キンモクセイの香り
@fantasista7701
キンモクセイの香り
東京。高田馬場・・・。
JR高田馬場駅を降りて早稲田通りをしばらく歩き、いつも赤信号の交差点で少し待つ。
いつも通りにイライラしながら青になると足早に横断歩道を渡って路地に入る。
すると、3階建ての古びれたアパートがあり、2階へと階段を上り右へ曲がって奥の角部屋へと向かうと、これまた古びれた扉が無機質に待ち構えている。
それが、僕の家だ。
「ただいま」
僕は激務に疲れてへとへとでため息まじりにつぶやく。
「ただいま」
返事がない・・・それもそのはずだ。
この家には僕しか住んでいない。
僕は38歳。高校卒業してから上京し、大学を出て今の会社にいる。27歳の時に大学時代の同級生と結婚し、10歳になるわんぱく盛りのかわいい息子がいる。
しかし、今はその愛する妻もかわいい息子もいない。妻と一緒になって生涯の愛を誓ったとき・・・。幸せでいっぱいになった。かけがえのない息子が生まれて父となったとき・・・。幸せが絶頂となった。
しかし、それ以降、妻とは目を合わす度に言い合いとなりケンカとなった。
僕が仕事が遅く、帰ってすぐに語り合うこともなく寝てしまうこと。
息子の子育てや今後の教育に関する考えに隔たりが大いにあること。
色んなことがケンカのネタとなった。
その気持ちのすれ違いが、いつの間にか僕と妻の気持ちを遠ざけてしまったらしい。
また、息子もそんな僕たち2人のことを察してか、いつも悪者の僕を避けるようになったらしい。
家に帰っても居づらくて仕方がない・・・。
楽しい会話のある母と子の空間に仕事から疲れた僕が帰るとすぐ静寂に変わる。
いっそ家を出てみようか・・・。
そう思ったのはちょうど半年前。
仕事の途中でふと立ち寄った不動産屋さんに入ったのがきっかけだった。職場に近くて家賃が安く、それでいてできるだけ静かな住宅街。そうして決まったのが(厳密に言うと、たった1時間くらいで決めた)、今の僕の家だ。
決まってからの僕の行動は早かった。
妻と話をし、息子と話をし、半ば強引にあっさりと出る日を決めて家を出た。
まるで現実でないどこかへ逃げるように・・・。
「おかえり」
僕は家の扉と同じく無機質にそう独り言を言う。僕は毎日そう言うようにしている。そうすると、誰もいないひとりぼっちの家でも少しは気が楽になるものだ(多分そう思うのは僕だけだと思うけど)。
2DKにしては割と安い家賃。都心では考えられない安さから最初は不安だったけど、住んでみるとこれがまたなかなか住みやすい。
僕はスーツをいつものようにその場に脱ぎ捨て、駅前のスーパーで買ってきていた缶ビールと割引シールの貼ってある(いつも半額のものしか買わない)お惣菜をビニール袋から取り出してテーブルに並べ、テレビをつける。節操のない下品な芸人が下品な芸を披露しているのを冷ややかに見ながら冷たい缶ビールをプシューッと開け、割り箸を手に半額の唐揚げとひじきの煮物、ほうれん草の煮浸しを自分のペースで食べる(最近、少し健康を気にしている)。
テレビはCMへと切り替わり、コンビニのおでん全品70円セールのCMが目に飛び込んでくる。そうか、そう言えばもうそんな季節か。あれだけ暑かった今年の夏も気がつけば秋になっていた。
38歳になる今年。
窮屈だった冷たい家庭環境から脱出しやっと自由を手に入れた。しかし、家を出てから4ヶ月。夏から秋へと移りゆくにつれて僕はだんだんと淋しくなっていくのが分かった。
いやいや、それでも僕は出たくてあの家から出たんだ。今さら戻るわけにもいかない。
そうしたジレンマを紛らわそうと「ああ・・・おでんが食べたいな・・・」そう僕はひとり言を敢えて大きめの声で言った。
虫の声があちこちで聞こえ出す金曜日の秋の夜長。明日が仕事が休みだと缶ビールの本数もいつもより2本増し。淋しさ紛れにさらにもう2本増し。気がつけばテーブルの上にビールの空き缶がずらっと並ぶ。もう何本飲んだか分からない・・・うとうととまどろんでしまった。
目が覚めた頃には、外はもう明るくなっていた。外から涼しい風が吹き込んでいて白いレースのカーテンがひらひらと舞っている。僕は体を起こし風上に目をやると外の窓が開いていることにふと気づいた。
いかんいかん。
男の一人暮らしとはいえ、ここは都心だ。厄介なものに遭うのも嫌だしな・・・。昨晩の深酒が抜けず、鉛のように重い身体を持ち上げるように起こしベランダへとつながる窓の網戸を閉めようとした。
僕はそのとき、足元に何かを見つけた。何故かとても気になって眠たい目をこすりこすりよく見ると、紙ヒコーキが落ちていたのだ。
・・・なんだよ。誰だ?イタズラか?
