第19話――胸が苦しい

 頭の整理が追い付かない。

 ただ胸を打つ心臓の音がやけに大きく響いて聞こえる。


 クロさんは、私を嫌いな訳じゃ無かった…


 此方を見つめる穏やかな表情のクロさんを見た。

 優しい瞳はいつもと同じ。ただ、その中にはいつもとは違う熱が宿っている気がした。


「此処に居ていいの?」

「ああ」


「……嫌じゃない……?」

「嫌じゃない」


「…ホント? 無理してない?」

「アトリア」


「だってわたし子供だから、クロさんに迷惑いっぱい掛けちゃうし…――」


 頬に触れていた手が頭の後ろへ回ったかと思ったら、クロさんへと引き寄せられた。


「…!」


 大きな体にすっぽりと包まれ、逞しい腕が背中へ回される。

 鍛えられて固い胸に頬をくっつければ、言い様のない安心感に包まれた。


「迷惑だなんて思った事ない」


「え…」


「アトリアが来たことで、俺のつまらん生活に色がついた。毎日飽きないし、悪くないと思ってる。…感謝してるよ」


「クロさん…」


「むしろ、俺の方がアトリアを泣かせてばかりで、嫌われても仕方ないと思っていた」


「クロさんの事、嫌いになる訳ないでしょう?」


「…そうか」



 少しだけ体を離してクロさんを見上げる。

 直ぐ目の前に優しい顔があって、頬が熱くなった。

 今の今までぐちゃぐちゃでもやもやしていた胸の中が、嘘のように晴れてしまった。


 側にいて欲しい


 その言葉だけで、悲しい涙が嬉しい涙に代わってしまう。

 私は泣いたり照れたり悲しかったり嬉しかったり、色んな感情が顔に出てしまったのに、クロさんは流石大人なだけあって、全然余裕な表情だ。


 ちょっぴり悔しい。



「早く大人になりたい」


「なんで」


「私鈍いから、クロさんの思ってる事、わかってあげられないんだもの」


「…俺がわかりにくいだけだろ」


「でもママさんはわかるでしょう? そんなの悔しい」


「…ママは特殊だと思うぞ?」


「そうなの?」


 それでもママとクロードが並ぶと、大人の男女にしか見えなくて、もやもやしてしまう。お似合いだと思ってしまったのだから尚更だ。


「俺もちゃんと言葉に出して伝えるように気を付ける」


「…うん。クロさん大好き!」


「…………」



 固まってる。

 どうしたの? と思っていたら、またまた胸の中に閉じ込められてしまった。



「…俺も、…ちゃんと、…好き、だから」


 恥ずかしそうな、ボリュームの大分落とされた台詞が上から降ってきて驚いた。

 早速頑張ってくれたのだと思うと、口元がだらしなく緩んでしまった。


 欲を言えば顔見て言って欲しかった!

 離れたくてもがいたけど、クロさん全然離れてくれない!



「やめろ。見るな。…恥ずかしすぎて死ぬ」


 なんだか大人なクロさんが可愛く思えてクスクス笑ってしまった。


「くそ…酒の一杯でも引っ掻けておくんだった」


 真面目なトーンでそんな事を言い出す始末。

 可愛くて、くすぐったくて、嬉しくて、でも苦しくて。


「大好き」


 私の好きが全部伝わって欲しくて、大きな背中にぎゅっと腕を回した。


「…もう言わん」


 そんな事を言いながらも、私の背中に回された腕がきつくなった事に、苦しい胸がいっぱいに満たされるのを感じた。




「そう言えば頭痛いの収まった」


 食べ掛けのスープに再び匙を入れたところでふと思い出す。

 ついさっきまであんなにガンガンしてたのに。

 そう首を傾げれば、クロさんがスープの皿を持って向かいへ座った。


「あぁ、冷たいタオルと一緒にこれ当てたからな」


 クロさんが見せてくれたのは、親指の爪程の透明な石だった。


「なぁに? これ」


 掌に置かれた石を眺める。

 摘まんで光にかざすと虹色に発色している。不思議な石だ。


「魔石だ。それは痛み止め」


 その名の通り、痛い部分に当ててしばらく置くと、痛みを取り除いてくれるのだという。


「魔石って、魔冷具とか魔風具とかに使われる、アレ?」


「そうだ」


「痛み止めの魔石なんて初めて見た」


「元は同じだけどな」



 鉱山から採れる、魔鉱石。

 無色透明な魔鉱石を加工し、必要な魔力を閉じ込めた物が、一般的に流通している、通称『魔石』なのだという。

 魔冷具や魔風具に使用されるように、半永久的に効力を発揮する魔石もあれば、クロさんが使ってくれた痛み止めのように、何度か使うと効力を失ってしまう魔石もあるらしい。くず魔鉱石を有効活用する為の使い捨て。

