第6話

 聞き込みでも大した収穫はなかった。


「すでに州外へ出たのかも」


 それにウェイントラウブは渋い顔をした。州を出られたらFBIが出しゃばってくる。そうなればウェイントラウブたちは使いっ走りになるばかりか、すべてFBIの指示待ちになるので、思うように捜査できなくなる。ウィネトカ周辺と州境にそれぞれ検問を手配しているが、もし抜けられたら終わりだ。


 無線が入り、助手席の新入りが応対する。


「黒人の少女を女が誘拐とのことです」


 ウェイントラウブは嘆息しそうになるのをなんとかこらえた。黒人からの被害の訴えなどシカゴ市警はまともに取り合わない。だれが担当するかたらい回しにしたあげく、黒人のウェイントラウブにお鉢が回ってきたのだろう。こちらは別の事件を捜査しているというのに。


「いってみよう」


 それでもウェイントラウブはハンドルを回した。定年まで勤めあげてきた刑事としての矜持からだった。


 通報のあった家はおなじウィネトカだった。北にタワー・ロード、東をゴードン・テラス、西をオーバーン・ロード、そして南をウェスト・チャットフィールド・ロードに囲まれた住宅街のなかの一軒だ。ほかの家と違ってクリスマスの飾りのたぐいがいっさいなかった。雪だるまさえ。


 スクリーンドアを開けた黒人女性にウェイントラウブたちが名乗ると、彼女は泣き崩れながらすがりついた。


「警察に相談すれば娘を殺すといわれたのですが、もうあなたがたに頼るほかないのです――お願いです。どうか娘を助けてください」


「娘さんを誘拐したのは女といっていましたね。どんな女です?」


「金髪の白人です。銃を持ってた。車を奪って、娘を人質に……」


 ウェイントラウブと新入りは顔を見合わせた。そいつだ。


「検問の連中に至急連絡しろ。犯人は車で逃走中。赤いシェヴィーだ。ナンバーはイリノイ、Aの56229。八歳の黒人の少女を連れてる。白人女性と黒人の女の子だ。この車がひっかかったらすぐにわたしに連絡してくれと伝えてほしい」


 覆面パトカーの無線に怒鳴るウェイントラウブのかたわらで、新入りが住宅街を見渡しながらこぼした。「間に合うといいんですが」


 ウェイントラウブも苦いものを感じていた。往々にして警察は幸運に見放されることを、この歴戦の刑事は知っていた。


  ◇


 日も落ちてきたので目に入ったモーテルに宿をとろうとした。車中泊がいちばん安全だったが、助手席でうとうとするゾーイを見ていると、たとえ安宿でもいいからベッドで寝かせてやりたい、という思いがこみ上げてきた。


 だがモーテルの主人はアンナの後ろについているゾーイを見るなり、露骨に「嫌なものを見た」という顔をした。


「わるいがニガーには部屋は使わせられないよ」


「なんでさ」


「なんでって」常識のない人間を見る目で主人はアンナを見た。「有色人種カラードだからだ。ニガーはお断りなんだよ」


「べつにいいじゃないか。おなじ人間なんだから。ちゃんと金は払う」


「あんたがどんな教育を受けてきたかはしらないが、いいかね、トイレは男性用と女性用にわけられてるだろう? おまえさんがいってるのは、男が女性用トイレに入りたいっていうのとおなじことなんだ。そうとも、男も女もおなじ人間さ。だけど、世の中にはルールがあるんだ。男は女性用トイレに入ってはいけないし、いくら女性用トイレに長い行列ができてるからって、女が男性用トイレで用を足してはいけない、それとおなじように、白人と黒人は別々のトイレを使わなくちゃいけないんだ。入るべきじゃないトイレを使うのは、ふしだらだ――秩序を乱すんだよ。そういうことだ」


 アンナの頭に血が上った。生まれだけでその人間のすべてを知った気になっている連中。目の前の経営者が、アンナを淫売の子というだけでいじめてきたハンツヴィルのクラスメイトや大人たちと重なって見えた。


