第8話
南へ行く道は例外なく検問が敷かれていた。ゾーイが偵察にいって、戻ってきては首を横に振った。
かくなるうえは強行突破しかない、とアンナは思いつめた。囲みを破りさえすれば警察はまたアンナたちを見失う。
「さすがにそれはまずいわ、アンナ。相手が一人ならともかく……」
「たった一人の検問なんかあるもんかい。やるっきゃないんだよ」
ゾーイという味方がいて、浮かれていたのかもしれない。アンナは堂々とカスカスキア川に架かる橋の検問を通ろうとした。検問の警察官は、アンナたちの数々の所業を聞かされていたのか、いずれも真剣な面持ちで職務にとり組んでいた。
「免許書を拝見……」
警察官に、アンナはM1900を見せつけた。「これが免許証さ」
ぎょっとした警官らは、まさに確保すべき誘拐犯が目の前にいるのだと知って、いっせいに拳銃を抜いた。だが助手席のゾーイが邪魔で撃てない。運転席側から撃っても弾丸が貫通するおそれがあった。彼らは仮にも警察官なのだ。
「通してもらおうか」
警官たちはなにもできなかった。ただ、素通りさせるわけもいかず、何人かは車の前から動こうとしなかった。
「邪魔だってんだよ!」
腕を車外へ出し、青空へ向けて撃った。雲ひとつない、澄み切った空が、弾丸を吸いこんだ。
「みんな、銃をおろせ」
警官らが武器を地面に置いた。手を上げた。アンナは手で「どけ」と合図した。立ちふさがっていた警官たちが不承不承、脇へ退いた。
すさまじい全能感。アンナはあらゆるものを屈服させる力に酔いしれながら、銃をウエストに戻そうとした。
銃声がした。警官たちは思わず伏せた。彼らはシェヴィーⅡの車内が一瞬だけ閃光に染まったのを見たはずだ。
「くそ」アンナは脂汗を流していた。右の足の付け根に、
アンナは苦痛をごまかすために雄叫びをあげ、アクセルを力の限りキックした。
「アンナ! 大丈夫?」
「平気さ。殺されかけても死ななかったんだからね」
だが傷口からは確実に出血していた。しかもアクセルを踏もうと右足に力を入れると電撃のような痛みが脊髄を貫く。車はしだいにスピードを落としていった。
「アンナ、運転を代わって」
「ばかいってんじゃないよ」
「このままじゃ追いつかれちゃう!」
八歳の子供ではペダルに足が届かない。だからゾーイにアクセルを手で押しこんでもらうことにした。
「大丈夫だからね、アンナ。二人で絶対にメキシコへいこう!」
しかし、ルームミラーにも、サイドミラーにも、赤と青の回転灯、まばゆいヘッドライトがみるみるうちに満ちていた。サイレンはイリノイ州のどこにいても聞こえそうだった。テキサスにまで届いていたかもしれない。
アンナの運転が限界とみたらしいゾーイは、レッドバッドという町に車が入るや、廃墟らしき赤れんがの建物の前に停まらせた。
「わたしを盾にして」
「なんだって?」
「みんなはわたしを人質だと思ってる。盾にすれば撃ってこない。わたしになにかあれば全米で黒人が暴動を起こすわ、一九六五年のアラバマや、去年のニュージャージーや、キング牧師のときみたいに。彼らもそれは避けたいはず」
アンナは無理に笑ってみせた。「名案だね」
シェヴィーⅡはすぐさま何十台というパトカーに包囲された。上空にはヘリもいるらしかった。
アンナは、ゾーイを盾にし、銃をつきつけて下りた。
「こいつの頭を吹っ飛ばすよ!」
「武器を捨てて投降しろ! もう逃げられない!」
「それを決めるのはあんたらじゃない。動くな!」
アンナは後ずさりでその二階建ての建物に入った。「だれか一人でも入ってきたらこの子を殺す!」叫ぶだけでひと苦労だ。階段を上って、二階の窓から見渡す。閑静な町は臨戦態勢に突入していた。
「メキシコにいかせな。それが条件だ」
それだけいうとアンナはゾーイとともに窓からひっこんだ。
「うまくいくかね」
アンナは煙草を吸いながらごちた。
「きっといくよ、きっと。――ねえ」ゾーイは煙草をみつめながらいった。「煙草って、おいしいの」
「いいや。体をいじめたいだけさ」
「なにそれ」
「ゾーイも年とったらわかるようになるかもね」
「ねえ」
「ん?」
