……ごめんな。
「……うぅ……」
重い……。
腹部が圧迫される感覚に、クロードの意識が急浮上する。
うっすらと開いた瞼の隙間から、チラチラと白い陽が見えた。
半分程開けた窓から吹き込む緩い風がゆらゆらとカーテンを揺らしている。肌を焼くような日差しで無い事から、朝はまだ早い時間のようだ。
腹が圧迫されている。凄く重い。
朝で、目覚める時間で、腹が重苦しい。
そんなのは一つしか理由がないとそちらを見れば、すでにシャツを着た猫子がクロードの腹を跨いで座りこちらを見ていたのだ。
「……っ!」
いつもならクロードを敷布団にして寝ているはずの猫子が、先に起きて身支度をしてクロードの上にいる。
思っていたものとは違う光景に、昨夜はなかなか寝付けなかった筈のクロードの頭が一気に覚醒した。
季節はそろそろ夏の季に入っただろうか。朝にも関わらず、窓から吹き込む風は生ぬるい。
その風が猫子の髪を揺らすと、目元が赤く少し腫れているのが目についた。
「ミー子、お前……」
クロードが体を僅かに起こすと、堰を切ったように猫子の瞳からポロポロと大粒の涙が溢れ出す。
急に泣かれるとは思っていなかったクロードは、どうしていいかもわからず、大きな体をオロオロと持て余すばかりだ。
とりあえず猫子の両脇に手を入れて抱っこすると、体をずらして起き上がりベッドの上で向かい合うように座った。
猫子の瞳からは大粒の涙が溢れ続けている。口をぎゅっとへの字に結び、時々両手で目元を擦るように涙を払う。
見かねたクロードは近くに干してあったタオルを手に取り、ミー子の目元をそっと押さえてやる。不安気に揺れる黄金色の瞳がクロードを見上げると、ようやくミー子と目が合った。
「擦るんじゃない」
その瞳が、雨の中で震えていたそれと重なった。弱々しく怯えたようなその眼差しが、クロードの胸をぎゅっと締め付ける。
泣かせたのだと理解した。
何がいけなかったかと、必死に頭を巡らせる。が、答えは出ない。
頬の涙の痕もタオルでそっと押さえてやった。
「……泣かせた理由を教えてくれ」
ミー子はタオルを受け取り、顔を押し付けると小さくふるふると首を振った。
「……怒ったりしない。ミー子を傷付けた原因を知りたい。……何が駄目だったか、教えてくれ」
「……捨てっ、ないで……」
「っ!!」
頭を、殴られたかのような衝撃を受けた。
勿論クロードにそんなつもりは全く無い。無かったが、ミー子にはそのように伝わってしまったのだ。
結果、泣かせた。負わなくて良い傷を付けてしまった。
自分の口下手さを、不甲斐無さを呪った。自分で自分をぼこぼこにしてやりたい。
「すまないミー子。俺の言い方が悪かった」
猫子はタオルに顔を埋めたまましゃくり上げている。
そんなつもりは全く無かった。
ただ家族がいて、帰る場所があって、ミー子がそれを望むなら、それを叶えてやりたいと思っただけだったのだ。
そうするまでに時間が必要なら、その間ここに居ればいい。好きなだけ、いくらでも。
ただ、クロードから此処に居ろとは言い出し難かった。それがミー子にとって幸せなのかがわからなかったからだ。
自分は出来た人間なんかではない。口下手だし、ぶっきらぼうだし、デカくて力があるだけで大した取り柄もない。散財はしないが、給料だって高い訳ではない。ミー子一人なら養うことは出来るだろうが、決して裕福な暮らしは出来ない。
それらを思うと、果たして『共に暮らす』という選択が、正解なのかがわからなかったのだ。
ミー子自身がそれを望むのか、そこにまで考えが至らなかった。
クロードは口下手ながらも自身の言葉でそれを伝える。
ミー子はタオルに顔を埋めたまましゃくり上げながら聞いていた。
「ミー子はもう自由だから、ミー子がしたいように選べばいいと思ったんだ」
俺の考えでミー子を縛るような事をしたくなかった。
「上手く言ってやれなくて、ごめんな」
猫は自由な生き物だから。
