第16話――黒い靄の正体

 欠伸を噛み殺しつつ、クロードが食堂の扉を開けた。


「くまさん、おはよー」


 テーブルを拭いていたシエロが此方を振り返る。


「おや、くま。早いじゃないか」


 丁度奥から顔を出したベリエと目が合った。


「アトリア! くまが来たよ」


 そのまま厨房へ声を掛ける。


「ええっ!? もう来ちゃったの?」


 どうやらアトリアはそちらにいるようだ。慌てたような声が聞こえた。



 朝、クロードが目覚めた時、既にアトリアの姿は無かった。

 いつもクロードの方が早起きなのに、珍しいなと思って来てみれば案の定ここにいた。

 今日は朝から手伝いなのかとぼんやり眺めていると、まだ注文していないにも拘わらず、奥からトレーを持ったアトリアがやってくる。

 その足取りは、シエロやベリエに比べれば危なっかしいが、それなりに様になっている。



「はい、どうぞ」


 目の前に置かれたのは焼き魚定食だ。

 ホカホカと白い湯気と共に香ばしく焼かれた焼き魚の良い匂いが立ち上っている。



「今日の魚は私が焼いたの」


「え? 本当に?」


 匙を持った手を止め、目の前の魚へ視線を落とす。

 見た目、焼き色、光る塩の粒、匂いに至るまで完璧だ。

 だからこそ驚いた。

 てっきりベリエ作だと思ったからだ。

 前に自宅で焼いたアレとは天地の差がある。

 真ん中をほぐし、ふわふわの身を頬張る。


「…旨い」


 目を見張ればアトリアが嬉しそうに此方を覗きこんでくる。


「ホント?」


「ああ、ほら」


 食ってみろと匙を出せば、一瞬躊躇ったもののパクりと口へ含んだ。


「…美味しい」


 自分で焼いたくせに感動している。


「ホントに旨い。こんなに早くアトリアの焼き魚が食べられると思って無かった。頑張ったな」


 クロードが表情を崩せば、「へへへ」と照れ笑いするアトリア。

 彼女の努力を知っているベリエとシエロも嬉しそうだ。

 やれば出来る子だったようで安心した。



「今日はシエロちゃんとお祭り回るんだぁ」


 朝食を終え、席を立つクロードに、アトリアが嬉しそうに口を開いた。

 いつの間にか『姉ちゃん』が取れている。


「二人だけで? 大丈夫か?」


 驚くクロードに、アトリアはカラカラと笑った。


「大丈夫だよ!! 前から約束してて、楽しみにしてたんだから」


「でも、物凄い人だぞ? 変な奴に絡まれたりとか」


「もう! 大丈夫だってば! くまさん、本当にアトリアちゃんの事になると心配性なんだから」


 テーブルの片付けを終えたシエロも加わる。


「そう言う訳では…」


 子供扱いしすぎてしまっただろうか。

 折角楽しみにしていたものに水を差すのは忍びない。

『過保護が過ぎると嫌われる』

 そうレオニに言われたのを思い出し、クロードは開き掛けた口を閉ざした。


「気を付けてな」


 それだけ伝え、仕事へと向かった。




 本日の相方、レオニと共に市井の見回りを終え、詰所へと戻って来ると、いつもより兵士が多く集まっている所に出会した。

 二人で顔を見合せ、何だろうかと近付く。

 側まで寄ると人混みの中で見知った顔が此方に向かって手を上げた。


「あっ! くまさーん!」


 浴衣を着こなし、髪を後ろで団子状に纏め、軽く化粧を施したシエロだった。


「え…シエロ…? 何でここに……」


 嫌な予感がして、彼女の隣を見れば、若い兵士の間から顔を覗かせたのは、案の定アトリアだった。

 此方も浴衣姿だ。

 が、以前のお古ではなく、新しい物だ。

 薄い黄色の布地に大小様々な花柄が散りばめられたその浴衣は、今のアトリアにとても良く似合っている。

 前髪には二つのピンが差し込まれ、そちらにも花の飾りがついている。

 唇には紅が乗せられ、ぐっと女性らしさを増した出で立ちは、若い兵士達が騒ぐのも無理はないと思わせるものだ。


 ざわざわと胸に黒い靄が掛かっていく。


 頬をピンクに染めたアトリアが側へ駆けてくる。


「それ、どうしたんだ?」


 頬が引きつる。自分でよくわかった。


「ベリエ母さんがお給金をくれてね、シエロちゃんと一緒に選んだの」


「…そうか」


 アトリアの目は似合うかどうかと聞いていたが、今のクロードにそれを推し測る余裕は無かった。

 シエロもレオニもその姿を見せたくて来たのだと分かってしまう程、アトリアは露骨だったのだが、そんな姿からクロードは目を反らしてしまっている。

 手には包みを持っていたが、それも初めての給料で買った物なのだろう。


「クロさん…?」


 何も言わないクロードに、アトリアは不安の表情を浮かべた。

 わかったがそれすら些細な事に思えた。

 後ろで騒ぐ若造に苛立ちが募る。

 黒い靄が胸を覆い尽くしていく。



「ちょっと」


 アトリアの肩を強引に抱き、その場を離れる。


「クロさ…――」


 少し距離を取った所で突き放した。

 こちらを向いたアトリアの目は見なかった。


「仕事の邪魔だから帰れ」


 自分でも驚くような冷たい声だった。


「…え…」


 アトリアの目が開かれる。

