(什弌)
「賊軍があらわれただと? 見間違いではないのか? 賊軍は、山波、管寧に向かっているのではないのか?」
興魏は、信じられない報告に驚き、そう返事を返した。しかし、
「いえ、確かにこの目で見ました。かなりの大軍です。50万はいます」
「50万だと、賊軍の全軍以上ではないか。だったら、あの報告は何だったのだ! おい! 偵察隊の隊長を呼べ!」
「は、はい。ですが……」
「分かっている。とりあえず、この目で確かめるまでは、とても信じられん。案内しろ、行くぞ」
「はっ、畏まりました」
興魏は、物見の兵に案内させて、東門の上にある城樓へと向かう。そして、
「何ということだ」
眼下には、見渡す限り賊軍がすでに布陣し始めていた。確かに数は、50万以上いよう。だが、何故、ここまで近づくまで、気付かなかった。怒りがこみあげる。
「偵察隊は、何をしていたのだ!」
だが、周囲にいるのは興魏の護衛の兵や、物見の兵ばかり、それに答えられる者は居なかった。
興魏は考える。どうにかしないといけない。王正は、どうした? 興魏は、城樓から北方を見る。するとすでに王正軍は、動き出しているようだった。しかし、間に合わぬか。それに、薄い。
王正軍の、赤い帯も、丘から、こちらへと延びてきていた。しかし、丘からこちらへと続く、堀と土塁の外に展開する軍の方が圧倒的に多い。それに速い。すでに、如親王国軍の緑の帯が、丘付近まで、近づいていた。初動の遅れが原因だったが、それも仕方のない事だった。
普段だったら、偵察隊が、敵が近づくと急報を送り、こちらは、それに備えて準備する。しかし、今回は、物見の兵の報告でようやく事態を把握したのだ。おそらく、王正軍も、同様であったのだろう。
これは、勝てぬな。興魏は、すでにこの戦いを諦めていた。敵は、防御線を兵の薄い、あるいは居ない所から、突破。丘と九龍の軍を分断し、包囲すれば良いのだ。大軍を布陣させてこその防御線であり、今の兵力では、防御線を維持する事は、不可能だろう。
王正軍が丘付近、秀亮軍が中央付近、そして、秀峰軍が九龍付近、と防衛する予定だったのだが。秀亮軍、秀峰軍を送り出したのは、興魏、自身だ。それを言ったらどうしようもない。
さて、興魏は考える。まずは、岑職だが、戦いに巻き込むのは
興魏は、自分の執務室に戻りつつ、周囲の者に、命じる。
「秀亮、秀峰に伝令だ。急ぎ九龍に向け兵を戻せと。九龍が、敵の強襲を受けたとな」
「はっ」
一人の護衛が、駆けていく。
「王正に伝令だ。いや、もう分かっておるか。あ奴とは長い付き合いだからな〜。参興を呼べ、戦う準備をしているのか、あの男は?」
「はっ、畏まりました」
そう言って、また一人駆けていく。
興魏が、執務室に戻ると、偵察隊の隊長を探しに行っていた者が、戻っていた。そして、
「興魏様。偵察隊ですが、三日ほど前に、偵察に行くと言ったきり、帰っていないそうです。そして、その家族も、誰一人居ないそうです」
「何だと! 偵察隊が、寝返っていたと言う事か?」
「それは、分かりかねますが……」
偵察隊。これは、忠義心に厚く、真面目で、判断力に優れた者が、選ばれる。そして、身辺調査も厳重に行われる。これは、正しい情報を素早く伝え、敵から買収などされ、偽の情報等を、流され無いようにする為であった。
現に、偵察隊は懸命に駆け回り、正しい情報を九龍に、もたらせ続けていた。しかし、正しい情報を伝えても、何もしない興魏。街が次々と陥落していく様に、焦燥感をつのらせ。そこを、さらに耀勝によってつかれ、偽情報を流した上で、失踪したのであった。
興魏が、偵察隊の心労に多少気をつかっていれば、結果は違っていたのかもしれなかった。だが、もう遅い。
その時参興が、慌てて駆け込んで来た。
「て、て、敵が、攻めてきたそうで。どうしましょう?」
「戦うに決まっているだろ。戦闘準備は出来ているのか?」
「は、はい、い、一応は」
「そうか。だったら
「は、はい」
参興は、慌てて出ていった。興魏も、岑職を脱出させる為に、岑職の下に向かった。
興魏は、暴れる岑職を連れ、西門に向かった。しかし、そこには、
「な、何だ、この大軍は。おい、参興は、何処だ? 参興!」
「は、はい! 興魏様、何でしょうか」
参興が、慌ててやってくる。
「何でしょうか? ではない。2千程で良いと言ったであろう。何だ、この大軍は?」
「き、騎兵全軍、い、1万を
「多すぎだ。それでは、九龍が持たぬだろ。陛下が逃げる時間を稼ぐ為に、敵を引き付けなければならんからな。その後、我々が脱出する時にも、兵が多い方が良い。分かったか」
興魏が、そう言うと、参興は、奇妙な事を言い始めた。しかも、言い淀む事無く、とても低い声で。
「それでは、逃げられないかもしれない。わたしは、死にたくない。だから脱出する。それに、足の速い騎兵1万。歩兵は、遅いからその後で、弓兵は、全軍城壁の上に配置した。これで、大丈夫」
「なっ!」
