……なんだこの生き物は。

 ミー


 すぐ側で聞こえた聞き慣れない声に疑心を抱き、クロードは重たい瞼を上げた。

 何だか胸の辺りが苦しい。圧迫されているような息苦しさを感じると思っていたら、開けた視界につぶらな瞳と毛むくじゃらが映り込む。

 クロードの胸の上にちょこんと座り、こてんと首を傾げてこちらを見下ろしている。


「なっ……———」


 驚き声を上げそうになってなんとか留まった。

 仔猫はクロードの声と自分のいた場所が急に動いた事に驚き、飛び上がって逃げると物陰へと入って行く。


「……そうだ……昨日拾ったんだった……」


 昨日の大雨の中の記憶が甦り、寝ていた体を起こすとガシガシと頭を掻いた。仔猫が隠れたであろう場所を遠くから覗く。

 しばらくすると、向こうも顔を半分だけ覗かせて体勢を低くし、こちらの様子を伺ってきた。

 まん丸の大きな瞳が不安そうに見上げてくる。

 何だかとても悪い事をしてしまった気分だ。


「脅かして悪かったよ」


 昨日はタオルの上でずっと踞ったまま動こうとしなかったが、食事が出来て休めたおかげか体力が回復したようだ。

 鳴き声を上げていたこと、身軽に動けていたことにまずは一安心だ。


 仔猫のミルクを入れていた深皿を確認すると、いつの間にか空になっていた。

 かぼちゃの方も減っていたから、どうやら一人で食事も取れたらしい。


 クロードはその場から立ち上がると、窓まで行きカーテンを開けた。

 雨は……止んではいなかった。

 雷の音は聞こえなかったが、空は相変わらずどんよりと鈍色だ。



「さて、これからどうしたもんか……」


 晴れていたら外へ出してやろうかとも思ったが……

 そもそも、連れて帰ってしまった以上、外へ放すというのは間違いか?


 嫌、でも猫だしな……


 一度拾った落とし物をまた落としに戻る奴なんぞいない。

 拾ってしまった以上、仔猫だろうが何だろうが俺の持ち物か?


 嫌、でも首輪ついてるしな……


 ちらりと物陰へ視線を向けると、まだ顔を半分だけ覗かせて、こちらを伺っている。

 当分出てくる気配はなさそうだ。


「……飯にしてから考えるか」


 一旦考えるのを放棄したクロードは、上着を羽織ると食堂へ向かった。





「くまさん、おはよう! 仔猫ちゃん大丈夫だった?」


 一階にある宿舎の食堂へ行くと、クロードの姿を見るなりシエロが駆けて来た。

 配膳中なのかその手には空のトレイが握られている。その表情からも相当心配していた事がありありと伝わってくる。


「ああ、一晩寝たら物陰にすっ飛んで行くくらい元気になった。母さんのご飯は猫にも好評だったよ」


「良かったぁ」と安堵の表情を見せるシエロに、借りていた深皿を返却する。彼女はそれを嬉しそうに受け取ると、頬をうっすらと染めクロードに微笑んだ。

 ベリエはシエロの母親だが、この寮の住人からも『母さん』と呼ばれている。実の娘だけでなく、ここの男達にも本当の母親のように接してくれるのだ。


「また触りに行ってもいい?」


 瞳を輝かせるシエロには申し訳無いと思いつつ、クロードは首を横に振った。


「悪いが飼うつもりは無いんだ。それに、年頃の女の子が男の部屋へなんか出入りするもんじゃない」

「そっか……そうだよね……」


 花のような笑顔がみるみる萎んでいく。

 シエロはあからさまにがっかりした様子で厨房へ戻っていった。

 悲しそうな表情に悪い事をしたかと胸が痛む。なんとなく、あの毛むくじゃらの瞳が重なった。

 が、言っていることに間違いは無い筈だ。


 後ろから「シエロちゃん泣かせたな」「この女泣かせめ」「朴念人」などと野次が飛んでくる。クロードよりも先に来ていた寮の住人たちだ。殆どが同僚で、勿論クロードともシエロとも気心のしれた仲である。