「わたしも吸ってみたい」
「ガキが吸うもんじゃない」
「ママみたいなこというのね」
これは効いた。カウンターパンチだった。アンナは敗北を認めるあかしとして〈タレイトン〉の一本をゾーイにくれてやった。
しかしマッチが切れていた。アンナが自分の煙草に火をつけたのが最後の一本だった。
「しかたないね。ほら、煙草くわえて」
ゾーイはぎこちない動作で煙草を唇に挟んだ。
「ちょっとこっちきて。あたしの煙草のさきっちょに、あんたの煙草のさきっちょをくっつけて、それで息を吸うんだ」
ゾーイが屈んで、アンナがくわえている煙草の先端に、自身の煙草を触れさせた。吸った。ゾーイの煙草の先端がオレンジに光った。直後、ゾーイは喘息のようにむせた。
「こんなの、なにが楽しくて吸うの」ゾーイは咳き込みすぎて涙目になっていた。
「それがわかるようになれば、大人さ。ろくでもない大人」
「変なの」
「ほんとにね」
二人はしばらく笑いあった。なにがおかしいのか、全然わからなかったが、おかしかった。
建物の近くの広場にヘリが着陸したらしく、爆音で壁も床もびりびり振動していた。前年にシカゴ市警に創設されたばかりのSWAT部隊も駆けつけてきたらしかった。
大仰なことだ、とアンナが感心したとき。
「アンナ・ポペスキュー。きみだろう。わたしだ。ウェイントラウブだ」
拡声器越しだが聞き覚えのある声、それに名前だった。アンナはやおら立ち上がって窓に近づこうとした。ゾーイに引き留められた。ゾーイがアンナの前に立った。アンナは苦笑した。それからゾーイを盾にして、窓から姿を見せた。
「もう、こんなことはやめろ。どうあってもきみはメキシコへは逃げられない。投降するんだ。逃げられやしないんだ」
アンナは、傷の痛みも、出血による意識不鮮明も、寸時、すべて忘れ、気つけ薬でも飲んだように頭が明瞭になった。
「あんたはあいつらを野放しにしたじゃないか。犯罪者を放免したじゃないか」刑事は検察でも判事でもないことくらいはアンナも知っている。だがいわずにはいられなかった。
「有罪にできなかったことはわたしも残念に思っている。だが、だからといって殺人をしていい理由にはならない。復讐をする権利はだれにもないんだ」
「じゃあ泣き寝入りしてろって? あんたたちはいつもそうだ。あたしにくそったれなことをしてきたやつは何も咎めないくせに、あたしが仕返しをしたらとたんに色めき立って、あたしの罪だけを問うんだ。あたしを裁くならまずあいつらに罰を受けさせろ! なんであたしだけ!」
「復讐は何も生まないんだ」
「なにか生みたいなんて話はしてないだろ。公平性の話だ。なんでいじめられたあたしが罰を受けるんだ。あんたらが何もしてくれなかったから、あたしが自分でやるしかなかったんだよ」
「犯罪を裁くのは司法の役割だ。司法以外に人を裁く権利は――」
「だから、それをちゃんとやれっていってるだろ! あいつらをムショにぶちこんでさえくれりゃ、あたしがこんなことをする必要もなかったんだ。こんなくそったれなことになったのはあんたらのせいだ!」
「刑法は、犯罪の抑止のためにあるんだ。復讐の代行じゃない」
「その犯罪の抑止ってのをあたしがやってあげたのさ。レイプするとみじめに殺されるってね。見せしめだよ」
「それをすれば犯罪者になるだけだ。きみはあのろくでなしどもを殺したせいで殺人犯になってしまった。法を犯してしまったんだ。どんな理由があろうと、法は守らねばならないんだ」
「法律があたしを守ってくれなかったのに、なんであたしが法律を守ってやらなきゃならないのさ」
「少なくとも」ウェイントラウブは言葉を絞り出した。「その子に罪はない。解放してやれ。母親が待ってる」
拡声器を向けている黒人刑事のとなりに、ゾーイの母親が進み出てきた。両手を組み合わせて祈っている。
「わかった」腕のなかでゾーイが驚いたのがわかった。知らぬふりをしてアンナは続けた。「条件がある」
「ちょっと!」
「言ってみろ」ウェイントラウブが促した。
