(漆)

 岑英の意識がはっきりしている時に、岑英は人を枕元に呼び、話をしているようだった。なかなか、意識がはっきりする事も少なく。徐々に、命のともしびは、消えようとしていた。皇妃、岑瞬、岑平等の、家族が呼ばれ、興魏等の、親族が呼ばれ、そして、家臣団の順番になった。宰相、呂鵬、そして、何故か、趙武がその次に呼ばれた。ちょうど、凱炎と会った翌日であった。



 場所は、皇宮内の皇城側の寝室。趙武が部屋に入ると、部屋には、こうが焚かれ、人が死ぬ前の独特の香りとでも言うのだろうか? 死の匂いを消していた。部屋には、岑英と趙武、完全に人払いがなされていた。趙武は、岑英の足元に膝をつき控えるが、岑英が、か細い声で趙武に声をかける。



「趙武。すまんがそれでは見えん。枕元に来てくれるか」


「はっ」


 趙武は、立ち上がると、岑英の顔の左横に立った。岑英の顔は、目は窪み、頬はこけ、唇は乾き荒れていた。趙武の目が、一瞬揺らいだ。


「そのような顔をするな趙武」


「はい、失礼しました」


「うん」


「で、お呼びとの事ですが」


「ああ、趙武に頼みたい事があってな」


「はい」


「この国を頼む」


「はい、もちろんです。この趙武の力の及ぶ限り、大岑帝国を守ってみせます」


「違う」


「は? 違いますか?」


「ああ。お前がこの国を獲れ、趙武」


「はい? それは出来ません。簒奪者さんだつしゃになってしまいます」


「なれば良いのだ。岑職はもとより、岑瞬にも、この国を治める器量はない。まあ、相争あいあらそって分割統治すれば別だがな」


「では、それで良いのではないですか?」


「ハハハ、相変わらずだな。まあ、良い。余の本心でもあるが、後は趙武が決めよ」


「はい」


「だが、本当にこの国を頼む。長い戦乱の世では無く、皆が平和に暮らせる世を目指してくれ」


 そう言いながら、岑英は枝のような腕を伸ばし、趙武の手を握った。握った力は、思った以上に強かった。


「頼むぞ」


「はっ」



 趙武は部屋を後にした。趙武は、高貴で高潔な皇帝岑英を思う。前半生は、戦いに明け暮れ、大岑帝国の領土拡大に貢献し、最後は病に苦しんだが、微塵の暗さも見せなかった。皆が頼りにし、したう理由もわかったような気がした。


 しかし、理想家過ぎたのだろうとも考えた。岑職、岑瞬がこの国を治める器量は無いなどと。これだけ広大な国を治めるのに一人で出来るわけが無い。皆で協力して治めるしかないのではないかと。だが、


「そうか。優秀な人間が集まるかも器量なのかな?」


 そう考えてみたら、自分は恵まれていると趙武は思った。





 その後、数日も誰かしらが呼ばれているようだった。趙武は、再び書物の世界に埋没した。



 さらに数日過ぎたある夜だった。趙武は、突然叩き起こされる。趙武は、慌てて着替えると、岑英の寝室に走った。同じように走っている人達が数名いた。


 岑英の寝室に入る、そこでは、むせ返るほどの香が焚かれる中、岑英の周囲を人々が取り囲んでいた。趙武が、その人の輪に入り周囲を見回す。居たのは、趙武と同じく大将軍達。そして、高位の文官である、岑英に代わり政務を代行していた宰相さいしょう。本来の文官最高位である丞相じょうしょう。副丞相であり、皇帝の側近の筆頭でもある御史太夫ぎょしだいふ。軍務担当の大臣である太尉たいい。そして、皇帝の側近として皇城で身の回りの世話や、取次等を行う官吏、侍中じちゅうであった。