 シエロはこの独身寮に住む、むさ苦しい奴らのアイドルなのだ。泣かせようものなら何をされるか分かったものではない。


「あのなぁ……」


 反論しようとした時、笑顔を取り戻したシエロが大きな箱と返却したはずの深皿を持って戻ってきた。


「くまさん、お弁当を届けるのならいいわよね? ちゃんと用事があって行くんだもの! いいわよね? ね?」


 手にしていた大きな箱は、クロードの朝食を詰めたお弁当箱だと言う。そんな物を頼んだ覚えのないクロードは困惑する。

 深皿には、クロードの手の平よりも一回り小さい焼き魚がのっている。


「くまさんは猫ちゃんが心配だから、当分はお部屋で食事をするでしょう? だから、朝ご飯と晩ご飯は箱詰めして私が届けるの! ね? それなら何の問題も無いでしょう?」

「いや……それもどうかと」


 さてはベリエの入れ知恵だな。

 と思っていたら、奥からニヤニヤ笑いの張本人が出てくる。


「細かいことお言いでないよ! 心配して様子を見に行くくらい良いじゃないか」


 おいおい、それでも母親かよ。


「母親の台詞じゃないだろうが」


 クロードの呆れ顔に、ベリエは豪快に笑った。


「この寮にシエロを泣かせるような悪党なんかいやしないよ」


 それよりも、とベリエの表情が引き締まる。


「くま、飼うつもりが無いだなんて、まさかせっかく助けた命を捨てに行くつもりじゃないだろうね」


 一瞬とはいえ、過った考えを見透かされてドキッとする。

 流石皆んなの母さんは勘が鋭い。


「いや……あいつ首輪してるし、迷子なだけかも——」

「迷子なら届けが出てるだろう? ちゃんと確認するんだ。落とし物は拾って届けた者が責任を持つのは当たり前だろう? くまの事だから、無責任な事はしないと思うけどね」


 ……ぐうの音も出ねぇな。


 ベリエに睨まれ、シエロに見つめられて、クロードはとうとう長くて深い溜め息を吐き出す。


「わかったよ。午後から届け出しに行ってくる。一週間もすればわかるだろうから、それまでは面倒みるよ……」


「そうでなくちゃ」とベリエは満足そうに微笑み、シエロは飛び上がらんばかりに喜んだ。

 そうと決まれば早く行こうと、クロードの部屋へ行くと言うのに自分家へ帰るのかと錯覚しそうな勢いで出て行く。


 やれやれ。とんだ拾い物しちまったな。


 相変わらず後ろから飛んでくる野次に、野郎共を一睨みし、スキップでもし出しそうなシエロの後へ続いた。





 部屋へ戻ると、玄関の椅子の下からこちらを伺う毛むくじゃらの姿があった。

 クロードが部屋を出ていったことで、狭い隙間から出てきたようだ。

 警戒心は丸出しだったが、出迎えているかのような仔猫の姿に、シエロは瞳を潤ませて感激していた。


「なんって可愛いの!!」


 仕事へ出る際、ブーツへ履き替える時に座る、小さな腰掛け。

 その下に身を丸めて収まりこちらを見上げる姿は、見るからに柔らかそうなふわふわで、もふもふのぬいぐるみのようだ。

 体はそんなに大きくはなく、鼻先から尻尾の先まではシエロの手の平を縦に繋げた位だろうか。

 生まれたばかりとまではいかないが、一匹で生きていけるか心配な程には小さかった。


 シエロは仔猫の前にしゃがむと目を合わせている。逃げる素振りは無いが、出てくる素振りも無い。

 それでも良いのかしきりに「怖かったね」「寒かったよね」「もう大丈夫だからね」などと声を掛けている。

 そんな彼女を横目にクロードはさっさとテーブルへつくと、ベリエが詰めてくれた弁当箱を開いた。

 今日の朝ごはんは肉野菜炒めだ。野菜がシャキシャキで肉も大振りで美味い。汁物が無いのは残念だったが、その分飯が多めに入っている。

 流石母さん、分かっている。


 そういえばこの深皿は?