「母親にだ」アンナは大声を観衆に投げかけた。この場にいる全員が証人だ。「毎年クリスマスにはこの子にプレゼントを贈ること。なんでもいい、なんだっていいんだ、お母さんにもらえるなら」
仰ぎ見ているだれもが怪訝な顔をしたのがありありとわかった。「そんなことか?」という顔だった。
「わかった、約束させる」ウェイントラウブが戸惑いながらも拡声器を向けた。
「誕生日もだ」この際だとアンナは付け加えた。「誕生日に、ハロウィンに、復活祭も、ちゃんとこの子と祝ってやるんだ。たまには遊園地に連れていきな。あとは――そう、テレビを自由に見させてやること。音楽も、映画も、コミックも、雑誌も、それに運動会も、いっさい禁止にしないこと。これが条件だ」
警官もマスコミも野次馬も、徐々に母親へ白い視線を向けるようになった。
「約束させる」
「母親にいわせな」ウェイントラウブにアンナは返した。
ゾーイの母はなおも決断しかねているようだった。アンナはこれ見よがしにゾーイのこめかみに銃口をねじ込ませた。
ついに母親は折れた。
「わかったわ、約束する。だから娘を返して」
よし、とつぶやいたアンナは、なぜかはわからないが、ウェイントラウブと目が合った。老刑事は、そういうことにするんだな、と目で語っているようだった。アンナは頷いた。それからゾーイとともに窓から離れた。
「どういうことよ!」
「潮時ってやつさ。子供は家に帰るもんだ」
「アンナも一緒じゃなきゃいや」
「行けるわけないだろ。あたしはこれからオールドスパーキーに焼かれにいくのさ」
「わたしもいく」
「ばかいうんじゃないよ。これからはクリスマスも誕生日も祝ってもらえるんだよ。よかったじゃないか」
「よくない。よくないわ。アンナ」
「あんたには、頭のおかしい売春婦にさらわれたかわいそうな女の子って箔がつく。うまく使いな」
「アンナ」
「泣くやつがあるかい。帰れるんだよ」
アンナは、なにか形見のようなものをゾーイに残してやりたいと、にわかに思った。これといって渡せるものがなかった。銃以外は。
「お守りだ」アンナはアイヴァー・ジョンソンをゾーイのスカートに差し込んだ。ブラウスと上着で隠してやる。「弾が一発だけ残ってる。使わなくても、自分は銃を持ってるんだ、いつでもこいつを殺せるんだって思うだけで、気持ちに余裕ができる」
しゃがんでいるアンナとゾーイは、しばらく無言のまま見つめあった。ゾーイが抱きついた。それは別れの抱擁だった。アンナも少女の背中を何度か優しく叩いた。
やがて体を引きはがしたゾーイは、「また会える?」といった。
「あの世なら会えるかもね」
なにか気の利いた冗談をいおうとしたが、でてきたのはそんな陳腐な、つまらない台詞にすぎなかった。
ゾーイは階段へ向かって歩いた。一度だけ振り向いた。アンナはあごをしゃくった。ゾーイは階段へ消えた。
しばらくすると、外で歓声が爆発した。喧騒を遠くに聞きながらアンナは火のついたままだった煙草をおもいきり吸った。すぐに階段を駆け上がるいくつもの足音が響いた。たちまち完全武装のSWATがS&WのM39ピストルやウージーの銃口、それにまぶしいライトを突きつけてきた。アンナは紫煙とともに思わず笑いを漏らした――もう銃なんか持っちゃいないのに。
両腕を後頭部につけた状態でうつ伏せにさせられ、手錠をかけられた。「あなたには黙秘権がある。供述は法廷であなたに不利な証拠として採用される可能性がある。――」事務的に告げる背後で、別の隊員らが安堵からか軽口を叩いているのが聞こえた。「子供を人質にとるなんて、こいつはきっと地獄に堕ちるよ」
アンナは、ああ、そうだった、と悔やんだ――あたしは地獄行きだ。だからゾーイとはもう会えない。うそをついてしまった。何十年先かわからないが天国にいったゾーイは、いつまでもあたしが来ないものだから、きっと恨むだろう。悪いね。でもきっと天国はいいところさ。それで勘弁しとくれ。
一九六八年、十二月二十五日、アンナはひとまず病院へ搬送された。治療を受けたのち、回復を待って逮捕となった。
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