 さらには、岑英の口に耳を寄せ何やら聞いている皇妃様、その後ろで暴れる誰かを取り囲み静かにさせようとしている女官達がおり。その脇には静かに佇む、岑平もいた。



「何ですか? 陛下? えっ、えっ?」


 静かな部屋に皇妃様の声だけが、響く。


「陛下! 何ですか? 陛下!」


 すると、皇妃様とは反対側で、おそらく岑英の脈をとっていたのであろうか、侍医とその助手が立ち上がり、


「皇妃様、もう」


 そう言って、静かに首を横に振った。


 そして、侍医は、静かに告げた。


「大岑帝国皇帝岑英様崩御されました」



 その瞬間、皇妃様は岑英の上に身を投げ出し、しがみつくように泣き始めた。さらに、周囲からも、すすり泣く声があがり、それが慟哭になっていった。


 趙武も、悲しかったが泣くことは出来ず、只々ただただ岑英の亡骸なきがらを見つめた。数日前に会った時は、意志を持ち、話しかけてくれた岑英は、今は、何も言わない。人の死とは何ともはかなく、虚しいものであろう。


 趙武は、その時、自分の身の回りの人が、亡くなった時の事を考えた。瀨李姉綾、呂亜、雷厳、至恩、龍雲、陵乾、會清等。すると、とても悲しい気持ちになり、涙があふれ、泣き始めてしまった。


 すると、同じく慟哭していた凱炎が、趙武の肩を抱いてきた。趙武は、少し気持ち悪いと思ったが、凱炎が励まそうという気持ちなのだろうと思い。されるがままにした。趙武と凱炎は、お互い肩を抱き合い泣きあった。


 こうして、大岑帝国皇帝岑英は、死んだのだった。皇紀236年、大陸歴878年の秋の事。享年48歳であった。





 翌日、趙武達は、自室に戻ったが、葬儀はすでに、始まっていた。今頃、岑英の亡骸は綺麗に洗われ、死化粧が施されているのだろう。周囲では家族のみが残り、泣き叫ぶ。儀式とはいえ、大変だろうと趙武は、思った。



 そして、趙武はと言うと、皇宮の門は開かれていないので、外出は出来ないが、皇城内部を歩く事は、自由になったので、歩き回ろうとしたところで、呼び出された。大将軍達が集まり、食事をするそうだ。





 さて、どんな話題になるのか身構えた趙武だったが、始まったのは、岑英の思い出話だった。戦いに明け暮れた岑英、主に戦場での話題になった。長年共に戦った興魏が話の中心となった。



 若い時は、もっと過激で、戦いの準備が整っていないのに、思いついたら出撃してしまい、慌てて興魏達が後を追い。それが、逆に、完全な奇襲になって相手を破った話や、こちらが攻められているのに、岑英は敵の王都に攻め込み陥落させた話等、とても興味深い話だった。



 そして、徐々に王正が、呂鵬が、凱炎が話に加わって話は、どんどん盛り上がっていった。


 聞くばかりの趙武、廷黒、条朱であった。それぞれが、実際体験した事はない話であったが、懐かしい気持ちになり聞き入っていた。ただ一人、岑瞬だけが、何か他の事を考えているのか、兄弟としての思い出を話すわけでもなく、心ここに非ずという感じであった。



 昼前に始まった食事会は、夕刻近くまで及んでいた。最後の方で、ようやく趙武の記憶にある戦いが出てきた。後の世では第一次如親王国攻略戦と呼ばれた、帝国による泉水攻略戦であった。話を聞きながら趙武は、



