第5話

 夜明け前からシカゴはすでに騒々しい。ウェイントラウブがシカゴ市警に出勤すると、同僚たちがみな意味ありげににやついていた。真意がわからず愛想笑いですませていたが、デスクで仕事にとりかかろうとしたとき、理由がわかった。抽斗という抽斗に、砂がこれでもかと詰められていたのだ。


 部内の白人刑事たちが爆笑した。ピーターが寄ってきて、


「もうすぐ定年退職だろ? 引退後はフロリダのビーチ? いまから砂に慣れておかないとな。おれたちからのささやかなクリスマスプレゼントさ」


 ピーターは、どうだ、おもしろいだろ、と目で付け加えた。その裏には、こんなメッセージが込められている――笑え。じゃないと、まるでおれたちがおまえをいじめてるみたいじゃないか。


「ああ、ありがとうよ」ウェイントラウブは平静をよそおって砂のなかから書類を抜き出した。ピーターはウェイントラウブの肩を叩いて仲間たちのもとへ戻っていった。そしてハイファイヴをした。


「ウェイントラウブ警部、殺人の通報です。場所はスコーキーラグーンズ」若いアジア系の警官が折しも駆け込んできたところだった。「タワー・ロード沿いです。少年が三人射殺されていると」


「よし。わたしと一緒にこい」


 ウェイントラウブは書類整理もそこそこにオフィスを出た。一階は制服警官と被疑者でごったがえしている。喧騒と人をかきわけてエントランスへ進んでいると、いましがた警官に拘束されてきた黒人の被疑者が「痛えっていってんだろ! おれには権利があるんだ。弁護士が黙っちゃいねえぞ」と抵抗し、ウェイントラウブの目の前で警棒の制裁を受けた。ひざまずく格好になった被疑者は、ウェイントラウブの姿を認めると、いっそうの憎悪に顔を歪ませた。


「白人のケツを舐めたのか? ニガーの恥さらしめ」


 見慣れた目だった。黒人の犯罪者は、白人よりも、むしろ同胞のはずの黒人の警官に激しい憎しみを覚えるらしかった。男の次の言葉がそれを証明していた。


「“白人に従順になるように調教されたことに気付かない哀れな家畜だ”」


 ウェイントラウブは、なにもいうべきではない、と自制した。男の言葉は、マルコムXが自伝のなかで大学や大学院を卒業した黒人に対して述べた一節の引用だった。


 現場は森に囲まれ、潟湖を望む草地だった。射殺体は三人ともテント内にあった。


「この時期にキャンプ? 子供たちだけで?」


 聞き込みによると、三人は家族ぐるみの仲で、しばしばここで子供たちだけのキャンプをしていたらしい。たとえ真冬でも。


 また、テントのなかには、五発の薬莢が無造作に転がっていた。


「リムがある。リヴォルヴァーですかね」


「弾痕は六発。五発しか込めていなかったか、五発しか入らない銃だったか」


 まだどんな可能性も捨てるわけにはいかなかった。とにかく犯人は武装しているおそれが強い。緊急配備の検問にひっかかる幸運をひとまずは祈るしかない。


 被害者の情報をまとめたファイルがウェイントラウブに渡された。顔と名前に目を通していく。ウェイントラウブの顔が険しくなった。


「見覚えが?」


「わたしが手掛けた事件の被疑者たちだった。女性を半殺しにした容疑だ。三人とも無罪になった」


 犯人らしき人物を目撃したという男性に話を聞いた。被害者の一人の父親だった。深夜に来てみると、テントから逃げていく人影を見た。成人に見えた。おかしいと思ってテントを覗くと、血の海だった。


 父親はウェイントラウブらにいった。


「暗くてよくわからなかったが、女のようだった。長いブロンドの髪だった」


 ウェイントラウブの脳裏に、警察の力不足から犯人たちを有罪にできなかった、長いブロンドの被害者女性の顔が浮かんだ。あくまで可能性のひとつとして頭に刻んだ。まだどんな可能性も捨てるべきでないし、決めつけるべきでもないからだ。


