人の気も知らないで、幸せそうな顔しやがって……。

 夕の刻の鐘が辺り一帯に響き渡る。

 見回りの為に訪れた大きな通路は、まだまだ行き交う人々で溢れていた。

 先日は大雨のせいで店終いしていた商店街も、今日はまだまだ活気付いている事だろう。

 これから仕事へ向かう者。逆に仕事が終わり、家へと帰って行く者。夕飯の買い物に出ている者。飲みに繰り出そうとしている者。

 いつもとなんら変わらない日常の風景がそこにはあった。



 役所へ行った後、クロードを心配するシエロにぎこちない笑みを向けると、一緒に帰ってやって欲しいと猫子を預けた。

 本当は家まで二人を送り届ける予定だったのだが、あの役人の口から発せられた言葉の衝撃に、僅かでも一人で頭を冷やす時間が欲しくなったのだ。


 ——奴隷として売買されていたのではないかと……


 奴隷。

 その重く陰惨な空気を纏う単語が耳から離れない。


 クロードの住むここ、王都ベスティエールにも奴隷の制度はある。

 実際、貴族と呼ばれる高貴な家柄の人間達がその制度を利用している事も知っている。

 それらがどのように扱われるのかも、噂程度には知っている。

 ただ、クロードのような一般兵にはその制度自体が馴染みのない物であり、役人から猫子の話をされるまでは『知っている』程度でしかなかった。


 ——仔猫の方が持ち運びがしやすいのですよ


 まるで物のような扱い。売ることが前提の商品としての扱いだ。

 あんなに小さな子供までが。術を掛けられ、魔道具で支配されるのか。

 ただ獣人だからと、それだけの理由で。


 獣人は普通の人間よりも身体能力が高い。獣人の特徴として、成長が早く、若くて力の強い時期が人間に比べて長く続くという。

 男性、女性で扱われ方も変われば、能力や特殊さから戦争で兵器として使われる事もあると聞く。人よりも秀でた能力のある亜人種を支配する、それを可能にする為の呪術や魔道具まで存在しているというのだ。

