第9話

 第一回公判がはじまるまでに一年、結審するまで十一ヵ月かかった。アンナは三つの死刑判決を受けた。


 終始アンナは無罪を訴え続けた。自分にふりかかった火の粉を自分で払ってなにが悪いのか。しかしアンナの主張はことごとく否定された。


 アンナはテキサス州ヒューストン北にあるポランスキー刑務所の女性死刑囚監房に収容された。ほかの五十八名の死刑囚と同様、一日のうち二十二時間を狭い独房で過ごした。日々、ゾーイが翻意してアンナとの逃避行を手助けしたなどと証言しないかと脅えた。だから、手紙の一通も来ないことが、かえって安心をもたらした。


 テレビ局にインタビューされたこともあった。あなたは犠牲者だ、あなたは無罪だと、あなたを応援している死刑執行の反対派に対して、なにかいいたいことはありますか、と訊かれた。ばかばかしい、とアンナはむなくそが悪くなった。だからこう答えた。


「やつらの顔を見てみな。あたし本人を見ていない。あいつらは自分たちの武器を手に入れて喜んでる。かわいそうな境遇で犯罪者にならざるをえなかった女性ってね。あたしが男だったら見向きもしなかったろうよ。あいつらはあたしの味方をしてるつもりで、社会に怒ってるように見えるけど、実際はすげえ気持ちよくなってるのさ。それこそセックス以上にね」


 アンナを死刑廃止やフェミニズム運動のイコンに利用しようとする人間はしばらく絶えなかった。アンナはそのすべてに中指を立てた。しだいに彼女の味方は減っていった。けっこうなことだ、とアンナは満足げだった。


 そうして時は過ぎた。


  ◇


 収監から十四年後の十二月二十五日正午、そのときがきたので、すでに五十歳をこえていたアンナは監房から出された。手錠と足錠をかけられ、白いヴァンで四十五分かけてハンツヴィル刑務所に移送された。移送の道中、延々つづく墓地を車窓から眺めた。


 墓地と森を抜けると、代赭たいしゃ色のれんがの高い塀が見えてくる。ハンツヴィル刑務所がウォールズと通称されるゆえんだ。ハンツヴィル。アンナは口のなかで味わうようにその響きを確かめる。そして皮肉げに笑う――二度と帰りたくないと思ってた「死刑の町」に、まさか死刑囚として帰ってくるとはね。


 ハンツヴィル刑務所に死刑囚は収容されていない。そこは死刑囚を収監するのではなく、死刑を執行する刑場だからだ。


 ウォールズに到着したのは午後一時半ごろだった。身体検査をし、シャワーを浴びて服を着替え、指紋を採ると、鉄格子の扉の監房へ入れられた。刑務官はいずれもプロフェッショナルに徹していて、アンナにことさら憎悪をぶつけることもなく、淡々と作業をこなした。あるいは流れ作業を心がけていないと務まらない仕事なのかもしれない。彼らはこれから神と正義のために人を殺すのだ。


 死刑が執行される午後六時まで監房で過ごした。ベッドとトイレしかない監房でできることはかぎられていた。二十二歳になっているはずのゾーイは今どうしているか、結婚はしただろうか、子供はもういるだろうかなどと、とりとめのない想像をふくらませるだけだった。


 六時の少し前。刑務官が鉄格子をあけた。テキサス州知事が刑の執行を許可したのだ。アンナは大きく息を吐いて気持ちを切り替えた。刑務官に案内されて処刑室へ入る。冷たいが明るい処刑室には、手術用のようなベッドがあった。


 処刑室とガラス一枚を隔てた別室は二つ。互いに仕切りがあって顔を会わせずにすむようになっている。一方には被害者の遺族たち。もう片方には死刑囚の親族が入ることになっているが、アンナに親類縁者はいない。義務から弁護士が一人いるだけだろうと思っていたアンナは、そこに思いがけない顔を見つけた――ウェイントラウブである。ウェイントラウブはアンナと目が合うと、荘重な面持ちのまま頷いた。


 ゾーイや、ゾーイの母親はいない。彼女たちはアンナの死刑とは無関係だからだ。


 アンナはベッドに寝かされ、規則にしたがって五人の刑務官によってベルトで拘束された。ベルトは上半身に二本、腰に一本、両手首に一本ずつ、足を閉じさせた状態で太ももに一本、すねに一本。首以外は身じろぎもできない。


 AP通信の記者たちが立会室に入る。時刻は六時五分。


 刑務官が注射の準備をしている。アンナの死刑は電気椅子ではなく、薬物注射で執行されることになっていた。


 これには前年のジュナーロウ・チェノウェス・ジュニアの死刑執行の悪名高い不手際が関係していた。ジュナーロウは薬物と交換条件でセックスを持ちかけた女性とトラブルになって彼女を強姦し、一フィートの足で頭を踏みつけて殺害したのち再び死体をレイプした罪で電気椅子による死刑が宣告された。その死刑執行のさい、酔っ払った担当執行官の手違いで電気が通りやすくなる処置を忘れられた彼は、既定の時間の通電を受けても死に至らず、二〇〇〇ボルトの電圧で二分以上も生きたままバーベキューにされた。露出した肌はバーントエンドみたいな焦げ目がつき、処置室にはオーク材のスモークとは似ても似つかない、半世紀は壁と天井に染みつくであろう強烈に生臭い煙がたちこめ、床は立会人たちの吐瀉物で海ができた。この不祥事でテキサスのオールドスパーキーは休業を余儀なくされていた。


