第2話―― ……なんだこの生き物は。
ミー
すぐ側で聞こえた動物の声に疑心を抱き、重たい瞼を上げた。
何だか胸が苦しい。息苦しいと思っていたら、開いた視界につぶらな瞳と毛むくじゃらが映り込んだ。
クロードの胸の上にちょこんと座りこちらを見下ろしている。
「なっ……――」
驚き声を上げそうになって留まった。
仔猫はクロードの声と、自分のいた場所が急に動いた事に驚き、物陰へと逃げていく。
「…そうだ……昨日拾ったんだった…」
昨日の大雨の中の記憶が甦り、仔猫が隠れた物陰を遠くから覗く。
向こうも顔を半分だけ覗かせて、体勢を低くし、こちらの様子を伺っていた。
まん丸の大きな瞳が不安そうに見上げてくる。
何だかとても悪い事をしてしまった気分だ。
「脅かして悪かったよ」
昨日はタオルの上でずっと踞り、動こうとしなかったが、一晩経って体力が回復したようだ。
鳴き声を上げていたこと、身軽に動けていたことにまずは一安心だ。
仔猫のミルク粥を入れていた深皿を確認すると、いつの間にか空になっていた。
どうやら食事も取れたらしい。
クロードはベッドから起き出すと、カーテンを開けた。
雨は……止んではいなかった。
空は相変わらずどんよりと鈍色だ。
「さて、これからどうしたもんか……」
晴れていたら外へ出してやろうかとも思ったが……
そもそも、連れて帰ってしまった以上、外へ放すというのは間違いか?
嫌、でも猫だしな。
一度拾った落とし物をまた落としに戻る奴なんぞいない。
拾ってしまった以上、仔猫だろうが何だろうが俺の持ち物か?
嫌、でも首輪ついてるし。
ちらりと物陰へ視線を向けると、まだ顔を半分だけ覗かせて、こちらを伺っている。
「……飯にしてから考えるか」
一旦考えるのを放棄して、食堂へ向かった。
「くまさん! おはよう! 仔猫ちゃん大丈夫だった?」
姿を見かけると、真っ直ぐこちらへ駆け寄ってくるシエロ。その表情からは心配していた事がありありと伝わってくる。
「ああ、一晩寝たら元気になった。母さんのご飯は猫にも好評だったよ」
朝から元気なシエロに、借りた深皿を返却した。
自分の母親の食事を誉められて、嬉しそうに頬を染めている。
ベリエはシエロの母親だが、この寮の住人からも『母さん』と呼ばれている。
シエロだけでなく、男達にも本当の母親のように接してくれるのだ。
「また触りに行ってもいい?」
瞳を輝かせるシエロにクロードは首を横に振った。
「悪いが飼うつもりは無いんだ。それに、年頃の女の子が男の部屋へなんか出入りするもんじゃない」
「そっか…そうだよね……」
花のような笑顔がみるみる萎んでいく。
シエロはあからさまにがっかりした様子で厨房へ戻っていった。
悲しそうな表情に悪い事をしたかと胸が痛む。なんとなく、あの毛むくじゃらの瞳が重なった。
が、言っていることに間違いは無い筈だ。
後ろから「シエロちゃん泣かせたな」「この女泣かせめ」「朴念人」などと野次が飛んでくる。
シエロはこの独身寮に住む、むさ苦しい奴らのアイドルなのだ。
泣かせようものなら何をされるかわかったものではない。
「あのなぁ…」
反論しようとした時、笑顔を取り戻したシエロが大きな箱と返却したはずの深皿を持って戻ってきた。
「くまさん、お弁当を届けるのならいいわよね? ちゃんと用事があって行くんだもの! いいわよね? ね?」
手にしていた大きな箱は、クロードの朝食を詰めたお弁当箱だった。
深皿には、クロードの手の平よりも一回り小さい焼き魚がのっている。
「くまさんは猫ちゃんが心配だから、当分はお部屋で食事をするでしょう? だから、朝ご飯と晩ご飯は箱詰めして私が届けるの! ね?」
さてはベリエの入れ知恵だな。
と思っていたら、奥からニヤニヤ笑いの張本人が出てくる。
「細かいことお言いでないよ! 心配して様子を見に行くくらい良いじゃないか」