 弁当箱と一緒にシエロが持っていた物だ。昨日はそれにミルクが入っていたが、今は焼いた魚が入っている。

 クロードが手を伸ばすと、シエロが慌ててやって来た。


「駄目よ、くまさん! これは猫ちゃんの分だから」


 クロードから深皿を取り上げると、くるりと向きを変えそれを床に置く。


「おいで猫ちゃん。お腹空いたでしょう?」


 毛むくじゃらは椅子の下で小さくミーと鳴き、しばらくこちらを伺っている。

 が、やはり空腹だったのか、少しすると地を這うように姿勢を低く保ったまま、そろりそろりとやって来た。


 シエロが差し出した深皿をくんくんと嗅ぎ、焼き魚の尻尾やヒレをかみかみする。

 チラチラとこちらを伺いながら何度か噛んでいたが、やがて困ったように再びミーと声を上げた。伏せたままその場から上目遣いで見つめてくる。


「食べないのかな? お魚嫌い?」


 そんな姿に首を傾げるシエロ。

 クロードは匙を置くとシエロの隣から魚に手を伸ばした。試しにとばかりに魚の身をほぐし、一口分程を仔猫の前に置いてやる。

 すると、ひくひくと鼻を一生懸命に動かし、やがてぱくりとかぶり付く。


「食べた! 食べ方が分からなかったのね」


 頭を振りながら数回咀嚼し呑み込むと、再びこちらを見ながらミーと鳴いた。


「もっと寄越せとさ。お前は猫のくせに魚の食い方も知らんのか」


 文句を言いながらもクロードは、焼き魚の身をほぐしてやる。しっかり小骨も取ってやるのをシエロは見逃さなかった。自分の膝に肘を付くと、そこに顎を乗せてクロードの横顔を見つめる。


「なんだかんだくまさんって優しいし、面倒身いいよね」

「なんだ? 急に。褒めたって小遣いはやらんぞ」


 魚はすっかりほぐされ、深皿には白身の山が出来ている。残った骨は仔猫が間違って食べてしまわないよう、クロードの弁当箱の隅に置かれている。そういうさりげない優しさも彼らしいと思う。


「要らないよ。そういう所が好きって話」

「……え?」


 聞き間違いかと驚いて隣のシエロを見るが、なに食わぬ顔で仔猫の首をかいている。白身に夢中の毛むくじゃらは、もはや触れられている事に関心は無さそうだ。


「優しい人に拾われて良かったねー」


 終いにはごろごろと喉を鳴らす始末。餌付けは上手くいったようだ。


 優しい奴が好みだと、そういう話か?

