胸のずっと奥が痛い。

「アトリア、お前……なんか急にデカくなったな……」


 朝、いつものようにクロさんのお腹の上で目が覚めると、大きな手で頭を撫でてくる彼を見た。折角ベッド作ったんだからそこで寝ろと言われたけれど、どういう訳か朝起きるとクロさんの上にいる。

 ゴツゴツしてて寝心地は悪いけど、あったかくて、クロさんの胸の音が聞こえるここが気に入ったのだから仕方ない。


 言われて着替えの際に自分を見下ろしてみる。確かに背が伸びたかもしれない。

 気に入っていたお下がりの黄色ふわふわワンピースがちょっとだけミニスカートになってしまった。

 それを着てクロさんとお出掛けしようと思ったのに、「短いから駄目」って言われた。

 膝丈だったスカートから膝が見えただけなのに。ちょっと短くなっちゃっただけなのに。

 レオニさんが教えてくれたけど、こうゆうの『過保護』って言うみたい。


 むぅ。お気に入りだったのにぃ。




 クロさんがお休みの日、一緒にお役所へ行ってきた。

 私とクロさんが一緒に住むには、『手続き』というのが必要らしい。

 私には何のお話をしているのかさっぱりだったから、クロさんが男の人とお話している間は窓の外を見ていた。

 大きな通りが近くにあって、人がたくさん歩いていて、見てて楽しい。

 前にシエロ姉ちゃんと一緒に歩いた時よりも、小さなお店が増えている。ここにいてもいい匂いがしてるから、美味しいものを置いているお店も増えたのだと思う。早く行きたい。

 クロさんに聞いたら、お祭りが近いからだって言っていた。


 お祭りって何だろう? 美味しいのかにゃ?


「アトリア。ちょっと来い」


 響きからして美味しそうだなぁ、なんて考えていたら、クロさんに呼ばれる。何だろうかと近くへ寄ると、色々字が書かれている紙に私のサインがいると言われた。


「名前、書けるか?」


 字なんて書いたことも読んだことも無い。クロさんの役には立ちたいけど、どうしよう。そう思って困っていたら「おいで」と手を引かれて、あっという間にクロさんの膝と膝の間に座らされた。

 背中が全部クロさんに引っ付いて、ペンを持たされた右手をペンごと握られる。


「力抜け」


 耳元で話されて、何かよくわからないけど体の奥がゾワゾワする。顔もすごく熱くなって、胸がドキドキうるさくなった。

 嫌な感じじゃないけど、このままなのも恥ずかしくて動いたら、「動くな」ってお腹に腕を回されて余計に引っ付いた。

 もう殆どクロさんが書いたサインだったけど、正面に座っていた男の人は笑って許してくれた。

 私の顔が真っ赤っかだったらしくて心配されちゃったけど、少し時間が経ったら治ったから大丈夫みたい。

 帰り際、クロさんとお話していた男の人に名前を呼ばれて振り返る。


「アトリアさん、クロードさんに見つけて貰えて良かったですね」

「!! はい!」


 本当にその通りだったから自然と笑顔で返事をした。




 お役所からの帰りに、今の部屋を出てもう少し広い部屋に住むという事を聞かされた。今住んでいるところからは目と鼻の先で、丁度良く空き部屋があったらしく直ぐにでも入れるようだ。

 次のクロさんのお休みの日に『引っ越し』をするらしい。元々荷物はそんなに多くないし、直ぐに終わるだろうとクロさんは言っていた。手伝い頼むなって言われたから、張り切って返事をした。

 いつもはクロさんにやってもらう事が多いから、少しでも役に立てるなら私も嬉しい。何も出来なくてやっぱりいらないって言われたら嫌だから、沢山沢山お手伝いしよう。




「折角来たし、屋台でも覗いて行くか?」

「いやったぁー!!」


 クロさんの提案につい大喜びしてしまった。

 以前よりも格段に増えた屋台に、ドキドキとワクワクが止まらない。あっちに出来たのも気になるし、そっちの面白そうな店も見たい!

 今にも飛び出してしまいそうな私の左手を、クロさんの大きな手が包んだ。また顔が熱くなった。


「絶対迷子になるから」


 ちょっと意地の悪い顔で言ってくるクロさんに頬を膨らませて抗議の目を向ける。

 そんな事ない! って、本当は言いたかったけど、人の多さに圧倒されて出掛かった言葉は続かなかった。

 それに、こうやって歩くのは初めてで、それはそれで悪くないと思えたのだ。心臓がさっきと違う音になっていて、何だかむずむずふわふわした。



 食べ物を売っているお店が沢山あって目移りする。

 どれも美味しそうで迷ってしまう。

 一向に決められない私を見かねたクロさんが、とこ焼きと焼きめんとお好む焼きをひとつずつ注文してくれた。それから私の腕の長さくらいありそうなソーセーヂの串と、何度か買ったことのある親父さんのとこの串にく。串にくだけは二つ。