「黙って部屋を貸せばいいんだよ、このぼんくら。ニガーを泊めないって信念貫いて死ぬか、この子を泊めて命拾いするか、どっちか選びな」


 アンナは銃を取り出した。主人は条件反射で両手を上げた。


「あたしは本気だよ。もう三人も殺してる。どうせ捕まれば死刑だ。いまさら三人が四人になったって、あたしはどうってことないんだ」


「わかった、わかった!」六フィートはある主人は小動物のように脅えた。「泊まってけ。一晩だけだぞ」


「じゅうぶんだ。だれが長居するかこんなとこ」


 アンナは宿賃の倍額を先払いした。主人はきびきびとした動作で部屋の鍵をカウンターに置くとまた手をあげたままになった。


 ゾーイを連れて階段へあがるとき、


「通報しようなんてばかな考えは起こさないほうがいいよ。そういう気配を見せたらあんただけはかならず殺す。あたしは捕まるだろうけど、あんたは死ぬ。それだけは絶対に保証してやるよ。変な正義感よりもっとだいじなものがあるって考えるんだね」


 念押しすると、まだ手を上げている主人は首振り人形になった。


 部屋は意外にもきちんとベッドメイキングされていて、寝泊まりするのになんの不足もなかった。


「シャワー浴びるから、テレビでも見てな。だれか来ても絶対に入れるんじゃないよ。居留守使いな」


「テレビは見ちゃいけないってママが」


「ママがここにいるかい? 見ていいのかどうかは、自分の目で見てから判断するんだ」


 スイッチを入れてやった。ちょうど再放送の〈母さんは28年型〉がはじまるところだった。ポール・ハンプトンがオープニングを歌うのにあわせ、歌詞のテロップの上をピンポン玉が跳ね、いま歌われている箇所を示していた。アンナはバスルームへいった。


 ひとりになったゾーイは、母親との約束を破る罪悪感からか、最初こそ顔を背けていたが、楽しげな歌に興味をそそられ、ちらちらと盗み見た。そのうち、画面に目をやる時間が伸びていき、本編がはじまるころには食い入るように見ていた。


 ジェリー・ヴァン・ダイクが一億回目の飛び上がって驚くさまを見せ、どう見てもT型フォードの二十八年式ポーターに乗り移ったグラディス・クラブトリーが母親として一億回目の注意をしていた。

 そして、二十八年式ポーターが欲しくてたまらないエイヴリィ・シュライバーが、ジェリーにピストルを突き付けて脅した。


「なめてると痛い目見るぜ」


 小さなモノクロの画面で繰り広げられる異世界のできごとに、ゾーイは釘付けになっていた。まばたきする間も惜しかった。


 翌朝。遅くまでテレビに夢中になっていたせいでなかなか起きないゾーイに手を貸して身支度させて、アンナはモーテルをチェックアウトした。


 やっかいな白と黒の連れ合いを乗せたシェヴィーⅡが見えなくなると、主人はせめてもの腹いせにシカゴ市警に通報した。もう命の危険はないだろう。


「ゆんべ、銃で脅して泊まっていった女が来やしてね……黒人の女の子を連れてて……黒人は泊められないっていったら脅されやして……それでしかたなく……え? ええ、白人のほうは背が高くてブロンドで……黒人のほう? うーん、いわれてみれば八歳くらいかなあ。車? よくご存じですな、そのとおり、赤のシェヴィーで、へい……」


  ◇


 食料が尽きたので、アンナたちはヴァンダリアに入った。スプリングフィールドに遷都されるまではイリノイの州都だったファイエット郡の郡庁所在地は、すっかり寂れ、往年の輝きなど斜陽ほどしか残ってはいない。だがウォルマートがある。


「なんでも好きなもの入れな」


 カートを押すアンナは、サッカーができそうな広大な店内と、どこまでも続く商品棚、それを埋め尽くす多種多様な商品に圧倒されているゾーイに苦笑していった。


「なんでも?」


「人質のお駄賃さ」


 ゾーイが迷いに迷って、赤いリコリス・キャンディをひと袋、おずおずと抱えてきて、勇気を振り絞ったという様子でかごに入れた。上目遣いのゾーイは、怒られないかアンナを警戒していた。お菓子を買おうとしただけで叱られる家だったのかもしれない。


