どうしてもそうは見えなくて

「…ん……ぁ、いっ…たぃ……」


 アトリアが目を覚ました。

 意識が浮上した途端、頭に響くような頭痛に襲われる。


「うぅ……なんだ、これ……」


 目の前には窓があり、カーテンの隙間から射す僅かな陽ですら、目に入れるのが辛かった。

 ゴロンと転がり、窓に背を向けて目を閉じる。その振動ですらずきずきと病んだ。

 感じた事のないような痛みと重苦しい倦怠感。

 初めて味わうそれらに抗う事も出来ずに、うとうとと微睡む。


 どれくらいそうしただろうか。

 ふと良い香りが鼻先をくすぐった。


 なんだろう。


 再び目を開けると、ベッド横の小さな棚には水が入ったグラスが置かれている。そう言えばやけに喉が乾いている気がした。それが欲しくてゆっくり体を起こす。こめかみがずきずき病んだが、さっきよりは少しマシだった。

 グラスの水を一気に飲み干し、はたと気付く。枕元に綺麗に折り畳まれた浴衣と帯が置かれていたのだ。紙の包みも一緒に置いてある。握りすぎて折角の包装紙がくしゃくしゃになってしまっている。


「……そうだ、私…ママの所で……」


 初めて入った店内のカウンター席へ座ったのを思い出した。

 自分の向かいで妖しく微笑む大人の女性を目の当たりにした。

 そして、そこへ行くことになった原因も思い出す。


『帰れ』


 冷たく言い放たれた言葉。耳の奥にはっきりと残っている。

 空のグラスを握る手に力が入る。それを見つめるように俯けば、途端に視界がぼやけた。


 今いるのはアトリアのベッドだ。クロードが彼女専用に作ってくれたスノコベッド。

 前は隣同士に置かれていたそれは今、クロードのベッドの反対側、壁際に置かれている。猫子の体が大きくなった途端に切り離されてしまった。ご丁寧に仕切りまで立てられて、同じ部屋なのに真っ二つに明確に分けられている。

 その事が今の二人をはっきり表しているようで、アトリアの瞳からは大粒の涙が零れた。

 ついこの間まで、起きたときに背中に感じた温もりは無い。このままもう二度と無いかもしれない。そう思ったら悲しくて虚しくて、頭よりもずっとずっと胸が痛くなった。



 そう言えば、台所の方から物音がする。

 それに、なんだろう…良い匂いも。


 食欲は無かったがそれらが気になって、もそもそとベッドから起き出した。もしかしてシエロかベリエが来てるのかもしれない。昨日は夕食の手伝いをする筈だったのに、結果的に約束を破ってしまった。

 その事もちゃんと謝らないと。そう思って居間へと向かった。


「…! クロさん…どうして……」


 驚いた事に、台所に立っていたのはクロードだったのだ。

 魔コンロには一度も使っているところを見たことがない鍋が出ている。蓋がしてあるところを見れば、中には良い匂いの元が入っているのだろう。


 てっきり仕事に出たものと思っていたのに……。


 困惑に立ち尽くしていると、クロードが此方へ体を向けた。


「アトリア! 起きれたのか」


 一瞬驚きに目を開き、すぐに元に戻ると此方へ近付いてきた。


「頭は? 痛くないか? 具合は? 気持ち悪くないか?」

「…頭、痛い……それより、仕事は?」

「リントが遅出だったから、代わって貰ったんだ。こっち、座れ」


 食事をするときに座るテーブルと椅子へ通される。少し前にクロードが新調したものだ。前の部屋で使っていた背の低いテーブルは、アトリアが大きくなった事で手狭になり、クロードがこちらを購入したのだ。

 アトリアは頷きを返すといつも座る方へと腰掛けた。座るのとほぼ同時にアトリアの前に深皿が置かれる。

 透き通ったスープに刻まれた野菜が漂うそれは、置かれた瞬間から良い香りが立ち上って来る。


「……これ……」

「ママに聞いて作ったんだ。二日酔いに良いらしい。頭、痛いだろ?」


 このずきずきは二日酔いと言うらしい。お酒を飲み過ぎた翌日などに起こるらしい。

 クロードが渡してくれる大きな匙を受け取ると、再び深皿に視線を戻した。

 黄金色のスープに、細かく刻まれた色とりどりの野菜が目に鮮やかだ。カットされた野菜は大きさがバラバラで、クロードが苦労しながら作ってくれた事が伺えた。器は温かいが、湯気はほぼ立っておらず、アトリアの猫舌を考えて程よく冷ましてあったようだ。