 目の前に見えているものが信じられないと言った表情だ。


「…私、クロさんに見て欲し…」


「帰れ!」


 荒げた声に、アトリアの肩がびくりと揺れた。

 みるみる瞳が潤んでいく。

 その姿を見てしまい、心臓に棘が刺さったような痛みを覚えた。


 違う。

 そうじゃない。

 否定しようとした言葉が咄嗟に出て来ない。


「あ…ぃや……」


 すまないと発する前に、アトリアは背を向けて行ってしまった。

 シエロが慌てて駆けてくる。


「違うの! 私がくまさんに見せてあげたら喜ぶって言ったの! アトリアちゃんは悪くない。……余計な事してごめんなさい」


 それだけ言うとすぐにアトリアを追いかけて行ってしまった。



「おいクロード! 早く追えよ!」


 レオニがすぐ側までやってくる。

 追わなければという思いと、行ってどうすればという思いが交錯した。


「何してる! 早く行って謝ってこい!」


 レオニの言う通りだ。

 完全に自分が悪い。

 なのに足が地面にくっついて離れない。

 胸を覆った黒い靄は晴れるどころか濃くなる一方だ。


「…仕事中だから」


 結局口から出た言葉はそれだった。

 レオニは舌打ちすると、クロードへ背を向ける。


 何をしてるんだ俺は…


 その場を動けないクロードを襲ったのは酷く重たい後悔の念だった。




 アトリアは独り喧騒の止まない通りを歩いていた。

 俯いたその目には涙が溜まっている。


 何で…

 どうして…


 先程から同じ言葉がぐるぐると頭を巡っていた。

 何がダメだったのかわからない。

 初めて自分の力で稼いだお金で買った、お気に入りの浴衣を見て欲しかっただけだったのに。

 クロさんなら「良く似合ってる」って、きっと言ってくれると思っていた。

 なのに、こっちを見てもくれなかった。

 手に持った包みを無意識に強く抱いていた。紙の包みがくしゃりと歪む。

 何か悪い事しちゃったんだ。

 クロさんがあんなに怒るような事を…

 一生懸命考えても、それが何かが解らなかった。

 なりふり構わず駆けてしまって、シエロともはぐれてしまった。


 もう帰ろう。


 そう思った時だ。


「あら? あなた、クロードのところの仔猫ちゃん?」


 そんな風に声を掛けられて顔を上げた。


「あ……」


 目の前に立っていたのはクロードが『ママ』と呼ぶその人だ。

 浴衣を着て独りで歩くアトリアを不審に思ったのか、ママはゆっくり近付くと顔を覗きこんできた。


「独り? 浮かない顔をして、どうしたの?」


「…っ…」


 途端に今まで堪えていた涙が溢れ出す。

 声を押し殺すように泣き出してしまったアトリアに、ママの手が肩へと触れた。


「あらあら。独りならいらっしゃいな」


 優しい声色に頷きだけ返すと、アトリアはママについて歩き出した。




 夕の刻の鐘が鳴り響く。

 あれからすっかり集中力を欠いてしまったクロードに、苛立ちながらレオニが声を掛けた。


「さっさと行けよ! 完全にお前が悪いんだからちゃんと謝ってこい!」


 その声に力無く頷くと、クロードは急いで鎧を外した。

 サインしに行こうとするのを制し追い立てる。


「すまん」


 それだけ言い残し、クロードにしては珍しく走って行く後ろ姿を見送った。


「世話の焼ける」


 苛立ちを覚えながらも、今までにない明らかな変化に、レオニは嬉しそうに口元を歪めると、勤務表に友人の分のサインを施した。




 真っ先に家の扉を開ける。


「アトリア!!」


 全ての部屋を覗いたが、姿が無かった。

 着替えた様子も無い。

 帰っていないという事だ。


「どこいった…」


 焦りが募る。


 まさかこのままどこかへなんて……


 過った考えに頭を振ると、望みを掛けて食堂へと走った。



 息を切らしてやって来たクロードに、ベリエは驚きを隠せなかった。

 今までこんなに慌てた様子のクロードを見たことが無かったのだ。


「どうしたんだ? そんなに慌てて」


「アトリアが居なくなった」


「何だって!?」


 その声に奥からシエロがやって来た。


「まだ帰ってないの?」


「ああ。どこ行ったか知らないか?」


 難しい顔をしたシエロが首を横に振る。


「そうか……」


「私も探す」


 そう言ってエプランを外そうとしたシエロをクロードが止めた。


「いや。店もあるし、シエロはここに居てくれ。もしかしたら、こっちにアトリアが来るかもしれない」


「わかったわ」


 素直に頷いてくれたシエロを見つめる。


「さっきはすまなかった。折角来てくれたのに…」


「そんなのいいから、アトリアちゃん探してあげて」


 頷き、食堂を後にする。

 取り敢えず思い付く場所を当たってみよう。


 アトリア……!


 焦りと不安で押し潰されそうな気持ちを奮い起たせ、再び走った。


 眼前には陽が沈み、茜から紺色へと移り変わろうとしている空が広がっていた。

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