第17話――お子ちゃまだと思っていたのに

 チリーン


 ママが店の扉を開けると、優しい音色のベルが鳴った。


「どうぞ」


 いざなわれて薄暗い店内に足を踏み入れる。

 初めての場所だからか、ママのテリトリーだからなのか、アトリアはどこか緊張した面持ちだ。

 入り口付近で立ち止まっていると、店内に明かりが灯る。


 然程広くはない店内には、いくつかの小さなテーブル席とカウンター席があった。

 カウンターの奥、ママが立つ後ろの棚には様々な瓶が所狭しと並んでいる。

 その中には、クロードと買い物に行った時に彼が眺めていたものもあり、それらがお酒の瓶だと言うことがわかる。

 初めて立ち入った『大人の世界』に、アトリアは興味津々に辺りを見回していた。



 ママはカウンターの中からキョロキョロと店内を観察する目の前の猫子を眺めた。

 少し前に見たときは仔猫ちゃんだったのに、今この場にいる猫子はすっかり女と化している。

 驚きはしたが獣人と言う事を考えれば納得は出来る。


 これは…仕方ないわね…


 クロードが優先する訳だ。

 あの彼がのろけてしまう訳だわ。


 そんな風に思わせられる程に目の前の少女は生命力に溢れ美しかった。




「こちらにお座りなさいな」


 ママの正面のカウンター席を指され、アトリアは素直に座った。


「クロードはいつもそこに座るわ」


「へぇ…そうなんですね…」


 声に元気が無い。

 喧嘩かしら? と、グラスを出しながらアトリアを眺める。

 確かに「喧嘩したらいらっしゃい」とは言ったが、まさか仔猫ちゃんの方が来るとは思わなかった。

 そんな事を考えながら、ママはクスリと笑みを溢す。


 大きな氷をひとつだけ入れ、オレンジ色の液体を注ぐ。

 果物の果汁だ。

 それをアトリアの前に置けば、驚いた顔が此方を見上げてくる。


「どうぞ」


「これってもしかして…」


 微かに瞳を揺らしてグラスを見つめるアトリアにママは口角を上げる。


「残念。ただのジュース」


 がっかりしたようにケモミミが萎む。

 クスクス笑いながら自身のグラスに水割りを作った。


「お酒はこっち。お子ちゃまにはまだ早いわ」


 氷を鳴らしながらそれを煽って見せる。


「…やっぱり、まだ子供なんだ……」


 クロードと同じお店に入り、同じ席に座っても、大人にはなれないのだと落ち込むアトリア。


 さっき彼を怒らせてしまったのも、自分が子供すぎて分からないうちに何かやらかしてしまったからだろうと、引いた筈の涙がじわじわ滲んできた。


 あらあら。苛めすぎちゃったかしら。

 仕方のない子。



 ママがカウンターへグラスを置いた。

 肘をつき、その手に顔を乗せると、アトリアに目線を合わせる。

 今にも涙が零れ落ちそうな黄金色の瞳がゆっくり上がってくると、視線が交わった。


「クロードってば、前はあんなに頻繁に通ってくれてたのに…最近全然来てくれないの」


「…え?」


 いきなり何の話だろうかと、大きな瞳が揺れた。


「やっと来てくれたと思っても、ちょっと飲んでちょっと食べてすぐ帰っちゃうし」


「…………」


「この間なんて久しぶりにゆっくりしてると思ったら、のろけばっかり。ニヤニヤしちゃって全然クロードらしくないんだから」


 わざとらしく溜め息をついた。

 アトリアの頬がピンクに染まる。


「私が誘っても全然乗ってくれない。……一体誰のせいかしらね?」


 非難の視線を向ければ、可愛らしいケモミミをふにゃりと垂らし、顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。