 効力や石の大きさによって価格が変わるのだろう。



「一度工房に行った事があるが、中々面白かった」


「クロさん色々作るの上手だもんね! 職人さんとか向いてそう」


「…職人か…それも悪くないな」


 他愛のない話にふと目が合えば、なんとなく気恥ずかしくて、お互いに目を反らしてしまう。

 でも不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

 胸の奥はずっと温かくて、ふわふわしていて、やっぱり苦しい。




「クロさん…これ…」


 朝ごはんを済ませ、ソフアで寛ぐクロさんに、紙の包みを渡す。


「これって、初めての給金で買った?」


「そう。包みはくしゃくしゃになっちゃったけど……」


「え、俺に?」


 頷くと、驚いた表情のまま受け取ってくれた。


「開けてもいいか?」


「…うん」


 包みはシワが寄ってヨレヨレなのに、クロさんは丁寧に開けてくれる。

 そんな些細な事にも口元が緩んでしまう。

 中から取り出したのはカーキ色の上着だった。


「これ…アトリアが選んでくれたのか?」


「シエロちゃんと一緒に選んだの。クロさんの上着、私が取っちゃったから」



 毛むくじゃらの私が丸くなるとき、体の下に敷いているのがクロさんの上着のひとつだった。

 クロさんに拾われてからほぼずっと同じ上着を敷き布団にしてしまっている。

 クロさんは何も言わずにそのままにしてくれているけど、何となく申し訳ないと思っていた。

 だから、ベリエ母さんに「お給金出すから手伝わないか」と言われた時、真っ先にこのプレゼントが浮かんだのだ。


「着てみて。サイズ大丈夫かな?」


 立ち上がったクロさんが、新品の上着へ袖を通してくれる。

 前を留めたり、腕を回したりしてもゆとりがありそうだ。


「大丈夫だね。良かった」


「ありがとう、アトリア。大切に着るよ」


 そう言って嬉しそうに笑ってくれる。

 それだけで、やっぱり胸がいっぱいに満たされてしまった。




 朝の内はのんびり過ごして、お昼からは洗濯をしたり、お掃除したり、二人で家事をして過ごした。

 今までと同じ事をしてるだけなのに、楽しくて仕方ないのは何故だろう。

 自分でも気付かない内に鼻歌なんか歌っていたらしく、クロさんにクスクス笑われてしまった。

 恥ずかしいと思ったけど、クロさんの笑顔は好きだから良いことにする。



 クロさんのお仕事が夜の遅い時間からだから、夕飯は私が作る事にした。

 まだベリエ母さんのように何でも直ぐには出来ないけど、出来る事だって増えた。

 汁物はつくれるようになったし、魚も焼けるようになった。

 ちょっと焼いたり、炒めたりだって出来るようになった。

 炒り玉子だってちゃんと味付きに出来る。

 そうやって力説したら、ニヤニヤしながら「じゃぁ作って貰おうか」って言われた。

 なんか途端に自信無くなっちゃったけど、どうしよう。



 二人で商店街に買い物へ出た。

 お祭りで賑わう通りはやっぱり人が多い。

 様々な誘惑に負けてしまいそうになりながら、目的の店を目指す。

 人混みを避けながら、然り気無く肩を抱かれるのも、いつもよりもずっと距離が近くなるのも、何となく繋いでそのままになった手も、いちいちドキドキしてしまう。

 気にしてるのは私だけなのかと思う程、クロさんはいつも通りだ。

 やっぱり大人だから、慣れてるのかな?

 そんな時にはやっぱりママのような大人の女性が浮かんでしまうんだ。



 前にも一度訪れた魚屋さんで魚を買い、近くの八百屋さんで野菜炒めの材料を買った。

 前回失敗してしまった焼き魚に再挑戦する事にしたのだ。

 魚はやっぱり捌いて貰う。

 どちらのお店でもクロさんの彼女扱いされて、嬉しいやら恥ずかしいやら照れくさいやら…。

 クロさんが「俺には勿体無いくらいだ」なんて言ってくれて、もう舞い上がってしまいそうだった。



 帰宅するとクロさんが買ってくれたエプランを身に付け、気合いを入れて台所へ立った。

 ベリエ母さんの姿を思い出しながら、ナイフを奮い浅鍋を振った。

 テーブルへ並べ、クロさんに座って貰い、作った物を並べた。

 匙を口へ運ぶのをドキドキしながら見つめる。



「うん、旨い」


「…ホントに?」


「ホント。ほら」


 言いながら匙を此方へ差し出してくれる。

 パクりと含むとしっとり焼けた白身が口内を満たす。

 ふわふわの舌触りに塩味が程よく、確かに自分でも美味しく焼けたと思う。


「上手く出来て良かった…」


 心底安心して零すと、クロさんが穏やかに此方を見ていて、鼓動が少し大きくなった。



「俺の為に頑張ってくれた事が嬉しい。ありがとう、アトリア」


 ……っ……!


 顔が熱い。

 体も熱い。

 どうしよう…

 ドキドキが、止まらないの。

 嬉しくて、胸が苦しくて、でも幸せで。

 恥ずかしくて、クロさんが見られない。


 だから気が付かなかった。

 クロさんの頬も赤く染まっていた事に。

 真っ赤になって俯く私から、視線を外して口元を手で覆っていた事に。

「…ヤバいな」なんて呟いていた事にも。



 耳の奥で細い鎖が切れる音がした。

 僅かな音だったせいで、胸のドキドキに気を取られていたアトリアには聞こえてはいなかった。

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