興魏が、驚きの声を上げ、何か言おうとした瞬間。背後から何者かに、頭部を思いっきり殴打される。
「うっ」
流石の興魏も、完全な不意討ちを受け、その場に
「うるさいから、縄で縛って、
「はい」
兵士達は、興魏を縛り、猿轡を噛ませると、岑職が乗る馬車に、放り込んだ。そして、
「し、出発する」
西門が開くと、騎兵1万が駆け出して行った。その後に、歩兵1万が続き。残りは、九龍の守備に残る。
守備として残された者達も、機動力の高い騎兵を外に出して、歩兵と共に、敵の背後を突くと、聞かされていたので、静かに送り出していた。
外に出た軍は、ただ大京を目指し、全力で走った。あまりの速度に、馬車は大きく揺れ、女官達や、宦官等の、悲鳴が聞こえるが、気にする事はしなかった。
興魏や、参興は居なくなったが、九龍攻防戦は、開始された。
やはりと言うか、当然と言うか、岑瞬軍は、土塁の中央部付近を突破し、続々と防衛線内部に進入した。そして、二手に別れると、一方は九龍へ、一方は、丘へと向かい侵攻を開始した。
九龍に向かったのは、凱炎軍10万。丘へ向かったのは、条朱、廷黒軍、合わせて20万。防御線の外には、丘付近に如親王国軍10万。九龍付近に岑瞬軍5万と、如親王国軍の10万。という配置であった。全軍で、55万。
対して、岑職側は、九龍に2万、王正が率いる10万、合計12万。絶望的だった。
九龍での戦いは、あっさりと終わった。取り囲むように、凱炎軍が展開する。そして、凱炎は、城攻めを苦手としていたので、ただの力攻めが始まった。2万と10万の、戦い。
それでも、九龍の軍は、かなり優勢に戦いをすすめた。上からの弓兵の攻撃で、バタバタと、凱炎軍の兵が倒れる。そして、指揮官が兵を鼓舞する。
「もう少しだ、もう少しで。参興様の軍が、敵の背後を突く、それまでの辛抱だ!」
しかし、城壁の上からは、参興の軍が戻ってくる姿は見えない。さらに、様子を見ていた。如親王国軍10万、そして、岑瞬軍5万が動き、攻撃の苛烈さを増すと、兵達の間に、もしかして、参興は、逃げたのではという、考えが支配し始めた。
そして、城内に興魏も居ないという事が分かると、九龍の兵達は、武器を手放し放り投げ、降伏の意志を示す。それは、指揮官も同様であった。こうして、九龍は、短時間で、陥落したのだった。凱炎軍の損害はそれなりにあったが、九龍の軍の損害は、かなり軽微だった。
王正軍は、九龍方面に向かっていたが、条朱、廷黒の軍が、展開し始めると、さっさと、砦のある丘へと後退した。
そして、王正軍10万は、丘を防御拠点として、戦いを開始した。如親王国軍10万、廷黒軍10万、条朱軍10万、三方向から半包囲される形での不利な戦いのはずだったが、王正軍はここからかなり善戦する事になる。
丘は、斜面が急で登りにくく、さらに、木々がはえて内部の状況が、見えにくくなっていた。
騎兵では、登る事は出来ず。弓兵の
廷黒が、直接指揮して歩兵が少しずつ登り、攻略していく事になったのだが、廷黒は、正直、王正について誤解していた事を悟った。
今までの戦いで、目立った働きが無かったので、興魏のおかげで出世しただけの男と思っていたのだが、防御施設を作り上げる事、さらにそこを拠点に守る戦いは、かなりのものだという事を実体験で、実感していた。
「これは、厄介だな」
廷黒は、全然進まない攻略に滅入っていた。登りやすい場所を見つけ登ると、ただ横に移動するだけだったり、それで、急な場所を無理矢理登ると、上から石が降ってくる。おそらく、丘にある自然の石を投げているだけなのだろうが、かなり効果的だった。
それでも、兵を減らしつつ徐々に登り、ようやく砦が見えてきた時だった、王正軍からの攻撃が、ピタリと止む。
「何だ? 何があった?」
廷黒も驚き、警戒しつつ、少しずつ兵を進めて、砦に近づくと、
「誰も、おりません!」
「何!」
そう、王正軍の姿は砦だけでは無く、丘からも消えたのだった。
その頃、王正は、丘を攻められていた方とは反対側から、降りて、退却を開始していた。自軍の損害は千程度、敵にはその5、6倍の損害をもたらしていただろう。さらに、もっと戦っていれば、さらに損害を出させていただろう。しかし、もう王正には、戦う理由が無かった。
砦から、遠く九龍での戦いを見ていたのだが、開戦当初から、興魏様は、居ないと言う事が分かった。まとまりのない動きに、意味のない攻撃。
おそらくは、脱出した軍と共に退却したのだろう。王正の心はついに折れた。そして、九龍の兵達が降伏したのを見ると、それ以上の戦いをする事無く、撤退を開始した。
「王正様、このまま、大京に向かわれますか?」
「いや、西京に向う」
「西京ですか? ですが……」
「ああ、もう良いのだ。終わったのだ」
そう言って、王正は、軍を西京へと向けた。
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