 たくさん買ったけど、全部ひとつずつにして、半分こする。


 半分こ……なんかちょっと嬉しい。


 タプオカミルクのお店の前を通ったけど、前に飲んだ時の恐怖が甦ったから止めた。美味しかったけど、あのつぶつぶ怖い。

 じゃぁとクロさんが買ってくれたのは、白いクリィムの乗った綺麗な色の飲み物だった。

 クリィムを舐めてみると、ミルクの味がして甘くて冷たくて美味しい。


「座るか」


 人混みを離れて、道路脇の縁石へ並んで座った。


「気をつけて飲めよ」


 そう言われて一気に喉へ押し寄せたタプオカが過る。恐る恐るストローを咥えると、ゆっくり吸ってみる。

 口に入った途端にジュースが弾けた。


「に゛ゃ!!」


 パチパチと舌の上で弾けて、シュワシュワと喉を通っていく。

 驚いたけれど、甘くて美味しい。それからちょっと喉が痛い。


「美味しいけど、びっくりする……」


 そう言ったらクロさんは笑った。




 クロさんの缶エールを買って、家に帰った。

 ベリエ母さんのところでお弁当をひとつだけ買って、部屋に戻った。

 いつもより少し早いけど晩御飯にしようと、買ってきたものをテーブルへ並べる。私が並べている間に、クロさんは匙やお皿を用意してくれた。

 テーブルに着くと、クロさんは早速缶エールをプシュっとやっている。

 シュワシュワを飲めるようになったから飲んでみたいと言ったら、お子ちゃまにはまだ早いってニヤリ顔で言われた。

 ちょっとイラついたから、間違ったフリして爪立ててやったにゃ。



 程よく冷めたとこ焼きを頬張っていると、目の前にお好む焼きの乗った匙が差し出された。


「ほら」


 クロさんの優しい視線が真っ直ぐこちらへ向けられている。

 左胸がなんだか少しソワソワする。

 口を開けてそれを含むと、甘辛いソースと野菜の甘さが相まってとても美味しい。


「んー! 美味しい!!」

「そうか」


 微笑むクロさんにまた左胸がソワソワした。

 手元のトコ焼きをひとつ、匙へ取る。クロさんと目が合うと、彼はテーブルに身を乗り出してくる。

 恐る恐る差し出すとクロさんがそれをパクリと頬張った。

 なんかちょっとドキドキして、照れくさい。いつもやってもらってる事なのに、なんで自分がやるとこんなにも恥ずかしい気持ちになるんだろう。


「ん、んまい」


 口の端についたソースを指で拭いながら、口角を上げるクロさんに、何故だか胸がドクンと音を立てた。

 体もなんだか熱い気がする。


 何だろう。胸が苦しい。


 あんなに大好きだった串にくは、今日はいまいち味が分からなかった。

 いつも完璧に美味しい串にくを焼いてくれる親父さんでも、失敗しちゃう事あるんだにゃぁと思いながら完食した。




 結局食べ過ぎて、毛むくじゃらの姿になっても動けそうにない。

 お腹を上にしてゴロゴロしていると、クロさんが「お前本当に猫かよ」何て言いながらベッドへ上げてくれる。

「重いから」と、お腹の上には乗せてくれなかった。……けち。


「お前の呪いはどうやったら解けるんだろうな……」


 クロさんの隣で伸びている私の頭からお尻に掛けて、大きな手がゆっくりゆっくり撫でてくれている。


「どうやって探せばいいんだろうな……」


 クロさんの呟きを聞きながら眠気に抗えない私はいつの間にか眠ってしまっていた。意識が遠のいていく途中で、金属が欠けるような小さな小さな音が聞こえた気がした。





「よし。やるのにゃ!」


 腕捲りをして気合いを入れる。

 クロさんはお仕事。数日後には引っ越し。

 クロさんは自分がやるからと言っていたけど、疲れて帰ってくるのに私だけ何もしないのは嫌だ。

 だからお片付けを手伝いたかっただけなのに、どうしてこうなるんだろう。


 見回す部屋はさっきよりもぐっちゃぐちゃ。


 服をいれようと思った紙の箱は何故かボロボロ。

 魔掃除具を掛けようと思ったら、いまいちボタンが分からずに大きな音にびっくり。終いには落としてしまい、本体から外れた筒の隙間から折角苦労して吸い込んだゴミが散乱してしまった。

 台所は綺麗に洗おうと思ったのに、石鹸の泡は消えるどころか増える一方。

 おまけに自身も水浸しだ。


「私、何にも出来ない……クロさんの役に立ちたいのに……」


『くまさん、まるでお父さん見たいね』

 そう言われる事にずっと違和感があった。娘なんて嫌。お世話されるだけなんて嫌だ。

 私だってクロさんの役に立てる。家事くらい出来んだから!

 そう思っていたのに、何一つ出来ない。反ってクロさんの仕事を増やしてしまった。

 悔しくて悲しくて涙がこぼれた。


「ただい……」


 玄関を開けたクロさんが愕然としている。

 どうしよう……帰ってきちゃった。

 怒られる……! 嫌われちゃうかもしれない!!

 そう思ったら益々涙が止まらなくなってしまった。


「アトリア!! どうした!? 何があった!?」


 クロさんが慌てて駆け寄ってくる。


「違っ……お手伝い、したかっ……なの、に…全然、出来な……ごめ、なさいっ……」

「なんだ……そうか」


 クロさんが膝をついて長い息を吐き出した。


「何かあったのかと……」


 大きな手が私の頭を撫でてくれる。

 怒られると思っていたのに、驚いて見ればクロさんはとても穏やかな表情でこちらを見ていた。

 びっくりしすぎて今度は涙が止まってしまった。


「…怒ら、ないの…?」

「どうして? 頑張ってくれたんだろう? ありがとな」


 そう言って優しく笑ってくれたのだ。


 両手で胸を押さえた。

 左胸がドキドキしている。

 前よりもずっと激しく鳴っていて、鳴りすぎて痛いくらいだ。


 何だろう……胸のずっと奥が痛い……


 痛いのか、痒いのか、もうわからない。

 ただぎゅっと握られるような締め付けられるような感覚があった。

 その感情がなんなのか分からないまま、胸を押さえ唯々私はクロさんの顔を見つめていた。

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