ただの仔猫ちゃんと思っていたのに。
チリーン
ママが店の扉を開けると、優しい音色のベルが鳴った。
「どうぞ」
初めての場所だからか、ママのテリトリーだからなのか、アトリアはどこか緊張した面持ちだ。ドキドキしたまま入り口付近で立ち止まっていると、店内に柔らかな明かりが灯る。
然程広くない店内には、いくつかの小さなテーブル席とL字型のカウンター席があった。レオニと共に此処を訪れるクロードはどこに座るのかと、カウンターに並ぶいくつかの席を眺める。
迷いなく入って行ったカウンターの奥、ママが立つと絵になるその後ろの棚には様々な瓶が所狭しと並んでいる。その中には、クロードと買い物に行った時に彼が眺めていたものもあり、それらがお酒の瓶だと言うことがわかる。
初めて立ち入った『大人の世界』に、アトリアは興味津々に辺りを見回していた。
ママはカウンターの中からキョロキョロと店内を観察する目の前の猫子を眺めた。
少し前に見たときは仔猫ちゃんだったのに、今この場にいる猫子はすっかり女と化している。驚きはしたが獣人と言う事を考えれば納得は出来る。
これは……仕方ないわね……
クロードが優先する訳だ。あの彼ですら惚気てしまうのも頷ける。
そんな風に思わせられる程に目の前の少女は生命力に溢れ美しかった。
「こちらにお座りなさいな」
ママの正面のカウンター席を指され、アトリアは素直にそこへ座った。
「クロードはいつもそこに座るわ」
「へぇ……そうなんですね」
声に元気が無い。
喧嘩かしら? と、グラスを出しながらアトリアを眺める。
確かに「喧嘩したらいらっしゃい」とは言ったが、まさか仔猫ちゃんの方が来るとは思わなかった。
そんな事を考えながら、ママはクスリと笑みを溢す。
細長いグラスに大きな氷をひとつだけ入れ、オレンジ色の液体を注ぐ。いつも酒を割るのに使用する果物の果汁だ。
それをアトリアの前にコトリと置けば、驚いた顔が此方を見上げてくる。
「どうぞ」
「これってもしかして…」
一体どんな期待をしているのか、微かに瞳を揺らしてグラスを見つめるアトリアにママは口角を上げる。
「残念。ただのジュース」
がっかりしたようにケモミミが萎むのを見ながらクスクス笑うと、自身のグラスに水割りを作った。
「お酒はこっち。お子ちゃまにはまだ早いわ」
氷を鳴らしながらそれを煽ると、ジュースの隣にコトリと置いて見せる。獣人の嗅覚なら度数の弱いアルコールでも匂いで分かるのかしらと思いながら、目の前で悲しそうに眉尻を下げる猫子を眺める。
「……やっぱり、私は子供なんだ……」
クロードと同じお店に入り同じ席に座ったところで大人になれる訳ではない。懸命に着飾って背伸びしてみても、ママのような本物の大人の女性には全然敵わないのだ。
さっき彼を怒らせてしまったのも、自分が子供すぎて分からないうちに何かやらかしてしまったからだろうと、引いた筈の涙がじわじわ滲んできた。
あらあら。苛めすぎちゃったかしら。
カウンターに肘をつき、その手に顔を乗せると、ママはアトリアに目線を合わせる。
今にも涙が零れ落ちそうな黄金色の瞳がゆっくり上がってくると、視線が交わった。
「クロードってば、前はあんなに頻繁に通ってくれてたのに……最近全然来てくれないの」
「……え?」
いきなり何の話だろうかと、大きな瞳が揺れた。
「やっと来てくれたと思っても、ちょっと飲んでちょっと食べてすぐ帰っちゃうの。本当、つまらないわ」
「…………」
「この間なんて久しぶりにゆっくりしてると思ったら、「これは仔猫でも食えるのか」とか、「猫子に食べさせてやりたいからレシピ教えてくれ」って。料理なんてしたこと無いくせにね。口を開けば仔猫ちゃんの話しばかりでニヤニヤしちゃって……全然クロードらしくないんだから」
わざとらしく溜め息をついた。
アトリアの頬がピンクに染まる。
「私が誘っても全然乗ってくれない。……一体誰のせいかしらね?」
非難の視線を向ければ、可愛らしいケモミミをふにゃりと垂らし、顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。
あらあら……若いわねぇ。
クスリと笑みを溢しママが体を起こすのと同時に、アトリアが目の前のグラスを手にするとそれを一気に飲み干した。
熱い液体が喉を降りていき、違和感を覚える。
「「あ…」」
気が付いた時にはもう遅い。
身体中の血液が沸騰したかのように熱くなり、それがアトリアの全身を巡るのを感じた。