 嫌っているくせに、こんな所で優しくするなんて……


 目頭が熱くなりそうで、急いで匙を口へ運んだ。

 野菜の甘味とスープの塩味のバランスが丁度良く、また細かく刻まれた事で噛む回数が少なくて済み、とても美味しいスープだった。

 クロードは隣でそれを見守っている。いつも座る自分の席には座らずに、アトリアの横で片膝をつき彼女の様子を伺っている。


「どうだ? 食べられそうか?」

「うん。……美味しい……」


 そう言いながら視線は合わず、眉間には僅かにシワを寄せている。

 その原因に大いに心当たりがあるクロードはどう切り出したらいいものかと、内心溜め息をついていた。




「わたし、ここ出てく」


 不意に匙を動かす手を止めたアトリアが俯いたままポツリと呟いた。


「え?」

「……だって……辛いも……」


 バッとクロードへ向けられた瞳には既に涙が溜まっている。


「嫌われたまま一緒にいるのは辛いよ!!」


 大粒のそれが頬を伝う。


「アトリア——」

「わたし子供だから、何が駄目なのかわからない! ベッドだって離ればなれで、クロさん一緒なのが嫌だったんでしょ? わたしはクロさんの事が大好きなのに、嫌われたまま一緒になんて…——」


 言い終える前にクロードが強引にアトリアを抱き上げた。


「わわっ!!」


 いきなりの事に驚いたアトリアは、固まったまま直ぐ側のクロードの横顔を見上げる。その表情から何を思っているのかは伺えない。

 降ろされた先はソフアだった。仰向けに寝かされると、オデコと目元を覆うように冷たい濡れタオルが掛けられる。

 その上からクロードの手がそっと乗せられた。


「嫌いになんかならない」


 大きな声を出したせいか、ずきずきと響くような頭痛がこめかみを刺激している。


「でも」

「昨日のは、違うんだ……その、……完全に俺が悪い」

「怒ったんじゃ、ないの……?」

「違う。そうじゃない。俺が……勝手に嫉妬した。……意味がわかるか?」


 分からなかったアトリアは、素直に首を振った。頭を動かすとズキズキと病んだ。


「…………アトリアが、他の男と話しているのを、見たくなくて、その……八つ当たりしたんだ……本当にごめん」

「それじゃ、私が何かしちゃった訳じゃ……」

「アトリアは何も悪くない。……浴衣も可愛いかったし……良く似合っていた」


 欲しかった言葉が不意に与えられて、アトリアの頬がみるみるピンク色に染まっていく。


「ベッドを離したのは、娘のいる奴にいつまでも親父と一緒になんて寝ないと聞いて……年頃だし、裸体を男の目に晒すのは良くないだろ」


 嫌だった訳じゃ無かったんだ…

 けど、やっぱり、娘……


 アトリアはぎゅっと唇を引き結ぶ。


「娘なんか、無理だった」

「え?」

「娘になんか見えなくて……困ってる……」


 それ…て……


 アトリアが身体を起こそうとすると、クロードの手が素直に離れていく。

 タオルをよけて体を起こすと、此方へ向けられたクロードの真剣な瞳を見つめ返した。


「出て行くなんて言わないでくれ。……俺は、アトリアに側に居て欲しい」


 胸がドクンと音を立てる。それは鳴り止まずに益々大きく強くなっていく。

 一度止まった涙が再びじわじわと滲んでくると、黄金色の瞳がたちまち潤んでいく。


「俺はアトリアを泣かせてばかりだな」


 無骨な指がそっと目元を拭ってくれた。

 少し困ったような顔をしている。その表情を久しぶりに見た気がした。


「これでも考えたんだ。……何度も、何度もいろいろ考えて……だけど、無理だった」

「…………」

「こんなオヤジが何言ってんだって笑われても、アトリアの手を握るのが……隣に立つのが他の男なんて、どうしても考えられなかった」


 涙を拭ったその手が、跡の残る頬へ添えられた。



「アトリアが愛しい。……何処にも行くな。此処に、俺の隣に居てくれ」

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