  ◇


 主要幹線道路は避けて走っていたが、そのせいでアンナはどういけば州を出られるのかわからなくなった。


「この車には地図はないのかい」


 サンルーフやグローブボックスを漁っても見つからなかったので、アンナは給油がてら適当なガソリンスタンドに寄った。地図や飲み物くらい置いてあるだろう。


「いいかい、逃げようとしたらどこまでも追いかけて、ぶっ殺してやるからね。おとなしくしとくんだよ」


 ウエストに差し込んだ銃をちらつかせて脅すと、ゾーイは何度も頷いた。


 指名手配されていないか用心して、意味があるかわからないが、うつむき加減で買い物をすませた。


 車に戻るとゾーイは約束を守っていた。不安そうに目で追ってくる。


「お留守番できたご褒美だよ」嫌味のつもりで瓶のコーラを一本押しつけた。車を発進させる。


「飲めない」


「炭酸は嫌いかい?」


「違うの。自然のものじゃないから、こういうのは飲んだらいけないの」


「ばかいえ、石油だって自然のものだけど、石油なら飲んでいいってのかい? コーラ飲めないんじゃなくて飲まないやつなんかいるかよ」


「ママが、コーラとかはお金もうけのための悪魔の飲み物だって」


「あんたはどうなんだい。飲みたいのかい、飲みたくないのかい」


「……喉かわいた」


 もう何時間も走ってきている。飲まず食わずだ。


「じゃあ飲むしかないね。これ使いな」


 運転しながら五セント硬貨を渡した。ゾーイはまばたきをした。


「これをどうするの?」


「ふたを開けるんだよ。あんた、利き手は?」


「スプーンは右手だけど、はさみは左手を使うの」


「なんだそりゃ。まあならどっちでもいいや。かたっぽの手でふたを押さえる。で、もうかたっぽの手で、コインをふたの下に差し込む。え? どれ、あたしに見えるようにしておくれ――よし、じゃあ、コインを上へ力いっぱい持ち上げな」


 何度かゾーイは力を込めた。開かなかった。「どんくさいね! コインでふたをめくるようなイメージでやってごらん」アンナに叱咤されたゾーイの何度めかの挑戦で、栓が音を立てて抜けた。


「なにこれ!」どんどんあふれてくるコーラの泡にゾーイはあたふたした。


「ほら、もったいないから早く飲んじまいな」


 ゾーイはおっかなびっくり、びんに口をつけた。こわごわひとくち飲んだ。喉を通った。目を大きく見開いた。


「おいしい!」


 それからアンナのほうを向いた。


「なんだい」


「ぜんぶ飲んでもいい?」


「あたりまえだろ」


 これみよがしにめんどくさそうに答えたにもかかわらず、ゾーイは初めて笑顔を見せた。びんを傾けてごくごく飲んだ。


 それから苦しそうな顔をした。吐きそうな顔だ。


「げっぷしたいんならしなよ」


「人前で……げっぷはしちゃいけないって」


「コーラ飲んでおもいっきりげっぷするのが気持ちいいんじゃないか」


 ゾーイはがまんできなくなって、盛大にげっぷした。アンナはとくになにもいわなかった。ゾーイが空のびんを両手で持ったまま、アンナにいった。


「もう一本飲んでもいい?」


「好きにしな」


 買い物袋を置いてある後部のベンチシートを親指で指し示す。ゾーイは身を乗り出してコーラのおかわりに手を伸ばした。


 上り坂を登ったところで、警察が検問を敷いているのが見えた。いまからUターンなどしたらそれこそ自白しているも同然だ。そのまま直進するほかなかった。


 警官がアンナの車を停めた。だがあきらかにやる気が感じられなかった。当然だ。クリスマスシーズンに仕事をしたい警官などいない。ウインドウを下げさせた警官は、免許証すらあらためず、アンナとゾーイの顔を交互に見て、


「例の手配犯、ニガーの子供を連れてるとかいってたか?」


「いいや。そんな話は聞いてねえ」


 話し合って、アンナにあごで「行け」と示した。ほっとした様子すらおくびにも出さず、アンナは車を発進させた。


 サイドミラーにも検問が映らなくなったあたりで、地図を広げた。だが運転しながらルートを探すのは骨が折れた。そこでゾーイにナビゲーターをやらせることにした。


「メキシコにいきたいんだ。国境までいったらあんたを解放してやる。せいぜい気張ってナビやるんだよ。いいかい、いまあたしたちはここだ、チャドウィック。ここからメキシコにいくルートを教えな。メキシコからここまで逆にたどったほうがいい。新聞とか雑誌の迷路で、よくやるだろ、ばか正直にスタートから進むよりゴールからはじめたほうがうまくいくってやつ」