 最近のガキはませてんな。


 一瞬とはいえ狼狽えた自分に自嘲し、クロードは弁当の残りを平らげた。



 結局シエロはクロードの食事が終わるまで仔猫と戯れていた。

 空になった弁当箱を返しにベリエの元へ向かい、その足で仔猫を拾ったことを寮の管理人宛に届け出た。

 案の定問い合わせるのに一週間程かかると言われ、その間は自分が預かる事を了承してもらった。

 何故か一緒に来ていたシエロが大喜びで、当分の食事は弁当箱に詰められ彼女が部屋まで宅配してくれるようだ。


 休みだった事もあり、シエロの食材の買い出しを手伝う。予定が大幅に狂ってしまったおかげで、時間を持て余すことになったからだ。

 本当なら昨日はママのところで飲み明かし、今日は昼過ぎまで寝てる予定だったのだ。

 雨は午前中であがっていた。

 仔猫の世話を決めた途端に止んだのではないかと、舌打ちしたくなるタイミングの良さだった。

 店の食材の買い出しに同行し、荷物持ちをかって出る。

 最後に寄った魚屋で、クロードは自分の手の平程の魚を一袋購入した。

 仔猫用にと預けると、ベリエが「満更でもないじゃないか」とニヤニヤしてくる。


 責任持って世話すると言った手前、餌くらいはと思っただけなのだが……。




「なんか、余計に疲れたな」


 部屋を出たついでにシャワーを済ませ部屋に戻ると、やっぱり玄関の椅子の下にいた。

 目が合うとミーと甘えた声で鳴いてくる。側に寄り逃げていかないのを確認すると、その場にしゃがみ込む。そっと手を伸ばすとそろそろと鼻を近づけてきた。

 そのままじっとしていると、出した手に口元を擦りつけてくる。

 シエロがしていたように、首を優しくかいてやるとゴロゴロと喉を鳴らし糸目になっているではないか。


「………」


 ふわふわの毛並みと触り心地に驚いた。

 部屋に上がり、魔冷具の扉を開けて缶を取り蓋を開ける。

 プシュッと口が空く馴染みの音を聞き、中身を一気に煽った。

 シュワシュワと喉の奥を通っていく喉越しと、後に抜ける爽やかな苦味が火照った体に染み渡る。

 寝る前に飲む一杯はもはや日課である。


「そういやママに詫び入れてなかったな」


 クロードの足にまとわりつく用に体や尻尾を擦り付けている毛むくじゃらを眺める。

 すっかりなつかれてしまったようだ。

 床に座り胡座をかくと、今度は膝辺りを顔や体でゴリゴリやってくる。元々人懐こい性格なのかも知れないなと思いながら、頭を撫でたり背中を撫でたり、気がつくともふもふを堪能している自分がいる事に気がつく。

 猫のくせに警戒心なさすぎだろうと思いながら、やはりもふもふを堪能した。



 中身を飲み干し、空になった缶を床に置くと、クロードは仔猫を抱き上げた。抱き方が分からないので、腹の下に手を入れて持ち上げる。

 体に不釣り合いな首輪が気になったのだ。


「どうやって付けたんだ、これ」


 継ぎ目の無い変な首輪だ。

 毛むくじゃらを膝に乗せ、左手で鎖部分を右手で石の部分を持つと、引き離すように少し力をいれてみる。


 ピシッ


 驚く程呆気なく外れてしまった。

 外れた途端に鎖が崩れるように消えてしまう。

 石の方には亀裂が入り、真ん中から真っ二つになってしまった。何とも気味の悪い首輪だ。


「……壊しちまった。どうしたもんか……」

 

 高価なものだったらどうしようか。

 弁償とか言われても困るな……。

 ここは始めから何も無かった事にしようか。

 それか別の物を用意しても良いだろう。

 それにしても気味の悪い首輪だ。壊れた物は仕方ないので、近くのくずかごへ石を捨てた。


 そのままベッドへ横になる。

 ついて来て同じように飛び乗ってきた仔猫は床へ降ろしたが、直ぐに腹の上に乗ってきた。

 ここが気に入ったようだ。

 少しの間もぞもぞすると、やがて丸まって動かなくなった。

 そんな姿に自然と口元が緩んでいた。シエロじゃないが、だんだん可愛く見えてきた。


「まぁ、一週間くらいなら、何とかなるか」


 ふわふわの小さな体を撫でると、明かりを消して目を閉じた。




 翌朝。

 クロードは異変を感じて目が覚めた。

 体が異様に重いのだ。

 息苦しいなんて物じゃない。胸や腹、体全体が上から強く圧迫されている状態だった。

 目を開けて思考回路が停止した。


 自分の上に乗っていたのは、毛むくじゃらの仔猫では無く、生まれたままの姿の美しい少女だったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る