 あらあら。

 若いわねぇ。


 クスリと笑みを溢し、ママが体を起こすと、アトリアが目の前のグラスを一気に飲み干した。

 熱い液体が喉を降りていき、違和感を覚える。


「「あ…」」


 気が付いた時にはもう遅い。

 アトリアの体はあっという間に熱を持ち、沸騰した血液が体内を巡るのを感じた。


「ふにゃぁ……」


 頭がぼーっとしてきたかと思うと、急に重くなって起きていられなくなった。

 そのままガックリとカウンターへ突っ伏した。


「あらあら……どうしましょう」


 果汁の残ったままのグラスと、空になってしまった自身のグラスを見比べる。

 今アトリアが飲み干してしまったのは、ママの水割りの方だ。

 半分位は空けていた筈だが、近くに置いてしまったのが悪かった。


「ホントにクロードに怒られちゃうわ」


 どうしようと言いながら、少しも慌てる事なく別のグラスに水を用意した。




 どうやって運ぼうかと思案していると、店の扉が少々乱暴に開かれる。

 何事かとそちらを見れば、酷く息を切らせたクロードの姿があった。


「ママ! アトリアが……あれ……?」


 カウンターでぐったりしているアトリアを見つけるなり駆け寄ってくる。


「丁度良かった。引き取ってくれる?」


「どうしたんだ? というか、何故ここに……寝てるのか?」


 クロードの額には汗が滲んでいる。

 余程焦って来たのだろうか。

 こんな風に息を切らせている姿も、焦りを色濃く浮かべている姿も見たことの無かったママは驚きの表情で彼を見た。


「独りで泣いてたから誘ったのよ」


 クロードは大きく息を吐き出すと、アトリアの隣の席に座った。

 明らかな安堵が見てとれた。


「…良かった…」


「随分探させちゃったみたいね。…ごめんなさい」


「いや。元はと言えば俺が悪いんだ。ママの所に居てくれて良かった…」


 眠りについたアトリアを見つめる瞳が酷く優しい。

 そんな風に彼を変えてしまった源を改めて見下ろす。


 ただの仔猫ちゃんだと思ってたのに


「ごめんついでに彼女、グラスを間違えて私の水割り飲んじゃったの」


「えぇ?」


 空になった自分のグラスを振って見せ、果汁の残ったグラスを指差す。


「水は飲ませたけど、明日ちょっと大変かも」


「それでこれか……」


 今日はもう目覚めないかもしれない。

 早く謝りたいとは思っていたが、意図せず時間が出来た事の安堵が、クロードの気持ちを落ち着かせてくれた。



「お詫びに、二日酔いに効くスープの作り方、教えるわ」


 メモ紙にさらさらとレシピを書くと、それを半分に折ってクロードへ渡す。


「明日の朝はきっと食欲ないと思うから、そのスープを飲ませてあげると良いわ」


「ありがとう」


 二日酔いの経験が無いクロードに取っては、ママの配慮は有り難い。

 ママは「私が悪いから」と苦笑いだったが。

 食事をしていくかと言う問いに、クロードは首を横に振った。

 ベッドに寝かせてやりたいから、と。

 随分と大事にしているものだと笑みが零れる。



「そんなお子ちゃま誰かに預けて、私の相手してくれればいいのに」


 いつものように冗談混じりで言ったのに、返って来たのは真剣な眼差しだった。


「……っ」


 思わず動きを止めてしまう。


「ごめん、ママ。こいつは、もう子供じゃ無いんだ」



 ふっと視線を外され、何の躊躇いもなくアトリアを抱き上げる。

 大事そうに優しく腕に抱き、呑気に眠りこけるその顔を見つめている。


 胸が締め付けられるように苦しくなった。

 喉が詰まって咄嗟に言葉が出ない。

 そんな彼の姿を見たくなくて目を反らした。


「世話になったな」


 その言葉に、詰まっていた息をようやく吐き出す。


「結局、男は皆若い子がいいのね」


 わざと皮肉っぽく言い放つ。

 ママの台詞にクロードは苦笑いを浮かべながら「皆じゃないと思うけどな」と呟いた。

 店の扉を開けてやりながら


「大事にしてあげてね」


 そう言った声が僅かに震える。

 それに自分で驚いた。


「ああ。ありがとう」


 そう微笑む彼を見送りそっと扉を閉めると、そのまま背中を預ける。



「…何やってんだろ…私」


 我ながら上手く虚勢が張れたものだと、ずきずきと痛む胸をそっと右手で押さえた。

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