堂で済ましていく事もあれば、家でアトリアが作る事もある。負担にならない程度にゆっくりやっていこうと二人で決めた。

 今日はお弁当にして持ち帰るという事は、家でまったりかな? と考えながら、ベリエに声を掛けた。

 レオニはそのまま席に付き、夕飯を注文してシエロと談笑している。

 いつもと同じようなやりとり。

 その筈なのに、アトリアは何かがいつもとは違う気がしていた。


 帰り道は手を繋いで歩いた。

 アトリアから繋ぐ事もあれば、クロードからの事もある。今日はクロードからだった。

 そっと見上げた横顔は、何時もと同じ。視線に気付いたクロードと目が合うと、「何でもない」と首を振った。


 ……考えすぎ、かな……




 宿舎に着くと、アトリアが扉の鍵を開ける。押し戸を開けて先に入れば、クロードがそれに続いた。

 玄関の棚の上に、鍵を入れておくケースが置かれており、鍵をそこへ入れる。


「すぐ夕飯にする? それともお風呂入れよう——」


 言い終わらない内に、後ろからクロードに包まれた。ドクンと鼓動が跳ねる。

 嬉しいドキドキと不安なドキドキが混ざっている気がした。


「アトリア」


 優しい声色。大好きな声だけど、今日は何故かその続きを聞きたくないと思った。


「聞きたくない」

「…………」


 アトリアの腹部に回されたクロードの腕に力がこもる。

 鼓動は益々速くなった。今度は不安の方が大きい。嫌なドキドキだ。


「どうか、聞いて欲しい」


 乞うような言い方に、予感が当たった事を悟った。


「出兵が決まった」

「…っ!!」


「近いうちに招集が掛かる」

「…そ、んな…」


「行かなきゃならない」

「……っ……」


 視界がぐらりと揺れるような、頭がふらつくような錯覚を覚えた。

 指先が冷え、手足に上手く力が入らない気がする。


 クロさんが……戦場に行っちゃう……

 戦いの場所に……


 体がぶるぶると震え出す。それに気付いたのか、クロードがアトリアの体を覆うように抱き直す。


 やだ

 行かないで


 頭の中をぐるぐる巡るその言葉が喉から先へ出ていかない。

 代わりに熱くなった目の奥から涙が滲んできた。たちまち視界が白く濁っていく。


「必ず生きて帰る」


 優しい大好きな声が耳の直ぐ側で聞こえてくる。


「約束するから」


 目元が熱い。涙がじわじわと滲んで行くのを感じた。


「結婚しよう」


 ……えっ……?


 開かれた瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

 腕が緩み、滲む視界にクロードの穏やかな表情が写し出される。


「俺の家族に……帰る場所に、なって欲しい」


 クロードの首へしがみつく。

 涙が後から後から零れてきて止まらなかった。

 嬉しいのか悲しいのか苦しいのか、もう何がなんだかわからない。

 ただ思い切りしがみついて声を上げて泣いた。

 クロードの大きな手はずっとアトリアの体を抱いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る