第2話 浅見 靖子の物
私はとてもじゃないが華やかな中学生活を送ってきたとは言い難い。他人にただひたすら合わせるだけの人生。それが私の中学時代だった。
だから高校からはちゃんとデビューしようと思った。この機会に嫌いな油絵もやめてしまおうと思った。嫌いだと言えるようになろうと思った。でも、私は気付けば筆を取っていた。自分の生きたいように生きて、息をしていく事がどれだけ難しい事か。歳を重ねるほどに難易度は上がって行くというのに、私がそれに気付いた時にはもう遅かった。
高校でも結局は変われなかった。友人の話に耳を傾け、まるでロボットのように求められている会話文を構築し口で再生する。それだけだ。自分なんてものは存在しないんだと私は悟った。そして私は油絵を再開し、色を塗り重ねた。私が皮を被るのと同じだ。重ねれば重ねるほどそれは嘘になっていく。だが色には元がある。それを思えば幾分心は落ち着いた。
でもある日見つけた。油絵を純粋に描く人を。
名前は
「すごーい!! これやっぱり龍太郎くんが描いたの?」
今日も私は声のトーンを一つあげて話しかけた。
「うん、そうだよ! どう? これ、会心の出来なんだー」
すると彼は油絵を描く手を止めて純真な笑顔を私に向けてくれた。私はその笑顔に弱かった。嘘偽りないその笑顔が私の心を抉るのだ。だから私は嘘でも笑い返さねばならなかった。
「すっごーい! 上手だね! 何を描いたの?」
「人の気持ち。分かるかな?」
「ああ、抽象画ってやつー?」
私は知らないふりをした。気持ちに正直に描かれた絵は私の心を強く惹きつけた。
「まあ、そんなところだね! 難しすぎて
「そ、そんな事ないしっ! 分かるし!!」
そんな他愛もない会話をして私はそこから立ち去った。廊下に出て軽く深呼吸した。早い鼓動を感じた。いつからだったろう。最初は彼の絵に惹かれたはずだった。だけどいつの間にか私は彼の絵を描く彼に惹かれていたのだった。
✳︎✳︎✳︎
今日もまた彼のところへ行った。今日はどんなテーマで描いているのだろうか。廊下を歩く足取りは登校中の何倍も軽かった。
「やっほー。龍太郎くん捗ってるかなー?」
今日も例に漏れず定禅寺くんは油絵を描いていた。
「うん! 今日も頑張って描いてるよ!」
「あっ! それは抽象画って奴だねー」
そんな挨拶を交わし、私は本題に入った。
「何かモチーフにしたの?」
すると彼は思いもよらないことを口にした。
「えっとこれはね、実は……靖子をモチーフに描いてみたんだ! どうかな?」
「えっ……」
思わず声が漏れてしまった。口を手で覆い、何事もなかったかのような振る舞いに徹した。でも彼はそれっきり黙って絵を見つめた。
私の心はかつてないほど揺さぶられていた。彼が私をモチーフに絵を描いたと言うだけの事にこれだけ動揺している自分にも驚いた。だが、それだけの理由はあった。私は今日のキャンバスを見て美しいと思ったのだから。彼からはそう見えてるんだと思った。
「あ、あのさっ! 龍太郎くんにちょっと言いたいことがあるんだけど……明日もここにいるよね?」
気付けば私はそんな事を口走っていた。無意識にこの私が出てきた時は、いよいよ自分というものが分からなくなった。
「うん、いると思うよ!」
だが彼はやはりそんな私に笑顔を向けた。
✳︎✳︎✳︎
昨日話があると言ってしまった私は今日の予定を決めた。定禅寺くんに告白しよう。
毎日訪ねる度に私の胸の鼓動は早くなっていった。次第に恋心というものに気付き、私は完全に彼に夢中になっていた。そして昨日の油絵。私は告白を決意した。
「たのもー!」
ガラガラと扉を開けるとやはり彼は絵を描いていた。
「あ、あのさ! ちょっと話しあってさ」
心臓の脈動が早まり顔が熱くなるのがわかった。頬は多少なりとも紅潮していたに違いない。
「ああ、なんか昨日言ってたよね!」
彼は筆を置いてこちらにヘソを向けた。私は一つ唾を飲み込んで覚悟を決め、自分で自分を奮い立たせて、とうとう口を開いてしまった。
「……私、龍太郎くんが好き。龍太郎くんの描く油絵がとっても素敵だなって前から思っててそれでね……それで、良かったら私と付き合ってくれないかな?」
急に塩らしい態度になった私と、その口から出てきた言葉に定禅寺くんは驚いたようだった。口を開けたまま唖然としていた。だけどすぐに平静を取り戻し、私にこんな事を言った。
「少しさ、油絵を描いてみて欲しいんだ」
と。その返事は回答にはなっていなかったけど、私は彼の言う通りにしようと思った。
そして彼の前で初めて筆を取った。紙パレットの上でペインティングオイルと絵の具を馴染ませていき、隣にあった真っ白なキャンバスに私は色を付けた。そして今度は違う色を持ってきてその上に重ねた。そしてまた違う色を。そして違う色。違う色。
塗り重ねていった先に見えたのは、彼と会話する私の姿だった。私の油絵は自分自身の投影でしかなかった。本当の私が仮初の私になっていく過程を表しているだけだった。
そして完成したのは私自身だ。
「すっご……」
後ろから聞こえた彼の小さな感嘆を私に受け取る資格はなかった。こんな油絵を描いて褒められる。それは何より耐え難い事だった。
沈黙の時間が続いた。彼は食い入るように私の油絵を見つめていた。
暫くして彼が口を開いた。
「ごめん、僕は何か勘違いしてたみたい。こんな人だとは思ってなかったよ。油絵上手いんだね」
その最後の言葉が「化けの皮被るの上手いんだね。でも僕には全部わかってるけどね」と言われているような気がした。彼の純粋な絵が描かれたキャンバスと並んだ私の絵はどう見ても駄作にしか思えなかった。
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