おいおい、それでも母親かよ。
「母親の台詞じゃないだろうが」
クロードの呆れ顔に、ベリエは豪快に笑った。
「この寮にシエロを泣かせるような悪党なんかいやしないよ」
それよりも、とベリエの表情が引き締まる。
「くま、飼うつもりが無いだなんて、まさかせっかく助けた命を捨てに行くつもりじゃないだろうね」
一瞬とはいえ、過った考えを見透かされてドキッとする。
「いや…あいつ首輪してるし…迷子なだけかも――」
「迷子なら届けが出てるだろう? ちゃんと確認するんだ。落とし物は拾って届けた者が責任を持つのは当たり前だろう? くまの事だから、無責任なことはしないと思うけど」
ぐうの音も出ねぇな。
ベリエに睨まれ、シエロに見詰められて、クロードは長くて深い溜め息を吐き出す。
「わかったよ。午後から届け出しに行ってくる。1週間もすればわかるだろうから、それまでは面倒みるよ」
ベリエは満足そうに微笑み、シエロは飛び上がらんばかりに嬉しそうだ。
そうと決まれば早く行こうと、クロードの部屋へ行くと言うのに自分家へ帰るのかと錯覚しそうな勢いだ。
やれやれ。とんだ拾い物しちまったな。
相変わらず後ろから飛んでくる野次に、野郎共を一睨みし、スキップでもし出しそうなシエロの後へ続いた。
部屋へ戻ると、玄関の椅子にちょこんと座る毛むくじゃらの姿がある。
クロードが部屋を出ていったことで、狭い隙間から出てきたようだ。
まるで出迎えているかのような仔猫の姿に、シエロは瞳を潤ませて感激していた。
「なんって可愛いの!!」
仕事へ出る際、ブーツへ履き替える時に座る、小さな腰掛け。
その上にお座りするその姿は、見るからに柔らかそうなふわふわで、もふもふのぬいぐるみのようだ。
体はそんなに大きくはなく、体長はシエロの手の平を縦に繋げた位だろうか。
生まれたばかりとまではいかないが、一匹で生きていけるか心配な程には小さかった。
シエロは仔猫の前にしゃがんで目を合わせている。
クロードはさっさとテーブルへつくと、ベリエが詰めてくれた弁当箱を開いた。
そういえばこの深皿は?
手を伸ばすと、シエロが慌ててやってくる。
「駄目よ、くまさん! これは猫ちゃんの分だから」
深皿を取り上げると、それを床に置く。
「おいで猫ちゃん。お腹空いたでしょう?」
毛むくじゃらは椅子の上でミーと鳴き、軽やかに床へ降りてくる。
尻尾をピンと立て、細いロープの上でも歩くかのような、猫独特の足取りで近くへやってきた。
シエロが差し出した深皿をくんくんと嗅ぎ、焼き魚の尻尾やヒレをかみかみする。
やがて困ったようにこちらを見上げてその場にお座りすると、再びミーと声を上げた。
「食べないのかな? お魚嫌い?」
首を傾げるシエロ。
クロードはおもむろに立ち上がると、シエロの隣にしゃがんだ。
魚の身をほぐし、仔猫の前に置いてやる。
すると、くんくんと匂いを嗅ぎ、やがてぱくりとかぶり付く。
「食べた! 食べ方が分からなかったのね」
頭を振りながら数回咀嚼し、呑み込むとこちらを見ながらミーと鳴く。
「もっと寄越せとさ。お前は猫のくせに魚の食い方も知らんのか」
文句を言いながらもクロードは、焼き魚の身を丁寧にほぐしてやる。しっかり小骨も取ってやるのをシエロは見逃さなかった。
「なんだかんだくまさんって優しいし、面倒身いいよね」
そんなクロードの手元を見ながらシエロが独りごちる。
「なんだ? 急に。褒めたって小遣いはやらんぞ」
魚はすっかりほぐされ、深皿には白身の山が出来ている。
「要らないよ。そういう所が好きって話」
「…え?」
驚いて隣のシエロを見ると、なに食わぬ顔で仔猫の首をかいている。
「優しい人に拾われて良かったねー」
仔猫の方もゴロゴロと喉を鳴らして目を細めている。
優しい奴が好みだと、そう言う話か?
