仔猫か猫子か。
「ママ、おかわり!!」
カランと氷のぶつかる音を聞きながら、クロードは空になったグラスをママへ差し出すレオニを見た。
「ペース早いぞ。止めとけよ」
グラスを奪おうと伸ばした手は、さっと避けられ空を切る。
「うるさい、このロリコンめ! いつの間にあんな彼女……アトリアちゃん可愛いじゃねーか! ちくしょうめ!」
強めのヤツをハイペースで既に三杯空けている。
そりゃぁこうなるわなと思いながら、クロードは呆れ顔でママと顔を見合わせる。
ママもあらあらなんて言いながら、レオニから受け取ったグラスに水を注いでくれている。
どうやら祭りの初日にばったり会った時に連れていた年下の彼女にフラレたようだ。
久々の絡み酒。面倒くさいのをすっかり忘れていた。
「今回はマジだったのに……。ステラとなら将来もって、ちゃんと思ってたんだよ……なのになんでだぁー」
ステラという名前だったらしい。確かに、いつも手を出すような派手な感じではなく、落ち着いた清楚なイメージだった。
レオニにしては珍しいタイプだと思ったものだ。
「レオニの口から将来も何て聞く日が来るとは思わなかったよ」
いつかはとは思っていたが、そのいつかがやってくるとは全く想像していなかった。どうしてまた急にそう考えたのかと、クロードにもさっぱり分からない。
「うるさい朴念人! どうせお前はシエロちゃんの事もアトリアちゃんの事も、『俺みたいのになついてくれる数少ない年下』くらいにしか思ってないんだろ!!」
「その通りだろうが」
「この朴念人! だからお前は……この朴念人!!」
語彙力磨けよ。
アトリア見習って本読んだ方がいいな。
ママにクスクス笑われながら、レオニは水のグラスを受け取ると、それを一気に煽った。
本人は酒のつもりなんだろうが、しっかり水だ。ぷはっなどと言いながら、タンっと勢いよくカウンターにグラスを置いたレオニが、ジロリとクロードを睨みつける。
「二人共ちゃんと恋する女の顔してるのに、お前は『どうせ俺なんかに』なんて言いながら見て見ぬフリしてるんだろうが!! 一番ひでぇ奴だ」
……何言ってんだコイツ。
大体俺とあの子達の年の差いくつあると思ってんだよ。
そんなクロードの心の声を正確に読み取ったレオニは、人差し指を突き付けてくる。
「言っとくけどな、年の差なんて関係ないんだよ! 恋しちまったらな! ジジイだろうが、クソガキだろうが男と女なんだよ!!」
「…………」
「この朴念仁がっっっ!!!」
そして言いたい事だけ喚いてカウンターへ突っ伏してしまった。
こうなったらもう寝落ちパターンだ。本当に面倒くさい。
そう思いながらも、結局クロードは世話を焼いてしまうのだ。そしてそれをママも知っている。
彼女はレオニに痛い所を突かれて固まってしまったクロードを見た。
レオニの言う『アトリア』とは、前にクロードの部屋で見た『ミー子』の事だろう。
小さくて可愛らしい猫の獣人の少女だった。
クロードの背中に隠れていたが、こちらに向けられた警戒の眼差しには牽制が含まれていた事をママは知っている。知っていると言うか、同じ女だから解ると言った方が正しいか。
レオニの言うように、小さな体で『女の顔』をしていたのを思い出し、ママはクスクスと喉を鳴らした。
「今日は何て言って仔猫ちゃん置いてきたの?」
クロードに新たなグラスを差し出す。
「レオニとママのところと言って来た」
あらあらと声を出したママに、クロードの表情が困惑に歪む。
「不味かったのか……?」
「私は嬉しいけど……仔猫ちゃん、怒ってなかった?」
もう少し別の言い方すればいいのにと思わないでも無かったが、彼女はクロードのそんな所が可愛らしいと思う。
