お前、猫子だったのか……。
「な……んだ、これ……どういう……? ……え?」
目の前にある有り得ない光景に、寝起きにも関わらず頭が一気に覚醒した。
同時にパニックへ陥り、体が全然動かない。
自分の体に掛かる負荷が、紛れもなく目の前の少女の存在を知らしめている。
夢だと思いたかったが、しっかり現実のようだ。
少女は何でこの状況で爆睡していられるのか甚だ疑問だが、起きる気配は無い。
だいたい何なんだこいつは。
何処から入って来た?
確かに扉に鍵はしていなかった。寮だし、この辺の者ならここに住むのが憲兵だと知っているからだ。
いくら泥棒でもわざわざ捕まりに憲兵の寮には入るまい。
それに寝ている間のこととはいえ、自分の家に怪しい不審者があればイヤでも気付く筈だ。
仮にも十五年、関門を護ってきた兵士の端くれである。物音や気配には人一倍鋭敏な筈……だった。今は少しその自負を失いつつあるが。
今一度、目の前の少女を見る。
髪は柔らかそうな猫っ毛で、少し動くとさらさらと流れていく。茶の中に所々薄い茶が混じり、前髪の一部だけ白い。
ん? と思ったのは、髪の毛の中から小さな三角の毛まみれが覗いていたからだ。
恐る恐る触れるとそれは冷たく、ピクピクっと動いてクロードの手を払った。
「……まさか……」
肌は白く、張りがあって艶々だ。よくよく見ると背中側が産毛のような柔らかそうな細かい毛で覆われている。薄い黄色にも白っぽくも見える。
逆に腹の側はつるんとしていた。
産毛は背中から尻、脚の裏側、腕の表側と手の甲まで覆っているようだ。
極めつけは尻から生えた細い尻尾。
拾った仔猫と同じ模様に見えるのは、多分気のせいではない。
「……お前、『猫子』だったのか……」
『
獣人というのは人間のような姿形をしているが、体の一部に別種族の特徴を持つ亜人種のことである。
『猫子』でいうと、猫のような三角の耳を持ち、体には全体を覆う産毛があり長い尻尾を持つ。
能力面でも、柔軟性、筋力、跳躍力等、人と比べると抜きん出ているところが多々ある。
人間同様男性、女性がおり、同種族、他種族とも繁殖は可能だ。
この国では滅多に見ることはないが、他国では獣人と人との夫婦も存在していると聞く。
自分の腹の上で丸くなっていたあの仔猫は、猫ではなく猫子だったのだ。
「……本当に、とんでもない拾い物しちまった……」
年でいうと十歳前後くらいだろうか。
呑気に人を敷布団にして寝ている顔は無邪気で無防備だ。
着古したシャツ越しに、彼女の少し高い体温が生々しく伝わり、クロードはいたたまれない気持ちになってくる。
女性経験が無い訳ではない。
彼女がいたことだってあった。何故か年上に好かれる。
しかし、手馴れていると言えるほど経験豊富な訳ではない。
自分よりもずっと年下の少女など、シエロ以外知り合いすらいない。
そんな中でのこの状況。一体どうしろというのか。
昨日まではずっと仔猫だったというのに、いきなりこの姿だ。
本当に夢であって欲しかった。
「おい。起きろ」
肩を掴んで揺すってみる。
「にゃー……」
やめろ。
腹に頬をすりすりするんじゃない。
大人の成熟した女ならともかく、いやそれもどうかと思うが、こんな幼く娘のような歳の子に弄ばれても困惑しかない。
段々自分がいけない事をしているかのようなおかしな気持ちになってくる。いや全くの潔白なんだが。
「おい。起きてそこから退いてくれ」
下手に触って退かせると、騒がれた時に言い逃れ出来ないと思った。
理想は静かに自主的に何事もなかったかのようにこの場から去ってくれることなんだが。
そんな都合の良い妄想をしていると、少女が不意に頭を上げた。
目を覚ましたようだ。
寝ぼけているのか、キョロキョロと辺りを見回し、その視線がやがてこちらへと向けられる。
「起きたか? 目が覚めたのならそこから退いてくれ」
半分しか開いていない瞳は黄金色だ。
少女はゆっくりと体を起こすと、あろうことかクロードを跨ぐように腹の上へ座る。
端から見たらなんていやらしい構図だろうか。
クロードは視線を外しながら近くの自分のシャツを投げて渡した。
「とりあえずそれを着ろ。今すぐだ」
こんな場面を誰かに見られたら大変な事になりそうだ、と思った矢先に玄関の戸が開く音がした。
どうしていつもいつもこうなのか。
「くまさーん! 朝ごはん持ってきたよ」
「クロード! 起きてるか? いいもん拾ったんだって?」
シエロとレオニの声だった。
……最悪だ。
「待て! 来るな…——」
時すでに遅し。
叫んだ時には、二人は寝室の入り口に立っていた。
シエロは絶句したまま見たことのない表情で固まって弁当箱をとり落とし、レオニは両目を見開いて固まっている。
猫子はキョトンとしたまま、突然現れた二人を眺め、クロードは右手で顔を覆うと天井を仰ぐ。
「……最悪だ……」
本当に……とんだ拾い物しちまった……。
「さてと、どういう事かきちんと説明して貰おうか」
クロードの部屋、居間として使っているそこで、何故かこの部屋の住人であるクロードが小さくなって正座している。目の前をベリエが陣取り、その脇をクロードの痴態を目撃したと思って疑わないレオニとシエロが固めていた。
シエロの視線が痛いのは気のせいではない。
クロードは大きな体を小さくしながらちょこんと座り、その背中に隠れるように猫子が目の前の三人の様子を伺い見ていた。
仕方なく着せたぶかぶかのシャツが何故か背徳感を煽り、やはり悪い事をしている気分になる。
「で、その子はどこの誰なんだ? まさか買った訳じゃないだろ?」
レオニが腕を組んで少女を眺めた。
「やめてくれ! そこまで落ちぶれてないさ。……こいつは一昨日拾った仔猫だよ」
クロードとて男だが、子供をいたぶる趣味なんぞない。冗談でも笑えない。
「「え?」」
母子が綺麗にハモる。
「猫じゃなくて、猫子だったらしい」
「マジかよ……」
さすがにレオニもその可能性は頭に無かったようだ。
「昨日寝るときは子猫の姿で、腹の上に乗ってきた。朝起きたらもうこの姿だった。混乱してるのは俺だってそうだ。誓って何もしてない」
シエロが猫子へ視線を向ける。
猫子はクロードの背から顔を半分だけ出して、下から見上げるようにシエロを見ている。
「あなた……本当にあの仔猫ちゃん?」
シエロの優しい声色に、猫子はクロードの陰から「にゃ」と小さく鳴いた。
返事のつもりか?