何物にも縛られない、自由な生き方が出来るから。
「ミー子はどうしたい?」
クロードの問い掛けに、ミー子がゆっくり顔を上げた。
泣きすぎて下瞼も赤く腫れている。
揺れる黄金色が真っ直ぐ、しっかりとクロードを見上げた。
「わたし、は……クロさ、と…一緒……が、いい」
しゃくり上げながら、懸命に紡がれた言葉に、クロードの頬が自然と緩む。
「そうか」
「クロさん、は……わたし、いらない……?」
「あほ」
大きな手が猫子の頭へ置かれた。優しく撫でると、ケモミミがピクピクとその手を払う。
これが反射のようなものだという事は、クロードは既に理解している。
「この部屋を見てみろ。ほぼミー子の荷物だ。いらない奴の為にここまでする程、俺はお人好しじゃない」
小さな肩をそっと抱き寄せる。
ミー子が息を飲むのがわかった。
「一緒に暮らそう。俺も、そうしたい」
その選択が、正解なのかはわからない。
俺といることでミー子が幸せになれるかもわからない。
そんな風に言い訳がましく言い連ねてみても、結局もう答えは出ていたように思う。
ミー子の荷物が増えていく度、腹の上で丸くなる毛むくじゃらを撫でる度、仕事中のふとした瞬間、一人で過ごしていた頃が思い出せなくなる程にはミー子の存在はとっくの昔に大きくなっていたのだ。
『嫌だ』と拒絶されるのが怖かっただけだ。一人に戻る時必要以上に傷付かずに済むよう、自分を守っていただけだ。そう思ってしまう程に、彼女の存在が大きくなっていたのだと気づきもせずに。
この小さな体がどんな仕打ちを受けてきたのか、クロードには想像も出来ない。過去の傷を全部消してやる事も出来ない。
ならせめて、これから一緒に過ごす時間くらいはミー子の笑顔が見られるものであって欲しい。
『小さなもんでいい。あるだけ儲けもん』
そう言って穏やかに笑ったヤマさんの表情を思い出す。
その『小さなもん』がミー子にとってちゃんと幸せであって欲しい。
その幸せを一緒に作っていければそれでいい。
クロードの首へしがみつき、声を上げて泣いているミー子の背中へそっと腕を回す。
「……ごめんな」
泣かせてごめん。
傷付けてごめんな。
もう最後にするから。
こんな風に泣かせるのは、これが最後だから。
そう心に誓い、小さな体をぎゅっと抱き締めた。
「…腹減ったな」
ベッドへ腰掛けたクロードがぼそりと呟く。
「にゃぁ…」
さっきからミー子のお腹がぐーぐー鳴っている。
昨日は結局二人ともろくに食事を取っていなかった。
残ってしまった弁当は、シエロによって回収されている。
クロードの胸に背中を預けてだらけているミー子の目元には、冷たい水で濡らしたタオルが置かれていた。
クロードがそのタオルを捲ると、眩しそうに細められた黄金色の瞳が見上げてくる。
散々泣いて腫れた瞼が何とも痛々しい。
「痛むか?」
「痛く無いけどむずむずする」
「もう少し冷やしてから行くか?」
「もう限界にゃ…」
「なら飯にするか」
空腹には勝てなかったようで、軽く身支度を整えると、連れ立って食堂へ向かった。
室内は既に朝食のいい匂いが充満している。ピークを過ぎたのか、人はまばらだった。
二人の姿を見つけたシエロが「おはよう」と近付くなり、猫子の様子に驚きの声を上げた。
「ミー子ちゃん、どうしたの? その目! 腫れてるじゃない!?」
言い終わるや否や、クロードをばっと仰ぎ見る。昨夜から心配させてしまっていた分、余計に気になっていたのだろう。
その瞳には無言の抗議が含まれている。
「いや、違っ……違わないけど……、その……俺が泣かせた……」
「くまさんが泣かせたって、どういう事!?」
詰め寄るシエロにクロードがたじろいでいると、慌てたミー子が間に入った。
「違うの! 私が勘違いしちゃっただけで、クロさんは悪くないの! 心配掛けてごめんなさい」
「ミー子ちゃん……」
シエロがしんみりしている所へ、ベリエによって出来立ての食事を乗せたトレーが二人分運ばれてくる。