 役人の話が頭の中をぐるぐると堂々巡りしていた。


 土砂降りの雨の中、震えていた小さな毛むくじゃらの姿を思い出す。

 串にくを持ち、熱いのにかぶりつこうとしていた姿が。

 お古のワンピースを着せて貰い、頬をピンクに染めてはにかむ顔が。

 首から外れた魔道具に酷く怯えた顔が浮かんだ。

 可愛らしい仕草も、ころころと変わる表情も、そこら辺の子供となんら変わりないというのに。

 自然と拳が握られる。気が付くと、強く握りすぎて白くなり、わなわなと小刻みに震えていた。




「どうした? くま。今日はやけにおっかない顔してるじゃないか」


 ハッと気が付き、声のした方へ視線を向けた。本日、共に市中へ見回りに出ていた兵士の穏やかな眼差しがクロードを捉えている。


「ヤマさん……」


 クロードよりもずっと年上で、兵士歴も長い。いつも穏やかな表情をしていて、ヤマさんの愛称で慕われている先輩だ。


「それじゃぁ市民が皆逃げていっちまうぞ」

「……すいません」


 振り返るその背に追い付き、並んで一緒に歩き出す。

 大きな通路は相変わらず喧騒に包まれ活気がある。


「なんかあったか?」

「……いえ。……ただ、世の中は理不尽で不公平だなって……」


 ヤマさんは小さく笑った。


「どうにもならないことなんていくらでもあるさ。……それでも俺達は生きていかなきゃならん」

「理不尽で不公平でもですか?」

「そうだ。死んだら其処で終わっちまうからな。いつか記憶は薄れて、そのうち忘れさられる。覚えてるのなんて近しい身内くらいなもんだ」

「……そうですね」


 クロードの回りでも実際に自ら命を絶った仲間がいた。理由は生活苦。

 理不尽な増税、不公平な賃金格差。どんなに叫んでも、訴えても、下々の声は届かない。

 生活は苦しくなるばかりで、真面目だった彼は自分をどんどん追い詰めてしまった。ついには耐えきれず、年老いた母親を残して一人旅立ってしまった。

 随分昔のことで、名前は覚えているが彼がどんな声だったのか、どんな会話をして笑っていたか、正直なところ記憶は薄れてしまっている。



「理不尽だ不公平だって思うのなら、生きてそれを言い続けるしかない。この先も変わらないかもしれないが、生きる事が最大の抵抗で主張なのさ。まっ、俺の小遣いは一生上がらんだろうがな」


 はにかむヤマさんにクロードもつられる。


「それに、俺はこのクソみたいな世の中でも、満更じゃねぇと思ってる」

「え?」

「仕事終わりにお前らと飲む一杯が格別な時や、嫁と子供が幸せそうに涎垂らして寝てたりすんのを見たらな。もうちょっと頑張ってみるかと思うよ」

「涎って…」

「でもまぁ、俺ら下っ端にはそれくらいで丁度いいのさ。大層なことは大層なお方がやりゃいい」

「……」

「にやけるくらいの小さなもんでいい。あるだけ儲けもんだろ」


 クロードはぐるりと辺りを見回す。

 先程と変わらない喧騒が広がっている。

 店主と笑いながら会話し、商品を受け取る主婦。

 仲間なのか、肩を組んで笑っている若者達。

 父と母に手を繋がれて楽しそうに笑っている子供。

 腕を組んで歩く若い男女。

 手を繋いで歩いている老夫婦。


 この喧騒のひとつひとつがヤマさんの言う小さな幸せの集まりなのだろうか。


 ミー子と一緒に露店を回った時の事を思い出す。

 瞳をキラキラと輝かせてあっちこっちと覗いていた楽しそうな姿があった。

 ミー子がどんな扱いを受けて来たのか、クロードには想像もつかない。

 それでも、少しは幸せだと思っただろうか。

 こんな世界でも生きてて良いことあるかもと思えただろうか。

 俺が拾った意味が、あったのだろうか。

 そんな事を考えながら、再び少し前を歩くヤマさんの背に追い付くよう歩を早めた。





 城門にある兵士の詰所で、宵闇の刻を知らせる魔道具が静かに鳴った。

 交代に訪れた兵士に引き継ぎをすると、詰所で鎧を外し、勤務表へサインをする。

 さすがに夜中なだけあって、人影はなく道路は暗く静まり反っている。

 仔猫を見つけた前を通り過ぎ、寒さに震えたあの姿を思い出すと、いつの間にか帰路につく歩幅が大きくなった。


 寮の部屋に辿り着くと静かに部屋の鍵を開けた。いつもは開いていても気にならないが、ミー子が来てからは施錠するようになった。もちろん合鍵を作りべリエに渡してある。

 流石に玄関の腰掛けには居なかったが、毛むくじゃらは居ると思っていたベッドには居なかった。

 室内は……少々荒れている気がする。


 一人にして怒ったかな。


 一番荒れている洗濯物を入れている籠へ近付く。

 辺りに巻き散らかされた衣類を一枚ずつ集めていくと、途中何かに引っ掛かった。

 やっぱりか、と小さく溜め息を吐き出し、そっと捲ると小さな毛むくじゃらが丸まっていた。

 気配を感じたのか薄く目を開けるとミーと鳴く。

 ふわっふわの毛を感じながら、頭から背中に掛けて優しく撫でてやると、喉元からゴロゴロと聞こえてくる。

 瞳を閉じ、線のように細めて呑気な顔をしているではないか。


「人の気も知らないで、とぼけた顔しやがって」


 自然と頬が綻んでいる。

 それに気が付き自分自身に驚いた。

 にやけるくらいの小さなもんでいい、か。

 確かにそうかもしれない。

 ヤマさんの言葉を反芻しながら、クロードはふわふわの体をもう一度撫でてやった。

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