「うーん……怒っては無かったと思うが、出てくる間際の邪魔がしつこかったな」
此方を見ながらの爪研ぎなんてもうホラーだった。新調したソフアが餌食になっていないといいのだが。
思い出して青くなっているクロードに、ママが再びクスクスと笑いを洩らした。
「でも、クロードはそれを許しちゃうんでしょう?」
「許すというか、諦めだけどな」
この人はそういう人だ、とママは再びクロードを見つめる。
自分に降り掛かった少しくらいの厄介は、自分で片付けてしまう。何でもないという顔をして。自分から周りに頼るような事も、余程困らない限りほぼ無い。幼少期からそうだっただろうから、もはや癖というかそれが当たり前なのだろう。本人は通常のつもりでも、周りにしてみればそれが歯痒いこともある。言って欲しい、頼ってくれればいいのに、そう思う事もまたしばしば。
そして兎に角女性に甘い。甘いと言うか、優しい。色んな意味で。その優しさが時に残酷だなどと、本人は少しも思っていないのだろうが。
仕方の無い人……
そうは思うがしょうがない。それが彼の悪いところであり、良いところなのだから。
そんな彼が、ママも可愛くて愛しくて仕方が無いのだから。
「喧嘩したら私の所へいらっしゃいな」
「……そうだな。そうさせて貰うよ」
そうやって苦笑いする。
いつもそうやって、何でもない風にはぐらかす。分かってるのか分かっていないのか分からない。
そしてそういう言い方をしているママも確信犯なのだ。
チリーン
昔ながらの玄関ベルが、扉が開いた事を知らせた。
「いらっしゃい」
ママと共にそちらへ視線をやれば、入って来たのは見知った顔だった。
「ヤマさん! と、リント」
ベテラン兵士のヤマさんとクロードよりも年の若い同僚のリントが揃ってやって来た。確か二人共夕の刻からの遅出だった筈だ。祭りの喧騒に誘われて、仕事終わりに一杯とでもなったのだろう。
因みにリントは先日仕事終わりに役所からの知らせを届けてくれた同僚だ。宿舎が同じだった事もあり、よく話す間柄ではあったが、こうして酒の席を共にするのは初めてだ。
「お疲れ様です」
クロードが声を掛けると、ヤマさんは嬉しそうに彼の座るカウンター席へとやって来た。潰れたレオニの隣へリントと共に腰掛け、クロードが飲んでいるものと同じグラスを注文した。
仕事はどうだったのかと聞けば、祭りで羽目を外しすぎた若いのが酔った勢いで喧嘩してたから仲裁してきたとの事だった。豪快に笑うヤマさんの隣で、リントの表情が引きつっている。
いつものだな……
クロードは察した。
ヤマさんの言う仲裁とは、間に入って宥める等といった生易しいものではない。
そもそも酔っ払い相手に優しいだけの口頭注意など意味を成さない。ヤマさん理論だが。
時に手を出し足を出しての仲裁も仕方なしなのだそうだ。…ヤマさん理論だが。
クロードは彼と組んでその現場を目にした事は一度しかない。その一度も、直接見た訳ではなく、既に事が収まった後だった。
ヤマさん曰く「くまと回るときは平和」なのだそうだ。
優しく穏やかそうなこの人が、といつも不思議に思うが、リントのように彼と組んだ人間から武勇伝を聞かされる事はまぁ多々ある。
優しいだけでなく、逞しく頼れる男なのだ。
「そういやくま、あの噂聞いたか?」
「噂?」
心当たりの無かったクロードは、ママから二杯目のグラスを受け取るヤマさんを見た。
「とうとう国境辺りで小競り合いがあったらしい」
「え?」
リントは既に聞いていたのか、難しい顔をしてグラスを煽っている。
「小競り合いって、隣国とですか?」
「ああ。トンネル掘ってた山、そこでジレーザが出たらしくてな。所有権で揉めてるようだ」