「新聞も雑誌も読んだことない。〈チャーリー・ブラウン〉をアーリーンに見せてもらったことはあるけど」


「まあガキは新聞読まないだろうね」


「うちは新聞とってないの。ママが、新聞はわたしたちを洗脳しようとしてる悪魔のプロパガンダだって」


 アンナも、ゾーイの家がなにかおかしいことに気がつきはじめていた。


「あんたの家、クリスマスツリーなかったね」


「うん」


「ママからプレゼントはもらった?」


「ううん」


「毎年? 一度も?」


「ない」


「くそったれなママだね。最低な母親オリンピックがあったらあんたのママは金メダルがとれる。あたしのは銀色に降格だ」


「ママはいい人だよ」


「買えないんじゃなく、クリスマスプレゼントをわざと買わない母親なんてのは、ろくでなしのクズに決まってるさ」


「ママをわるくいわないで!」


 アンナはおちょくるように「ママをわるくいわないで!」と真似してみせた。


「じゃあ、感謝祭は? 先月あったろ」


 ゾーイは首を横に振る。


「ハロウィンは?」


 ゾーイは首を横に振る。


「あんたの誕生日は祝うだろう?」


 ゾーイは首を横に振る。


 アンナはいよいよ不気味に思えてきた。


「なんでだい」


「クリスマスも、感謝祭も、ハロウィンも、異教徒のお祭りだから、お祝いしちゃだめなの」


「誕生日は?」


「この世は試練のためにあるの。わたしたちは、とても悪いことをしたから、この世に生まれてきたの。神さまの教えどおりに生きることができたら神さまの国にいけるの。だから、この世に生まれたってことは、悪いことをしたせいだから、お祝いするんじゃなくて、罪を再認識して、悔やまなければならない日だって……」


「反吐が出るね。雑誌は? ほんとに読んだことないの? 〈セヴンティーン〉は? 〈ヴォーグ〉は? 〈フェイマスモンスター〉は?」


 ゾーイは首を横に振る。


「そんなんで友だちとなにを話すんだよ」


「お友だちはいないの。つくっちゃいけないの、信者じゃないと。運動会も出ちゃだめだって、ママが……」


「映画は? 音楽は? 好きなテレビ番組は? 好きな俳優は?」


 なにかひとつくらいあるだろうとアンナは思ったが、ゾーイはすべて否定した。そもそも知っている俳優の一人さえいなかった。


「うちにはテレビもラジオもないの」


「アーミッシュかよ」


「ぜんぶサタンが人間を堕落させるための罠だって、ママがいってた」


「あたしにはあんたのママがサタンに見えるよ」


「ママはサタンなんかじゃないわ!」


「はいはい。わかったからさっさとルートを探しとくれ」


 そのとき、ゾーイがおなかを押さえた。


「吐くなら外で吐くんだよ」


 しかし、ゾーイはぽつりとこぼした。「おなか空いた」


 アンナはため息をついた。「あそこへ寄っていこう」


〈ブロックルバンクの店〉はアンナも一度いったことのある気のいいレストランで、店主のブロックルバンクは肉を焼かせたらイリノイでは右に出るものはいない腕前と情熱の持ち主だった。人であふれているが、だれもアンナたちを気に留めない。堂々としているほうがかえって怪しまれないのかもしれない。


「ここのオープンサンドは一級品さ。腹も膨れる」


 いましも店主がバーベキュー用のオープンピットでブリスケットを焼いているところだった。焼き網に載せると跳ねるほど弾力のある二ポンドの肉が炙られる。オーク材でもとくに身の詰まった品種の薪が独特のスモークを生み、湿らせたピーカンナッツの殻で火を抑えることでより風味が増す。裏返すと芸術的な焼き目が目を直撃する。最後に三十七種類のスパイスを混ぜたタレを、ぞうきんで油絵みたいに肉に塗る。その調合レシピはフルシチョフにだって盗み出せない。タレの砂糖や酢で肉の表面がカラメル状に照り輝きはじめる。タレが燃料に落ちるとさらに燃えて、スモークがますます香り豊かになる。


「端っこのこげた部分をバーントエンドっていうんだ。最高にウマい」


「焦げたものはからだにわるいってママがいってたわ」


「人間いつかは死ぬんだよ。JFKだってウィリアム・ハーストだって死ぬ。ウマいもん食って死ぬか、バーントエンドも知らずに死ぬか、それだけの違いさ」


 バーントエンドをたっぷり使ったブリスケットのオープンサンドに、ベイクドビーンズ、マッシュポテト、青りんご入りのコールスロー、ねずみくらいあるピクルスが二人の前に出された。


 アンナがお手本を見せた。オープンサンドにかぶりつく。ソースがぼたぼた垂れるのも気にしないのがイリノイ流だった。


 ゾーイもためらっていたものの、空腹には勝てず、遠慮がちに小さくかじった。つぎの瞬間、ゾーイは新しい世界を目にした子供にあるべき反応をこれ以上なく鮮烈に示した。すなわち、双眸を輝かせてむしゃぶりつき、肉の旨味を口いっぱいに味わった。途中からは、涙をぽろぽろこぼしながら、


「おいしい、おいしい」


 と呟いていた。


「あんた、名前は?」


 食べ終わって車に戻るとき、アンナは訊ねた。


「ゾーイ」


「ゾーイ。国境までいったら、あんたをかならず自由にする。だから……それまでは辛抱しておくれ」


「あなたの名前は?」


「は?」


「あなたのお名前」


「――アンナ」


「ありがとう、アンナ」


 アンナは吹き出した。「誘拐したやつに、“ありがとう”? それもママの言いつけかい?」


「わたしが言いたいだけ。ごちそうになったんだもの」


 それだけいうと、ゾーイはさっさと助手席に乗り込んでしまった。憤然として腕組みなどしている。


 調子が狂う。アンナは舌打ちして車に乗った。

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