「これだけかい?」


 ゾーイは、意表を衝かれた顔をしたが、しだいにその顔が輝いた。


 結局、ゾーイはチョコバーやスタルダブル・チューインガム、ポテトチップスなどなど、お菓子でかごに山をつくった。お菓子の山脈。これこそ子供の夢だ。


 駐車場へもどるとき、ゾーイの足が止まった。アンナはその視線をたどった。併設されている映画館だった。上映中の映画のポスターがずらりと並んでいる。


「観るかい?」


「いいの?」


「映画を観るのに許可なんかいらないんだよ」


 ゾーイにどれが観たいか選ばせた。


「ぜんぶ!」


「そりゃ無理だ。だいたい一本二時間くらいかかる」


 それを聞いてゾーイが、はっとした。


「アンナ、大丈夫?」


「なにが」


「そんなに時間かかると思わなかったの。――メキシコ、いかなくていいの?」


「メキシコは、逃げないんだよ」


 アンナはわざと急かした。「ほら、もうはじまるかもしれないよ」ゾーイは、ポスターがとりわけ美しかった『ロミオとジュリエット』にした。


 いったん買い物の荷物を車に置いて、あらためて映画館へ足を運んだ。


 二人が去ったあと、一台のパトカーが駐車場を通りかかった。赤いシェヴィーを探すよう命令されていた警官の一人である彼は、「ああいう車かな、まさかね」と、寝ぼけまなこでナンバーを確認してみた。一気に目が醒めた。なんど確かめても、手配中の車種、そしてナンバーと一致していた。


 映画を観るのも初めて、映画館にくるのも初めてだったゾーイは、興奮しきりだった。だがオリヴィア・ハッセーとレナード・ホワイティングの演じる悲恋に、たちまち魅了され、最後には泣いていた。


「すごい。もっといろんな映画が観たい」


 映画館を出ると、空が荘厳なオレンジと紫の黄昏に染まっていた。


「あたしには合わなかったけど、そりゃよかった。これがすんだら好きなだけ観にいきな」


 ゾーイが歩みを止めた。アンナは振り返った。ゾーイが所在なさげに佇んでいた。「アンナといっしょじゃ、だめなの?」


「むりに決まってんだろ。あたしはメキシコ。あんたは家に帰る。それが運命……」


 アンナは駐車場にパトカーが何台か停まっているのに気づいた。見ていないふりをして運転席に乗る。


 パトカーの一台が、ゆっくりバックしてきて、アンナの車の進路を塞ごうとしていた。


 アンナは、まだゾーイが乗ってもいないのに、ギアをバックに叩きこみ、アクセルを踏み抜いた。タイヤが悲鳴と白煙をあげた。半ばブロックしかけていたパトカーの尻を、リアグリルで押しのけた。落雷みたいな衝撃音がした。パトカーは斜めにずらされた。


 九十度、方向転換をし、それから前方へ急発進した。待機していたパトカーがいっせいに動き出した。どれもアンナの尻を狙っていた。


 利用客らを蛇行運転でよけながら、アンナはウォルマートをぐるりと周った。資材置き場を器用に通り抜けた。だが、パトカーたちは、われさきに追跡しようとしていたせいで、狭い通路に二台が集中してぶつかって、うず高く積まれた資材まで倒して、それがとなりの資材のタワーまで倒すのをドミノみたいに繰り返し、かえって後続の進路を塞いでしまった。


 一周してきたアンナは、そのまま駐車場から出ようとした。


 その前をゾーイが立ちはだかった。


 急ブレーキを踏んだアンナはつんのめった。車はぎりぎりで止まった。思わず怒鳴った。「あぶないだろ!」


 ゾーイは助手席に飛び乗った。そして、いった。「一緒だから」


 アンナは「ああ、くそ!」と頭をかきむしり、車を出した。


 あとには、にっちもさっちもいかないパトカーと警官たち、そして茫然としている客たちだけが残された。

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