僕はこの紙ヒコーキがどうやら外からのものだろうと確信すると(確信しなくても至極当然だ)、また網戸を開いて、ベランダから顔を出して下の道路を見下ろす。そこには当然誰もいるはずもない。
やれやれ。ここにはそんなイタズラをする者がいるのか・・・
大きくため息をつきながら僕は紙ヒコーキを手に取りゴミ箱へ向けて飛ばしてみた。
その紙ヒコーキはゆっくりとなめらかに僕の狭い部屋を飛行し、ゆっくりと速度を落としながら高度を下げ、見事に目的地であるゴミ箱へと吸い込まれていったのだ。
しかし、イタズラにしてはよく出来た紙ヒコーキだな。僕は少し紙ヒコーキ作りが得意だった小さい頃を思い出し笑みを噛み殺しながら、もう一度ゴミ箱からその紙ヒコーキを取り出した。その紙ヒコーキは光沢紙でできていて、よく見るとどうやらB5サイズの広告のチラシのようだった。
何故か気になって紙ヒコーキを分解して開いてみると・・・
『早稲田通り奥の隠れ家的居酒屋「秋の香り」でいち早く秋を感じませんか?』と書いてあった。
よく見ると僕の家からすぐ近くにあるではないか。
そしてさらに『涼しくなったから「おでん」はじめましたよ〜!安くておいしいよ!!』と大きく書いてある。
ちょうどいいじゃないか。
昨日あれだけおいしそうなコンビニのおでんを液晶テレビを通して見せつけられてから、頭の中もさらには夢の中でさえもおでんのことでいっぱいだったのだから・・・
さっそく今晩行ってみようかな。
時計を見ると、午後4時半(もうこんな時間・・・そんなに寝ていたのか!?)だったので、もう一度チラシを見てみると営業時間はは午後5時から午後12時(ちなみに水曜日休み)とある。
ちょうどいいじゃないか。
夕方から飲みはじめても閉店が早いから深酒することもないだろうし(それにしても、迎え酒になってしまうのが少々気がかりだが・・・)。
僕はシャワーを浴び、適当でカジュアルな服装に着替え外に出た。
夕焼けが空を赤く染め、黒々とした大きなカラスがカーカーと鳴く。町内スピーカーから子供達へ帰宅するようにと「ゆうやけこやけ」が流れ、まるで息子のような子供たちが足早にそれぞれの家へと戻っていく。
僕の家から歩いて5分ぐらいだろうか。道でいうと3本ほど奥に入ったところに小さな建物があり、下へ降りていく階段の手前に『秋の香り』というまさにお目当てのお店の看板が見えた。階段を下って古びた木の少し重い扉を開けると、一人着物を着た女性がカウンターの中に立ってこちらを見ていた。
「あら。いらっしゃい」
年の頃・・・おそらく僕の母親くらいの年代だろうか(60代前半くらい)。長めの髪を後ろでまとめ、淡いピンクの口紅を引き薄めの化粧で品のある女性だった。
「あら、お客さん、はじめてね?どうぞ。こちらに座って」
僕は促されるようにカウンターの中央に座った。