「ジレーザって…鎧とか武器の原料の? 揉めるって、そんなの始めから土地の割り振りなんてやってるだろうに……何で今更」
「きっとまた皇太子がごちゃごちゃ口を挟んだんですよ! 騎士団が振り回されて、上層部も困惑してるって聞きました」
この国の王政について、疑問視する声は少なからずあった。現国王も、それを継承する皇太子も、いい噂を聞かない。
税が上がり、物価が上がり、生活が困窮し住みづらくなる一方だ。それに加えてここ数年頻発する小競り合い騒動。
不満は蓄積こそすれ、減ることは無い。それを肌で感じるのは、この国にずっと住んでいる最下層の平民達だ。
「戦争が先か、暴動が先か……どっちにしろ、俺達一般兵は駆り出されるだろうな」
ヤマさんの重い溜め息が静かな店内に溢れた。
「もう少しだから、ちゃんと歩けよ」
レオニの部屋。
やっとの事で部屋まで運び、その重い図体をベッドへ放り投げる。出掛けたままの格好だが、そこまで面倒みてはやらない。
「鍵ここに置くからな。ちゃんと掛けろよ」
ベッドの側、小さな棚の上に鍵を置き、部屋を出ようと背を向けた。
「アトリアちゃん、どうすんだよ」
不意に掛けられた言葉に反射的に振り返る。
「どうって……」
「ちゃんとしてやれよ」
「だから一緒に——」
「その一緒がどういう意味なのかって言ってんだ」
というか、起きてたのかコイツ。
ばっちり話聞いてたんじゃねぇか。
自分で歩けよ。
「お前の一緒にいるってのは、娘としてか? それとも恋人としてなのか?」
「こいっ……、有り得ないだろ……」
「じゃぁ俺にアトリアちゃん寄越せって言ったら、お前はそうするの——」
「絶対ない! お前にだけは絶対ない!」
「……他の男ならいいのかよ」
「…………」
考えた事も無かった。
アトリアが自分の元を去って行くという事を。
以前べリエにも似たような事を言われたが、冗談だからと言われて深く考えなかったのだ。
年頃の女の子だ。いずれは結婚して家庭を築くのだろうが……。
あのアトリアが……?
彼女の隣に見知らぬ男が寄り添う姿を想像してみる。
しようとしたが出来なかった。考えただけで背中がざわざわする。胸の奥がムカムカする。
「無いだろ」
「だったらちゃんとしてやれよ。中途半端にするな。俺らの仕事はいつどうなるか分からないんだ。その覚悟をさせてやれ」
再び言いたい事だけ言って、今度は本当に寝てしまった。
何なんだ。今日のレオニは何かおかしい。
強い酒のせいか?
確かに言ってる事はまともだ。その通りかもしれない。
ただ何故だろう。コイツにだけは言われたく無かったな。
悶々としながら家の扉を開ける。
居間へ入ると、室内は多少散らかっている。いつもの事なので、もう気にならない。
以前、アトリアを置いてママの所へ行った事があったが、その時に比べれば大分マシな方だ。
毛むくじゃらの姿はソフアの上にあった。御丁寧にその下にはアトリアお気に入りの上着が敷いてある。勿論クロードの上着だ。
これが常の為、もうアトリア専用でいいとすら思っている。
静かに隣に腰掛けると、丸く小さくなったその背を撫でた。
ふわふわで柔らかな毛並みが上質なぬいぐるみを連想させる。目を覚ましたのか、顔を上げるとミーと鳴いた。甘える時の鳴き声だ。
「ただいま」
撫でた瞬間から喉はゴロゴロ鳴っている。
頭を撫でると、大きな掌に自分から鼻先や頭を擦りつけてくる。
愛しいと思う。
自然とにやけてしまう程に愛しい。
無防備にさらされるそのふわふわの腹に、顔を埋めたくなる程に愛しい。
ただ、それが仔猫だからなのか、猫子だと知っているからなのか、クロードには判断がつかなかったのだ。
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