「そう言えば、陛下が最後に戦場に立たれた戦いだったんですよね。僕には初陣だったんですけど」


 すると、凱炎が思い出すように、視線を斜め上方に送りながら応える。


「そうだったな。うん。趙武は初陣だったか。それで、耀勝の策を読んで、陛下が絶賛していらしゃったな〜」


「読んだは、大袈裟ですよ。ですが、陛下に褒められたのは、嬉しかったですね」


「そうだったか? 嬉しそうには見えなかったが……。だが、あそこから始まったのだな、趙武の伝説が、ハハハハ」


「何ですか伝説って」


 趙武が、そう答えると、周囲からも笑いが起こる。



 こうして、食事会は楽しい雰囲気のまま、終了した。





 翌日になると、趙武達は翌日から本格的に始まる葬儀にそなえて、身を清め、全身白という喪服の、白装束しろしょうぞくに着替えると、後は葬儀の準備を手伝った。


 まあほとんどは専門職の官吏が行うので、仕事はほぼ無かったが、人手が足りない力仕事等を、積極的に手伝っていた。実際は、退屈していたからなのだが、周辺からは大変感謝されていた。



 その頃、岑英の遺骸は、赤い絹の衣を着せられた後、金縷玉衣きんるぎょくいを着せられていた。その周囲では、相変わらず親族が泣き叫ぶ儀式が行われていた。だが、この頃には、代役である女官達が交代しながら行っていた。


 で、金縷玉衣とは何かというと、玉片つまり、貴重な光沢のある石を、方形に削った物に穴を開けて、それを金の撚糸ねんしで、つづり合せた物である。それで、全身を覆う。何とも贅沢なものであろう。



 そして、その翌日、金縷玉衣を着た、岑英の遺骸は、玉座の間に運ばれて、趙武達が泣き叫び見守る中、ひつぎに納められることになる。いよいよ公式に、葬儀が始まるのだ。





 翌日早朝、皇宮の門が開けられ、公に大岑帝国皇帝岑英の死が公表され、早馬に乗った使者達が、各地に飛ぶ。もちろん、大京に住む武官、文官、兵士、そして、民達にも知らされることになった。街中で、泣き叫ぶ声が響いた。





 趙武達は白装束で、玉座の間に集まった。すると、金縷玉衣に包まれた岑英の遺骸が、六人の男達に担がれて、運び込まれてくる。自然と泣き声が響く、趙武も儀式であるので、大声で泣き声をあげる。途中からは、泣く役目の官吏が行う事になるだろう。



 趙武達が泣き叫ぶ中、岑英の遺骸は、柩に納められていく、柩は、三重になっていて、木製であり、それぞれにうるしが塗られ装飾が施されていた。特に、一番外側の柩には、太陽や、月、龍や虎の彫り物がされて、朱色に塗られとても鮮やかなものだった。



 喪主である、皇妃様が見守る中、岑英の遺骸は内側の柩に納められる。そして、蓋が閉められ釘が打ちつけられる。すると、部屋に響く泣き声が大きくなった。さらに、柩は一回り大きい柩に納められ再び蓋が閉じられ釘が打たれる、そして、最後に、一番外側の柩に納められる。外側の柩と、その内側の柩の間には、大きな隙間があり、そこに参列者達の手によって、岑英の愛用品が納められていく。剣、鎧、馬具、衣服など。



 そして、最後に外側の柩の蓋が閉じられ釘が打たれると、宰相の斎真サイシンが進み出て、岑英の偉業を弔事ちょうじとして話す。それで、葬儀の一日目は終わりとなった。





 その頃、遠く如親王国では、自分の邸宅にて耀勝が月明かりの下、一人酒を飲んでいた。扉の開いた窓際に座り、右手にははいを、左手には風になびく書状が握られていた。耀勝は、書状の文字を目で追う。


「巨星墜つですか」



 岑英が死んだ事は、今朝皇宮の門が開かれ、通行が可能になり、公表されたばかりである。遠い如親王国には未だ、早馬は到着していなかったが、耀勝は、すでに岑英の死を知らされているようだった。



「あなたにとっての終わりは、我々にとっての始まりでもあるんですが」


 そう言うと、耀勝は窓際に置かれたもう一つの盃に、自分の盃をあわせ、


「まあしばらくは、故人を偲ぶとしましょう」


 そう言いながら、窓の外の満月を見上げた。

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