第7話

 モーテルの経営者からの通報を受けて急行していたウェイントラウブは、ヴァンダリアでの一件の報告を無線で受けて、ハンドルに手を叩きつけた。なんてざまだ。だからおれが行くまで手出しはするなといったのに。


「でも、妙ですね」


 ウェイントラウブの内心を知ってか知らずか、新入りがいった。


「目撃証言が正しいなら、ゾーイが自分の意志で車に戻ったということになります。逃げられたはずなのに」


 そこがウェイントラウブもひっかかっていた。ある種の洗脳にかかって「逃げようとして失敗すれば、どんな報復を受けるかわからない。だから過剰なまでに忠誠心を示さなければならない」という精神状態にあるのかもしれない。


 これもまた、決めつけなのか? あらゆる可能性を考慮しないといけないのか? ゾーイが完全に自由意志でアンナとの逃避行に同行しているという可能性を? ウェイントラウブにはわからない。もう、なにも。


  ◇


 すぐそばまで警察の手が伸びていることをまざまざと実感させられたアンナは、間道を使って南下していた。じきに警察は総力を挙げてアンナを追ってくるだろう。一刻もはやくメキシコとの国境を越えなければならない。


「でも、アンナ」ゾーイは地図を前に悩んだ。「ここはイリノイなのよ」


「わかってるよ、それが?」


「メキシコにいくには、どうしたってテキサスを通るわ。テキサスをよけるんなら、相当遠回りになるけど」


「ああそうさ。遠回りでいい」


「どうして? テキサスを突き抜けたほうが早いよ」


「テキサスには絶対帰りたくないんだ。とくにハンツヴィルにはね。なにがあっても」


「じゃあ、州道一五〇号線に入って、チェスターからひとまずミズーリ州に入りましょう」


「オーケー、完璧だ」


 と返答した直後だった。


 サイレンが響いた。ぎくっとしてルームミラーを見やった。パトカーが後方にぴたりとついていた。


 まさか、こんな早く? いや、ただのスピード違反の取り締まりかもしれない。たしかにスピードを出しすぎていた。アンナは舌打ちした。だがシボレーではパトカーにドラッグレースを挑んでも勝てる見込みはない。おとなしく車を路肩に寄せた。


「アンナ?」


「いいから、じっとしときな」


 停車させると、パトカーから下りた警官がゆっくりと運転席側の窓に近づいてきた。白人の男だった。


「何マイル出てたと思ってる?」


「飛行機にはかなわないさ。それくらいには謙虚だよ」


「免許証を」


「なくしちまっててね」


「そっちの子は?」


 警官がゾーイにあごをしゃくった。


「友人の子さ。いまアーカンソーにいる。ウィスコンシンのじいちゃんばあちゃんの家で預かってたのを、そいつのもとへ届ける途中なのさ」


 でまかせだったが、しげしげと覗き込む警官にゾーイは屈託のない笑顔で手を振った。よもや誘拐されているとは思えない明るい表情だった。


「とりあえずあなた、パトカーに乗って」


 警官が怪訝そうにアンナを手招きした。アンナは素直に応じた。警官が背を向けた瞬間にウエストの拳銃を後部座席に投げ、車を下りる。パトカーへ歩きながら、この場を打開するにはどうすればいいか、必死に頭を巡らせたが、なんの知恵も浮かばなかった。


