第12話――胸のずっと奥が痛い

「アトリアちょっと大きくなったか?」


 朝、いつものようにクロさんのお腹の上で目が覚めると、大きな手が私の頭を撫でながらそう言われた。

 確かに背が伸びた気がする。

 気に入っていた黄色のふわふわワンピースがちょっとミニスカートになっちゃったにゃ。

 それを着てクロさんとお出掛けしようと思ったのに、「短いから駄目」って言われた。

 膝丈だったスカートから膝が見えただけなのに。ちょっと短くなっちゃっただけなのに。

 レオニさんが教えてくれたけど、こうゆうの『過保護』って言うみたい。


 むぅ。お気に入りだったのに。



 クロさんがお休みの日、一緒にお役所へ行ってきた。

 私とクロさんが一緒に住むには、『手続き』というのが必要らしい。

 私には何のお話をしているのかさっぱりだったから、クロさんが男の人とお話している間は窓の外を見ていた。

 大きな通りが近くにあって、人がいっぱいで見ていて楽しい。

 前にシエロ姉ちゃんと一緒に歩いた時よりも、小さなお店が増えている。

 クロさんはお祭りが近いからだって言っていた。


 お祭りって何だろう?

 美味しいのかにゃ?


 クロさんに呼ばれて近くへ寄ると、色々字が書かれている紙に私のサインがいると言われた。

 字が書けなくて困っていたら「おいで」とクロさんの膝に乗せられる。

 背中が全部クロさんに引っ付いて、ペンを持たされた右手をペンごと握られる。


「力抜けよ」


 耳元で話されて、何かよくわからないけど体の奥がゾワゾワする。

 嫌な感じじゃないけど、このままなのも恥ずかしくて動いたら「動くな」って余計に引っ付いた。

 もう殆どクロさんが書いたサインだったけど、正面に座っていた男の人は笑って許してくれた。

 私の顔が真っ赤っかだったらしく、心配されたけど、少し時間が経ったら治ったから大丈夫にゃ。



 帰り際


「クロードさんに見つけて貰えて良かったですね」


 そう言われて、本当にその通りだっから自然と笑顔で返事をした。



 お役所からの帰りに、今の部屋を出てもう少し広い部屋に住むという事を聞かされた。

 丁度良く空き部屋があったようで、直ぐにでも入れるようだ。

 次のお休みに引っ越しをするらしい。

 元々荷物はそんなに多くないし、直ぐに終わるだろうとクロさんは言っていた。



「折角来たし、屋台でも覗いて行くか?」


 クロさんの提案につい大喜びしてしまった。

 以前よりも格段に増えた屋台に、ドキドキとワクワクが止まらない。

 今にも飛び出してしまいそうな私の左手を、クロさんの大きな手が包んだ。


「絶対迷子になるから」


 ちょっと意地の悪い顔で言われてしまった。

 そんな事ない!

 って言いたかったけど、人の多さに圧倒されて、出掛かった言葉は続かなかった。

 それに、手を繋いで歩くのは初めてで、それはそれで悪くないと思えたのだ。



 食べ物を売っているお店が沢山あって目移りした。

 どれも美味しそうで選べにゃい。

 見かねたクロさんが、トコ焼きと焼きメンとお好む焼きをひとつずつ注文してくれた。それから私の腕の長さくらいありそうなソーセーヂの串と、何度か買ったことのある親父さんのとこの串にく。