信じられないと言った表情のまま、べリエも猫子を眺めている。確かに頭の上についた耳、お尻から生えた尻尾、手足の産毛が、目の前の少女が亜人種である事を表している。そして少女がクロードを怖がっていない事からも本当の話だろうと容易に想像がついた。
第一べリエの知るクロードが、レオニが疑ったような事をする筈がないと知っている。
「私らはクロードが仔猫を拾った事を知ってるから良いけれど、その仔猫が猫子だった事を証明出来ないと後々面倒な事になりそうだね。くま、何かあるかい?」
そう言われてもな……。
だいたいクロードにもどうして急に仔猫が猫子に変化したのか分からないのだ。
その前まではずっと仔猫だったのだから。
魚をやったり腹の上で寝かせたりはしたが、特別何かをしてやった事もない。
「もう一度よく思い出せ! ここに来てからやった事の中に絶対きっかけがあった筈だ」
連れて帰って来た日に風呂に入れた。泥だらけだったから体を洗ってやったが、特段気になるような傷や汚れは無かったと思う。
その日はミルクをやって、そのまま寝た筈だ。
翌日は少し元気になって、飯に魚をやった。夜には足にまとわりつくくらい慣れて来て…——
「そう言えば、首輪みたいなやつが外れた」
急いで石を捨てたくずかごを漁った。底の方から亀裂の入った石を見つけ出し、手に取ると皆が囲むテーブルへ置く。思い当たる事と言えばこれしか無い。
猫子は恐ろしい物でも見るように顔をしかめると、やっぱりクロードの陰へ隠れてしまう。よほど嫌らしい。
「これに鎖も付いてた。仔猫の首輪にしては重そうで邪魔だったから、外れないかと思っていじっていたら取れたんだ。これが外れた時に鎖は消えて、その時に石に亀裂が入った」
「それが昨日か?」
「そうだ」
この石が猫子の姿へ戻った謎を解く鍵になるかもしれない。
「この石は取っておいた方がいいね。とにかく事情はわかったよ。くまが小さな女の子を部屋に連れ込んで裸にしてたって聞いた時は驚いたが」
おいおい、どんな報告の仕方してんだよと思ったが、悲しいかなその通りなので否定は出来なかった。
シエロは頬を真っ赤に染めて分かりやすい程視線を反らしている。
驚かせてしまった事にかわりはなく、やはり申し訳ない気持ちになる。
「その子は私が預かるよ。くまもその方がいいだろ」
「ああ、そうして貰えると助かる」
有り難い助け船を出してくれたベリエに感謝しつつ猫子へ視線を向けるが、何故かクロードの背中にへばりついて離れようとしない。
「おい。母さんのところで世話して貰え」
言葉の意味は理解出来ているのか、首を振り拒絶の意思表示をしてくる。ケモミミがへたっているのが分かりやすく困惑を示している。
「仔猫ちゃん、私のおうちにおいで」
シエロが声を掛けてもそれは変わらなかった。
「本人が嫌だってんだから仕方ねぇな。くまが拾ったんだし、なんらかの決着が着くまで面倒みろよ」
「いや、でもそれは……」
冗談だろ。
毛むくじゃらならともかく、ガキの面倒なんてどうみりゃいいんだよ……
という表情をしてたんだろう。
ベリエがちょこちょこ様子を見に来てくれると約束してくれた。
「仕事中は? 部屋に一人にしとくのは……」
「ここは寮なんだしいつも誰かしらいる。大丈夫だろ?」
何でもないと言いたげなレオニに、呆れることしか出来なかった。
軽いヤツだと思っていたが、それに今度から適当も付け加えることにする。
「まぁ幼児じゃないし、大丈夫だろうさ。シエロにも様子を見に越させるし」
「私のお古持ってくるわ。いつもそのぶかぶかシャツじゃ困るでしょう」
確かにその通りだ。
その申し出は有り難く受け取ることにする。この年頃の娘の着るものだなんて何を選べばいいかわかる筈もない。
とにかく今日も一日休みではあるが、『太陽の日』である本日は役所は休みだ。猫子を届け出るにしても明日以降になる。
三人に騒がせた詫びを入れ、朝ごはんの弁当を受け取った。
仔猫用の焼き魚もちゃんと付いていた。
相変わらずほぐしてやらないと食べられないようで、クロードが丁寧に身を剥がしているのをキラキラした瞳で見つめている。
差し出すとペロリと平らげ、クロードの弁当を物欲しそうに見つめてくるので半分こした。
次からこいつの分も用意してもらわないとなぁと、ぼんやり考えながら幸せそうに味つき肉を油で揚げた『カリアゲ』を頬張る猫子を眺めるのだった。
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