おしぼりを手にしながら辺りを見回す。薄暗い店舗でカウンターの前には、女店主が作ったのであろうさまざまな料理がいくつも並んでいる。肉や野菜、魚など、また煮物から焼き物、揚げ物までバリエーションは豊かだ。
「おビールでよろしいかしら?」
「あ、はい・・・お願いします」
あまりの上品さに多少緊張しながらビールを注文する。 女主人にビールを注いでもらい一口渇いたのどを湿らせた。
「あの・・・おでんってあるんですか?」僕は女店主に聞いた。
「あら、チラシを見てくれたんですね。ありますよ」女店主は笑ってそう答えた。
「何かお好きなものありますか?」を聞かれたので、思い思いのおでんの具材を注文した。
まずは大根、こんにゃく、そして卵・・・巾着もいいな。すじ肉もはずせない。
そう思っていると何やら懐かしい記憶が脳裏をよぎった。
そうだな・・・あいつも僕と一緒でおでん好きだったよな。
ふと、大根とこんにゃくが大好きだった息子の満面の笑みでおでんの具材をほおばる顔を思い出してしまった。あの頃は楽しかった。それはもうケンカばかりでイヤだったときもあったけど、そういうときに限って妻がおでんを作ってくれたんだよな。
ふと物思いにふけっていると「どうしたんですか?」と女店主は微笑んでこちらを伺う。
「ああ・・・すみません。おでん、とってもおいしいです」僕はあわてて平静を装う。
その後も僕はおいしいおでんを食べながら女店主と楽しい話をし、ビールを飲んで少し酔ってきたようだ。ただ、過去の思い出は頭の中にこびりついたままだった。
お酒も進んできたところで「お客さん、実はオススメのお酒があるんです」と女店主は僕に話を持ちかけてきた。
「それはどんなお酒なんです?」と僕がおもむろに聞くと「はい。桂花陳酒のいいのが入りましたので、お客さんに飲んでもらいたくて。意外とおでんにも合うんですよ。一杯はサービスしますから」と女店主は優しい笑顔で言う。
「桂花陳酒・・・」僕はふと妻のことを思い出した。
新婚当初、僕は妻とよく晩酌を楽しんだものだった。ビール派の僕は当然終始ビールを楽しんだけど、妻は甘めの桂花陳酒をよく飲んだ。「桂花陳酒なんて、そんな甘ったるいのよく飲んでられるよな」と僕は冷やかしたが、「いいの。これ飲むと何だか落ち着くんだから」とほろ酔い加減で僕に言ったものだ。僕はその姿がいとおしかったんだけどな。
いつの間にかこうなってしまったんだな・・・。
「じ、じゃあ、その桂花陳酒ください」
女店主が言うから断る理由もない。
きれいなしゃれたグラスに薄黄色の桂花陳酒が注ぎ込まれ、カウンター越しに僕のところに置かれた。
こんな甘ったるい酒なんて・・・まあいい。
一杯サービスだから飲んでやるか。
コップを掲げスッと桂花陳酒を流しこんだ・・・。
こ、これはうまい。
確かに甘いがすっきりとしていて、しつこさがない。これはとてもおいしい!