「ふにゃぁ……」
頭がぼーっとしてきたかと思うと、急に重くなって起きていられなくなった。
そのままガックリとカウンターへ突っ伏してしまう。
「あらあら……どうしましょう」
果汁の残ったままのグラスと、空になってしまった自身のグラスを見比べる。
今アトリアが飲み干してしまったのは、ママの水割りの方だ。
半分位は空けていた筈だが、近くに置いてしまったのが悪かった。
「ホントにクロードに怒られちゃうわ」
どうしようと言いながら、少しも慌てる事なく別のグラスに水を用意した。
どうやって運ぼうかと思案していると、店の扉が少々乱暴に開かれる。
何事かとそちらを見れば、酷く息を切らせたクロードの姿があった。
「ママ! アトリアが……あれ……?」
カウンターでぐったりしているアトリアを見つけるなり駆け寄ってくる。
「丁度良かった。引き取ってくれる?」
「どうしたんだ? というか、何故ここに……寝てるのか?」
クロードの額には汗が滲んでいる。余程焦って来たのだろうか。
こんな風に息を切らせている姿も、焦りを色濃く浮かべている姿も見たことの無かったママは驚きの表情で彼を見た。
「独りで泣いてたから誘ったのよ」
クロードは大きく息を吐き出すと、アトリアの隣の席に座った。
その表情からは明らかな安堵が見てとれた。
「………良かった………」
「随分探させちゃったみたいね。……ごめんなさい」
「いや。元はと言えば俺が悪いんだ。ママの所に居てくれて良かった」
眠りについたアトリアの頬に落ちかかっていた髪を、クロードがそっと後ろへ流してやる。その手つきも、寝顔を見つめる瞳も酷く優しい。
そんな風に彼を変えてしまった源を改めて見下ろす。胸がチクチクと痛む気がした。
ただの仔猫ちゃんだと思ってたのに……
「ごめんついでに彼女、グラスを間違えて私の水割り飲んじゃったの」
「えぇ?」
空になった自分のグラスを振って見せ、果汁の残ったグラスを指差す。
「水は飲ませたけど、明日ちょっと大変かも」
「それでこれか……」
今日はもう目覚めないかもしれない。
早く謝りたいとは思っていたが、意図せず時間が出来た事の安堵が、クロードの気持ちを落ち着かせてくれた。
「お詫びに、二日酔いに効くスープの作り方、教えるわ」
メモ紙にさらさらとレシピを書くと、それを半分に折ってクロードへ渡す。
「明日の朝はきっと食欲ないと思うから、そのスープを飲ませてあげると良いわ」
「ありがとう」
二日酔いの経験が無いクロードに取っては、ママの配慮は有り難い。ママは「私が悪いから」と苦笑いだったが。
食事をしていくかと言う問いに、クロードは首を横に振った。ベッドに寝かせてやりたいから、と。
随分と大事にしているものだと笑みが零れる。
「そんなお子ちゃま誰かに預けて、私の相手してくれればいいのに」
いつものように冗談混じりで言ったのに、返って来たのは真剣な眼差しだった。
「……っ」
思わず動きを止めてしまう。
「ごめん、ママ。こいつは、もう子供じゃ無いんだ」
ふっと視線を外され、何の躊躇いもなくアトリアを抱き上げる。
「アトリア、帰るぞ」
「んー……」
眠っている筈のアトリアは、しがみつくようにクロードの首へ腕を回した。大事そうに優しく腕に抱き直し、クロードは呑気に眠りこけるその顔を見つめている。
もう既にそういう存在になってしまったのだと、ママの胸が締め付けられるように苦しくなった。
喉が詰まって咄嗟に言葉が出ない。そんな彼の姿を見たくなくて目を反らした。
「世話になったな」
その言葉に、詰まっていた息をようやく吐き出す。
「結局、男は皆んな若い子がいいのね」
わざと皮肉っぽく言い放つ。
ママの台詞にクロードは苦笑いを浮かべながら「皆じゃないと思うけどな」と呟いた。
店の扉を開けてやりながら「大事にしてあげてね」、そう言った声が僅かに震える。
それに自分で驚いた。
「ああ。ありがとう」
そう微笑む彼を見送りそっと扉を閉めると、その扉にそのまま背中を預ける。
「……何やってんだろ……私」
我ながら上手く虚勢が張れたものだと、ずきずきと痛む胸をそっと右手で押さえしゃがみ込む。
もう涙も簡単に出てこないんだなぁと、小さく息を吐き出し、ママは自重の笑みを浮かべ、扉に背を預けたまま自らの膝に顔を押し当てた。
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