最近のガキはませてんな。
などと、一瞬とはいえ狼狽えた自分に自嘲し、クロードは弁当の残りを平らげた。
結局シエロはクロードの食事が終わるまで仔猫と戯れていた。
空になった弁当箱を返しにベリエの元へ向かい、その足で仔猫を拾ったことを寮の管理人宛に届け出た。
案の定問い合わせるのに1週間程かかると言われ、その間は自分が預かる事を了承してもらった。
何故か一緒に来ていたシエロが大喜びで、当分の食事は弁当箱で彼女が部屋まで宅配してくれるようだ。
休みだった事もあり、シエロの食材の買い出しを手伝う。
雨は午前中であがっていた。
仔猫の世話を決めた途端に止んだのではないかと舌打ちしたくなるタイミングの良さだった。
最後に寄った魚屋で、クロードの手の平程の小魚を一袋購入した。
仔猫用にと預けると、ベリエが「満更でもないじゃないか」とニヤニヤしてくる。
責任持って世話すると言った手前、餌くらいはと思っただけなのだが…。
「なんか、余計に疲れたな」
シャワーを済ませ、部屋に戻ると、やっぱり玄関の椅子にちょこんと乗っていた。
目が合うとミーと甘えた声で鳴いてくる。シエロがしていたように、首を優しくかいてやるとゴロゴロと喉を鳴らしてすり寄ってきた。
「………」
ふわふわの毛並みと触り心地に驚いた。
魔冷具の扉を開けて缶を取り蓋を開ける。
プシュッと口が空く馴染みの音を聞き、中身を一気に煽る。
シュワシュワと喉の奥を通っていく喉越しと、後に抜ける爽やかな苦味が火照った体に染み渡る。
寝る前に飲む一杯はもはや習慣だった。
「そういやママに詫び入れてなかったな」
クロードの足にまとわりつく用に体や尻尾を擦り付けている毛むくじゃらを眺める。
すっかりなつかれてしまったようだ。
中身を飲み干し、空になった缶を床に置くと、クロードは仔猫を抱き上げた。
体に不釣り合いな首輪が気になった。
「どうやって付けたんだ、これ」
継ぎ目の無い変な首輪だ。
左手で鎖部分を、右手で石の部分を持つと、引き離すように少し力をいれてみる。
ピシッ
呆気なく外れてしまった。
外れた途端に鎖が崩れるように消えてしまう。
石の方には亀裂が入り、真ん中から真っ二つになってしまった。
「……壊しちまった。どうしたもんか……」
高価なものだったらどうしよう。
弁償とか言われてもな。
ここは始めから何も無かった事にしようか。
それにしても気味の悪い首輪だ。壊れた物は仕方ないので、近くのくずかごへ石を捨てた。
そのままベッドへ横になる。
仔猫は床へ降ろしたが、直ぐに腹の上に乗ってきた。
ここが気に入ったようだ。
少しの間もぞもぞすると、やがて丸まって動かなくなる。
シエロじゃないが、だんだん可愛く見えてきた。
「…まぁ、1週間くらいなら、何とかなるか……」
ふわふわの小さな体を撫でると、明かりを消して目を閉じた。
翌朝。
クロードは異変を感じて目が覚めた。
体が異様に重いのだ。
息苦しいなんて物じゃない。胸や腹、体全体が上から強く圧迫されている状態だったのだ。
目を開けて思考回路が停止した。
自分の上に乗っていたのは、毛むくじゃらの仔猫では無く、生まれたままの姿の美しい少女だったのだ。
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