香りのよさと新たな感覚に胸が驚いた。妻が好むのもこのためだったのか。
「ねえ。桂花陳酒はどんなお酒かお客さん知ってます?」女店主が僕に尋ねる。
「いえ、全く・・・」今まで興味すらもなかったので当然だ。
「これは白ワインにキンモクセイを3年以上漬け込んで作ったものなんです。その昔、あの楊貴妃が非常に好んで飲んだお酒としても知られているんですよ」
「へえ。キンモクセイですか」僕は驚いた。
「このお酒は結構女性に人気がありますよ。ちなみにお客さん、キンモクセイの花言葉って知っています?」女店主は続ける。
「さあ・・・何でしょうね?」花なんて今まで興味すらもなかったので、こちらも当然。
「いくつかあるんですけどね・・・まあ、言うなれば・・・」
「言うなれば・・・?」
「『思い出の輝き』がひとつ目」
「へえ」
「『変わらぬ魅力』がふたつ目」
「そうなんですか」
感情豊かに説明する女店主とは裏腹に僕は無機質にただ相槌を繰り返す。
「そして・・・」女店主がさらに花言葉を言おうとしたらガラガラガラと重い木の扉が開く音がした。
「あら・・・いらっしゃい」どうやらお客さんが来たらしい。
キンモクセイの花言葉が他にもあるのかとスマホを取り出し検索サイトを開きつつ入口に目をやった。
刹那、時間が止まったように感じた。
「み・・・美希」僕は一瞬目を疑った・・・
「和也さん・・・。」
見間違えか?いや、違う・・・まさしく僕の妻がそこに立っていたのだ。
しばしの沈黙が漂い、お互いに凍りつきそうになったが、妻が笑顔で切り出した。
「隣いい?」「え、いいよ・・・」
僕はとっさに返答すると、妻は「ありがとう。さ、吉哉。入って・・・」と言って後ろを向いた。
妻は息子を連れて来たのだ。単なる偶然なのか?
「あ、パパ・・・。」久々に会う息子は僕を見つけると少しベソをかいていた。
「吉哉、久しぶりだな」僕は駆け寄ってきた息子をしっかりと抱きしめた。
しかし、何が何だかわからない。
妻は座ると迷うことなく桂花陳酒を頼み、息子も迷うことなくコーラを頼んだ。
状況がつかめないまま、親子3人久々に並んで一緒にご飯を食べている。
最初はお互いにギクシャクしていたが、しばらくすると会話が弾んでくる。
息子の学校のこと、習い事のこと、妻の仕事のこと、家庭でのこと、僕のこと・・・
色々話すと久々楽しかった。
楽しかったひと時もあっという間に終わろうとした。
「また会おう」と僕は妻と息子に言った。
「パパ、今度はウチに帰ってきてね」息子が言う「・・・そうだね。そうしようね」
息子が続ける。
「パパ、今度ウチに帰ったら紙ヒコーキで競争しようよ!ボク、パパによく飛べる紙ヒコーキの作り方を教えてもらってから練習して遠くに飛ばせるようになったんだよ!?」
「へえ、そうなんだ。それは楽しみだ!」
「え?でもさ、今日のパパの・・・。」と息子が何か言おうとすると妻が息子の言葉を遮るように「さ、帰りましょ!和也さん、今日はありがとう。本当に今度はウチに来てね!」と言いその場を後にした。
僕は妻と息子が見えなくなるまで店の前で見ていた。
息子は何度も何度も振り返っては手を振ってくれた。
2人が見えなくなって、我に返ると、横には女店主が笑顔で立っていた。
「あ、それで、キンモクセイの花言葉・・・他に何があるんですか?」
僕はとっさに聞いてみた。
「ん〜それは『初恋』よ。奥さん、その気持ちを忘れていないんじゃないかな」
「なるほど・・・。」
僕は女店主の言葉に分かったような返事をした。
「おでん」「紙ヒコーキ」「キンモクセイ」
単なる偶然か・・・。
単なる偶然だね・・・。
秋にしてはかぐわしい香りがして、なんだか気持ちが和むなぁと思ったら、それもそのはずだった。
暗い静かな夜の居酒屋さんの横には、なんときれいなキンモクセイがオレンジ色に輝いていた。
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