「どうせ腹ペコなんだろう。たんとおあがり!」
目の前に並べられたそれらはもんもんと湯気を立ち上げ、ミー子の空腹を更に煽ったようだった。
メインの魚の煮付けは先日ベリエにリクエストした品だ。今にもかぶり付きそうなミー子を宥めて、冷ましがてら骨を抜いてやる。
そうこうしている内に、大あくびをしながらレオニもやってきた。
丁度いいな。
「三人に伝えておきたい事があるんだ」
そうしてクロードは、ミー子と一緒に暮らす事にした経緯を話した。
「じゃぁ、ここを出ることになるねぇ」
「そうだな」
この宿舎は独身者用の為、同居人がいるのなら別の宿舎へ移らなければならない。十五年住んだこの宿舎を離れるのは寂しい気もするが、新しい家で始まるミー子との二人暮らしは楽しみでもある。ここからそう遠くはないので、職場からの距離は然程変わらない。
その為の手続きもしてこなくては。
ここを出ていくと聞いた途端、シエロの表情が曇っていく。まるで二人にもう二度と会えないかのような落ち込みようだ。
見かねたレオニが口を開いた。
「そんな顔すんなよシエロちゃん。クロードは飯の支度なんか出来ないし、引っ越したってここに通うさ。なぁ?」
「あぁ、そのつもりだったんだけど、構わないか?」
確認の意味も込めて二人を見れば、ベリエは嬉しそうに大きく頷いてくれる。シエロも今までの暗い表情が嘘のようにパッと顔に笑顔が戻った。
「勿論さ」
「良かった!! 寂しくなっちゃうかと思ったわ」
二人の反応に胸を撫で下ろし、ミー子を見れば、やはりと言っていいのかポロポロとご飯を溢している。
「ミー子、溢れてる。ちゃんと手元を見ろ」
「にゃ?」
「ほら、付いてる」
何をどうしたらこんな所にご飯粒が付くのかと思いながら、頬に付いたそれを取り除く。
「……過保護め」
「本当、くまさん、ミー子ちゃんのお父さんみたいね」
レオニの呆れ声にシエロの指摘も加わり、自覚していただけにクロードは思わず苦笑いを浮かべる。
ミー子は「子供じゃないもん」と、拗ねていたようだが。
「で? いつまで『ミー子』なんだい?」
「え?」
ベリエに言われてミー子と顔を見合わせる。
「一緒に住むことにしたんだろう? 良い機会だし、ちゃんと名前で呼んでやったらいいじゃないか」
そう言われてみればそうだな。
いつまでもミー子のままでは流石に可哀想か。
もっもっと魚を頬張る顔を見つめる。
一部だけ色の違う前髪がさらりと揺れた。
毛むくじゃらの時は星の形に見える額の白い模様。
「……アトリア。星って意味の『アトリア』は」
ケモミミがピクリと動く。
「アトリア、可愛い名前ね」
「いいじゃないか」
べリエとシエロは良さそうに微笑んでくれている。
そんな二人を見て、目の前の猫子に視線を戻した。
「アトリア。どうだ?」
ごきゅりと呑み込み、猫子が嬉しそうにクロードを見上げる。
「アトリア……私の名前……アトリア……嬉しい」
「そうか。良かった」
「決まったな」
パキン———
猫子の耳元で細い鎖が切れるような金属音が微かに聞こえた。
反射的にキョロキョロと回りを見回す。
「どうした?」
クロードには聞こえていなかったのか、不思議そうに彼女を見ている。他の三人も何事も無かったかのように雑談を続けていた。
微かな音だったし、気のせいだったかもしれないと、アトリアはクロードへ視線を戻した。
「んー、何でもない」
笑顔で応えた猫子の頬へ再びクロードの手が伸びてくる。
優しく頬へ触れたその指にはまたご飯粒が摘ままれている。
「仕方のない奴め」なんて言いながら、それを食べるクロードの表情はとても優しい。
アトリアは照れくさいような恥ずかしいような不思議な気持ちに頬をピンクへ染めると、残りの朝ごはんを平らげに掛かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます