第22話――約束するから

 背中側、身動ぎする気配でアトリアはうっすら目を開けた。

 いつもの癖で目線を上げるが、ある筈の窓が無い。

 あれ? と思っている内に、お腹に腕が回された。

 体に巻かれたシーツごと軽く引き寄せられると、背中の全部が温かくて、それが心地好くて同時にドキドキと鼓動が速くなった。


「…え、…あれ?」


 アトリアのスノコベッドとの間にある衝立が目の前にある。

 いつもと違う体勢で視界に入ったそれが、いつもとは違う朝を知らせている。


 なんで…どうしてこっちに…?


 アトリアが寝ているのは、クロードのベッドだったのだ。

 ここ最近、頑なに別だったその場所へ横たわっていたことが信じられない。

 昨夜の事を必死に思い出そうと頭を巡らせる。


 夕べは確か、クロさんと一緒に花火見て、帰って来てから串にくお腹いっぱい食べて、そしたら眠くなって……


 その後の記憶が無いな。


 自分でここまで来た記憶もないから、きっと運んでくれたのはクロードだろうと思う。

 という事はだ。アトリアがこちらに寝ていたという事は、彼がそうしたいと思ったという事だ。


 ――もう子供扱いしない


 欲情を孕んだ瞳と熱を纏った声が、まるで今見聞きしたかのように鮮明に蘇る。

 その後に僅かに触れた熱も。

 無意識に自分の唇へ触れた。


 顔が熱い。

 思い出した途端に体も熱い。

 あの後にすぐ花火が上がり、毛むくじゃらに戻ったから良かったものの、今どんな顔をしているのか、どんな顔でクロードに向き合えばいいのか分からなかった。


 兎に角体は熱いし、バクバク鳴り続ける心臓のせいで胸は苦しいしで、一旦落ち着こうと体を起こす。

 側に置いてあったシャツを着ながら、よく今までクロードの眼前に裸を晒して平気でいられたものだと、今更ながら恥ずかしくなった。

 一人で悶々としていると、伸びてきた腕に絡め取られた。


「わぁっ」


 布団へ引きずり込まれ、大きな体にすっぽりと包まれる。

 背中に回された腕が優しく体を締め付ければ、益々鼓動が大きくなった。

 大好きな大きな手が髪をすきながら頭を撫でてくれる。

 それにふわふわと幸せを感じながら、固く引き締まった胸板に頬を擦り寄せた。


「…もう仕事か?」


 頭の上から声が聞こえる。

 ふるふると頭を振る。


「今日はお昼から」


「…そうか」


 大きな掌が不意に体をなぞっていく。

 背中から腰へ、腰から腿へ。

 布越しに感じる熱と感触に、体の奥から震えが起こった。

 畏怖や恐怖とは違う感覚に戸惑った。今までに感じた事の無い、知らない感覚だった。


「…っ、クロさん…仕事は…?」


 声が出そうになって咄嗟に誤魔化す。


「俺も昼から」


 眠そうな瞳が目の前でアトリアを捕らえる。

 いつもよりもずっと近しいその距離感に、身動きが出来ない。

 体をなぞる掌が、腿の産毛を逆立てるようにゆっくりはっきり撫で上げてくる。


「…んっ…」


 更にぞくぞくと肌を粟立たせるそれに抗えず、洩れ出るように声が零れた。


「もう少し、このままで」


 吐息を感じた時には鼻先が触れていた。

 瞼を閉じると同時に唇が重なる。

 体をなぞっていた掌が、アトリアの手を捕らえると、重なり指が絡んだ。そのままベッドへ縫い付けられれば、キスが益々深くなる。

 心臓が壊れてしまうのではないかと不安になる程暴れ回っている。


 子供扱いされるのは嫌だけど、これはこれでドキドキし過ぎて困る……


 そんな思いなど露知らず。

 忘れていたからとクロードから告げられた遅すぎる「おはよう」に、ただただ頬を真っ赤に染めて頷く事しか出来ないアトリアなのであった。




 夏の季が終わり、季節は秋の季へと移り変わった。

 道の脇に植えられた樹の葉が派手に色付き始めている。

 祭りが終わると、ベリエの食堂にも活気が戻ってくる。


 サブストリートは、大半の屋台が既に解体され、静けさを取り戻しつつあった。

 そうなると一気に辺りが侘しさに包まれる。その様子もまた秋を感じさせる要因にもなっていた。


 祭りの喧騒が収まると同じくして、今年は不穏な噂が広まりつつあった。


「いよいよ始まるらしいぞ」

「隣国との諍いが収まらないらしい」

「とうとう戦争か」

「騎士団も派遣されるようだ」

「有力者は既に国外へ逃げてるとさ」

「こりゃ王都も危ないかもな…」


 食事をする兵士達の専らの噂。

 嫌でもベリエやシエロの耳にまで入ってくる。

 二人が知るのなら自ずとアトリアも知るところとなった。

 心がざわめく。

 クロードからは何も言われてはいない。

 至って普通だ。特に変な様子も無いし、何かを隠しているような気配もない。

 だから大丈夫だと思っていた。思い込みたかっただけかもしれない。

 心のずっと奥のざわざわは消えない。小さくなっただけで、ずっと燻り続けているのだ。

 胸騒ぎがしていた。

 気付かないようにしていたけど、予感がある。そして、そういった予感程、何故か当たってしまうのだ。




 ガラッ

 食堂の扉が開かれた。

 入って来たのは仕事の終わったクロードとレオニだ。


「クロさん! お帰りなさい」


 ぱたぱたと駆け寄ると、クロードはいつものように表情を少し崩して頭を撫でてくれる。


「ただいま。あがれるか?」


「うん! 母さんに言ってくる」


「ついでに夕飯包んで貰ってくれ」


「はーい」


 お弁当にして持ち帰るという事は、家でまったりかな? と考えながら、ベリエに声を掛けた。

 レオニはそのまま席に付き、シエロと談笑している。



 いつもと同じようなやりとり。

 その筈なのに、アトリアは何かがいつもとは違う気がしていた。



 帰り道は手を繋いで歩いた。

 アトリアから繋ぐ事もあれば、クロードからの事もある。

 今日はクロードからだった。

 そっと見上げた横顔は、何時もと同じ。

 視線に気付いたクロードと目が合うと、「何でもない」と首を振った。


 ……考えすぎ、かな……




 アトリアが扉の鍵を開ける。

 玄関の棚の上に、鍵を入れておくケースが置かれており、そこへ入れる。


「すぐ夕飯にする? それともお風呂入れよう――」


 言い終わらない内に、後ろからクロードに包まれた。

 ドクンと鼓動が跳ねる。

 嬉しいドキドキと不安なドキドキが混ざっている気がした。


「アトリア」


 優しい声色。大好きな声だけど、続きを聞きたくないと思った。


「聞きたくない」

「…………」


 口に出てしまった。

 クロードの腕に力がこもる。

 鼓動は益々速くなった。今度は不安の方が大きい。嫌なドキドキだ。


「…聞いて欲しい」


 乞うような言い方に、予感が当たった事を悟った。


「出兵が決まった」

「…!」


「近いうちに招集が掛かる」

「…そ、んな…」


「…行かなきゃならない」

「……っ……」


 頭がふらつくような錯覚を覚えた。

 手足に上手く力が入らない気がする。


 クロさんが…戦争に行っちゃう……

 戦いの場所に……


 体が小さく震えた。

 それに気付いたのか、クロードがアトリアの体を覆うように抱き直す。


 やだ

 行かないで


 頭の中をぐるぐる巡るその言葉が喉から先へ出ていかない。

 代わりに熱くなった目の奥から涙が滲んできた。


「必ず生きて帰る」


 優しい大好きな声が耳の直ぐ側で聞こえてくる。


「約束するから」


 目元が熱い。涙がじわじわと滲んで行くのを感じた。


「結婚しよう」


 ……えっ……?


 開かれた瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

 腕が緩み、滲む視界にクロードの穏やかな表情が写し出される。


「俺の家族になって欲しい」


 クロードの首へしがみつく。

 涙が後から後から零れてきて止まらなかった。

 嬉しいのか悲しいのか苦しいのか、もう何がなんだかわからない。

 ただ思い切りしがみついて声を上げて泣いた。

 クロードの大きな手はずっとアトリアの体を抱いていた。

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