「最後にいいたい言葉は?」


 刑務官がマイクをアンナの口元に近付けて手順どおり訊ねた。死刑囚の最後の言葉は記録に残り、新聞で報道もされる。


「娼婦ならレイプされても文句いうなっていってる連中にいっておきたい――あんたが店を経営しているなら、万引きされても文句いうなってね。売る側は、売りたいやつに、売りたい金額で売る権利があるんだ。そしてレイプされたあたしが死刑になるのが、アメリカって国なのさ。あたしを見捨てた社会に、あたしを死刑にする権利があると思うかい? よく覚えておきな。あんたらが助けなかったやつ、見捨てたやつ、関心を持たなかったやつ、そういったやつらは、ある日、突然爆発する。必ずね。そうなってから騒いでも遅いんだ。ま、爆発しても自分に火の粉が飛んでこなきゃ、おもしろいニュースとして消費するんだろうけどね」


 死刑執行を前にしてベッドに束縛された無力な状態とは思えない、反省の色のないアンナの放言に、被害者遺族が気色ばんだ。それこそがアンナの見たかった顔だったので、彼女は満足した。


 薬物注射による死刑執行では、三種類の薬物が決められた順番で投与される――その最初の薬品であるチオペンタールナトリウムがアンナに静脈注射された。致死量以上の麻酔薬がアンナの意識を二十秒ほどで泥濘へ沈めた。


 ウェイントラウブには、アンナが眠りに落ちたように見えた。


 ついで刑務官が強力な筋弛緩剤のパンクロニウムを注射した。


 最後に、心臓を停止させる塩化カリウムを投与した。そのときだった。


「ああ、ゾーイ、どうして……」


 目を閉じたままのアンナの口からかすかに漏れたささやきを、ウェイントラウブは、たしかに聞いた。刑務官らにも動揺が走っていた。最初に投与したチオペンタールナトリウムは致死量を超えている。意識を保っていられる人間はいない。しかもパンクロニウムまで注射されては声帯も横隔膜も動かせない。うわごとすら口にできる状態ではないはずだった。


 ウェイントラウブも刑務官らも事態を注視し続けた。もしアンナの意識があるのなら、すみやかに意識を失わせることで苦痛を感じさせることなく処刑する薬物注射の正当性が揺らぐ。だが五分待ってもアンナはまつ毛一本動くことはなかった。眠っているような顔も白蠟はくろうのように血の気を失っていた。心停止が確認され、アンナの死刑執行は完了した。


 ウェイントラウブは釈然としないながらもウォールズを出た。煙草に火を灯して、煙とため息を吐く――おそらくアンナの「うわごと」については報道されないだろう。新たな処刑法のトレンドである薬物注射の信頼性をいたずらに損なうことは得策ではない、と各メディアが判断するだろうから。ウェイントラウブは曇天をいちど仰ぎ見ると家路に就いた。全身に疲労を詰め込まれたようだった。


 帰宅して夕食をとっていると、妻が「そういえば、おぼえている?」と訊いてきた。


「なにを?」


「きょう、立ち会いにいったんでしょう、死刑になった……」


「アンナ。アンナ・ポペスキュー」


「そう、彼女が人質にしていた、ゾーイって女の子……」


「ああ、それが?」


「きょう、亡くなったんですって」


 ウェイントラウブのスプーンが止まった。


「なんだって?」


「自殺だそうよ」


 妻もラジオのニュースで聞いただけで、それ以上のことを知らなかったので、ウェイントラウブはゾーイの自宅へ車を飛ばした。事件から十五年経っても居住地は変わっていなかった。近づくにつれ胸騒ぎがした。赤と青の点滅する光――何台ものパトカーの回転灯があたりの雪景色を不吉に染め上げていた。規制線が張られていて家の敷地に入ることはできなかった。立ち番している警官に訊ねても不審な目を向けられるだけだった。警察を去ってだいぶになるウェイントラウブの顔を知っている警官はいなかった。クリスマスのリースが飾られてあるスクリーンドアがひらいた。ゾーイの母親だった。母親は、かつて娘の誘拐事件解決に尽力した元刑事の姿をみとめると顔をくしゃくしゃにしながら彼に駆け寄った。ウェイントラウブは規制線を挟んで母親から事情を訊いた。


 母親がいうには、ゾーイが拳銃自殺を図ったとのことだった。弾丸はゾーイの頭部を吹き飛ばした。即死だった。母親は娘が銃を持っているなどまったく知らなかった。


「お夕飯の仕度をしていたら、二階からすごい音がして、あわてて見にいったら……ああ神さま、どうして……」母親は泣き崩れた。


「いつごろですって?」ウェイントラウブは母親を支えながら質した。「何時ごろだったんです?」


「たぶん、六時すぎくらい……わたしはいつもそれくらいにお夕飯をつくるの。きょうはクリスマスだからごちそうを……」


 ウェイントラウブはあとの言葉が耳に入らなかった。ゾーイが自殺したのは、アンナの死刑執行と同時刻だった。

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アンナとゾーイ 蚕豆かいこ @dreamcycle

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