「氏名は?」


 後部座席に乗るよう指示され、職務質問がはじまった。本名を名乗ったら逮捕されるだろう。かといって偽名を出しても、結局は無免許運転が判明して逮捕されるだけだ。


「おい、おまえの名前だ。早くいえ。それとも――いえない事情でも?」


 万事休すか。口を噤むアンナを不審に思った警官が無線機に手を伸ばした、そのとき。


「ハァイ」あどけない声がかけられた。アンナも警官もそちらを見た。パトカーの運転席側の窓からゾーイが覗き込んでいた。


「車に戻ってろ」警官が心底わずらわしそうにいった。職務上の警告というより、親が奴隷たるわが子を叱るときのような口調だった。


「無線機を放して」


 無表情となったゾーイが、アイヴァー・ジョンソンM1900を警官に突きつけていた。警官はなにがなんだかわからないという顔をしていた。アンナも唖然とした。


「わたしたち、指名手配されてるの、武装した凶悪犯として。だから捕まるわけにはいかないの」


 冷静さを取り戻した警官がひきつった笑みを浮かべた。「どうせおもちゃなんだろ?」


 ゾーイは真顔のまま、アスファルトに向けて銃を一発撃った。両耳を串刺しにする発砲音がした。警官が音にびっくりして〈母さんは28年型〉のジェリーのように頭を天井にぶつけんばかりに飛び上がった。


 硝煙の揺れる銃口をあらためて警官に向けた。


「“なめてると痛い目見るぜ”」


 ゾーイが脅し文句を決めると、警官はいよいよ両手を上げるしかなくなった。


「アンナ、下りて」


「ゾーイ、あんた……」


「早く! メキシコにいくんでしょ」


 アンナは気圧されてパトカーから下りた。


「あんたもよ」ゾーイは警官にも命じた。警官は手を上げたまま、さっきまでの権柄ずくな態度はどこへやら、素直に従った。


「後ろを向いて」


 警官はパトカーにもたれかかるようにしてゾーイに背中を見せた。


「アンナ、こいつから手錠を取って」


「手錠を?」


「いいから早く!」


 アンナは戸惑いを隠せないまま警官のズボンの尻から手錠を奪った。


 警官が嗚咽を漏らし始めた。


「お願いだ、たのむ。女房は妊娠してるんだ。来月生まれる。おれがいないと路頭に迷うんだ」


「すてき。奥さんとお子さんを大事にしてね。じゃないとわたしたちみたいになるよ」


 ゾーイはアンナに、警官を後ろ手にして手錠をかけるよういった。そのとおりにした。警官は後部座席に閉じ込められた。


「キーも抜いて、どこかに捨てよう」


 ゾーイが提案した。いわれるままアンナはパトカーのキーを抜き、広大な畑へと力いっぱい投げた。スケアクロウくらいしか見つけられないだろう。


 さらに、パトカーに積んでいたダクトテープで警官の口を塞いで、アンナとゾーイはシェヴィーⅡに戻った。


 あわただしくエンジンをかけながら、アンナは呆れていた。


「よくもまあ、あんなこと……」


「ほかに方法なかったでしょ?」


「まったく。ゾーイ、あんたはいかれてるよ。ほんと、いかれてる」


 だが言葉とは裏腹にアンナは笑っていた。心の底からの笑みだった。


「そうだね、いかれてる。だって、世界がクソみたいにいかれてるんだもん」


 ゾーイがいうと、アンナは今度こそ爆笑した。ゾーイも大笑いした。


 車内はしばらく笑いに包まれた。


  ◇


 ドゥ・コイン付近をパトロールしていたはずの交通課のパトカーから定時連絡が途絶えたため、同課が捜索にあたったところ、当該パトカーの車内で警官が手錠をかけられているのが発見された。ブロンドの白人女に、黒人の幼い少女。車種もナンバーも一致する。


 警官の証言でウェイントラウブらが首を傾げたのは、警官がゾーイに銃で脅されたという点だ。アンナならともかく、どうしてゾーイが?


「アンナがゾーイにやれと命じたのかも。誘拐された被害者が、自身の生存率を高めるため、犯人に協力的になる事例はしばしば見られます」


「違う、そんなんじゃなかった。むしろ、女の子のほうが優位にいた」


 警官は混乱しているのかもしれない。ウェイントラウブはむしろそう思いたかった。


「ほかになにか見たり聞いていないか。目的地とか」


 ウェイントラウブに警官は赤く腫れた目で記憶を探った。


「たしか、黒人の女の子が、白人女にいってました……“メキシコにいくんでしょ”って」

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