 串にくだけは二つ。

 たくさん買ったけど、全部ひとつずつにして、半分こする。


 半分こ…なんかちょっと嬉しい。


 タプオカミルクのお店の前を通ったけど、前に飲んだ時の恐怖が甦ったから止めた。

 じゃぁとクロさんが買ってくれたのは、フワフワの白いクリィムの乗ったカラフルな飲み物だった。

 クリィムを舐めてみると、ミルクの味がして甘くて美味しい。


「座るか」


 人混みを離れて、道路脇の縁石へ並んで座った。


「気をつけて飲めよ」


 そう言われて一気に喉へ押し寄せたタプオカが過る。

 恐る恐るストローを咥えると、ゆっくり吸ってみる。

 口に入った途端にジュースが弾けた。


「に゛ゃ!!」


 パチパチと舌の上で弾けて、シュワシュワと喉を通っていく。

 驚いたけれど、甘くて美味しい。それからちょっと喉が痛い。


「美味しいけど、びっくりする…」


 そう言ったらクロさんは笑った。



 クロさんの缶エールを買って、家に帰った。

 ベリエ母さんのところでお弁当をひとつだけ買って、部屋に戻った。

 いつもより少し早いけど晩御飯にしようと、買ってきたものをテーブルへ並べた。

 クロさんは早速缶エールをプシュっとやっている。

 飲みたいって言ったら、お子ちゃまにはまだ早いってニヤリ顔で言われた。

 ちょっとイラついたから、間違ったフリして爪立ててやったにゃ。



 トコ焼きを頬張っていると、目の前にお好む焼きの乗った匙が差し出された。


「ほら」


 クロさんの優しい視線が真っ直ぐこちらへ向けられている。

 左胸がなんだか少しソワソワする。

 口を開けてそれを含むと、甘辛いソースと野菜の甘さが相まってとても美味しい。


「美味しい」


「そうか」


 微笑むクロさんにまた左胸がソワソワした。

 手元のトコ焼きをひとつ、匙へ取る。

 クロさんと目が合うと、彼は隣へ移動して来た。

 恐る恐る差し出すとクロさんがそれを頬張る。

 なんかちょっとドキドキした。


 ……恥ずかしいにゃ


「ん、んまい」


 口の端についたソースを指で拭いながら、口角を上げるクロさんに、何故だか胸がドクンと音を立てた。

 体もなんだか熱い気がする。


 何だろう。胸が苦しいにゃ。


 あんなに大好きだった串にくは今日はいまいち味が分からなかった。

 親父さんでも失敗しちゃう事あるんだにゃ?



 結局食べ過ぎて、毛むくじゃらの姿になっても動けそうにない。

 クロさんが「お前本当に猫かよ」何て言いながらベッドへ上げてくれる。

「重いから」と、お腹の上には乗せてくれなかった。……けち。



「お前の呪いはどうやったら解けるんだろうな」


 クロさんの隣で丸まる私の頭からお尻に掛けて、大きな手がゆっくりゆっくり撫でてくれている。


「どうやって探せばいいんだろうな」


 クロさんの呟きを聞きながら眠気に抗えない私はいつの間にか眠ってしまっていた。





「よし。やるにゃ!」


 腕捲りをして気合いを入れる。

 クロさんはお仕事。

 数日後には引っ越し。

 クロさんは自分がやるからと言っていたけど、疲れて帰ってくるのに私だけ何もしないのは嫌だ。

 だからお片付けを手伝いたかっただけなのに、どうしてこうなるんだろう。


 見回す部屋はさっきよりもぐっちゃぐちゃ。


 服をいれようと思った紙の箱は何故かボロボロ。

 魔掃除具を掛けようと思ったら、いまいちボタンが分からずに大きな音にびっくり。終いには落としてしまい、折角苦労して吸い込んだゴミが散乱してしまった。

 台所を綺麗に洗おうと思ったのに、石鹸の泡は消えるどころか増える一方。

 おまけに自身も水浸しだ。


「私、何にも出来ない…クロさんの役に立ちたいのに……」


 クロさんが私のお父さんみたい。

 そう言われる事に違和感があった。

 娘なんて嫌だ。

 お世話されるだけなんて嫌だ。

 私だってクロさんの役に立てるもん!

 家事くらい出来るもん!

 そう思っていたのに、何一つ出来ない。

 反ってクロさんの仕事を増やしてしまった。

 悔しくて悲しくて涙がこぼれた。


「ただい……」


 玄関を開けたクロさんが愕然としている。

 どうしよう…怒られちゃう。嫌われちゃうかもしれない。

 そう思ったら益々涙が止まらなくなってしまった。


「アトリアどうした? 何かあったのか?」


 クロさんが慌てて駆け寄ってくる。


「違っ……お手伝い、したかっ……なの、に…全然、出来な……ごめ、なさいっ……」


「…なんだ、そうか」


 クロさんが膝をついて長い息を吐き出した。


「何かあったのかと…」


 大きな手が私の頭を撫でてくれる。

 怒られると思っていたのに、驚いて見ればクロさんはとても穏やかな表情でこちらを見ていた。

 びっくりしすぎて今度は涙が止まってしまった。


「…怒ら、ないの…?」


「どうして? 頑張ってくれたんだろう? ありがとな」


 そう言って優しく笑ってくれたのだ。


 両手で胸を押さえる。

 左胸がドキドキしている。

 前よりもずっと激しく鳴っている。

 鳴りすぎて痛いくらいだ。


 何だろう……胸のずっと奥が痛い……


 痛いのか、痒いのか、もうわからない。

 ただぎゅっと握られるような締め付けられるような感覚があった。

 その感情がなんなのか分からないまま胸を押さえ、ただただ私はクロさんの顔を見つめた。

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