閑話 神様と呼ばれた男

大学受験の失敗、それがその男にとっての転落の始まりであった。

 それまで学校の成績は優秀で常に首位争いを繰り返し、高校でも“絶対に合格間違いなし”と太鼓判を押されたくらいであったのに……。


 周囲にとっても、そして何よりも自分にとっても予想外な事に……男は大学を不合格になった。

 それはこれまでの人生で失敗らしい失敗をせずに済んでいた男にとって初めての挫折。

 男は自分が打たれ弱いという事をこの時に初めて知ったくらいで……そのまま立ち直る事をしない男はすべての事を放棄してしまった。


「全てを失った……存在価値もアイデンティティも……俺は生きてる価値もねーんだ」


 そんな事を口にして勉強もせず、働くワケでも無く自暴自棄になって引きこもる男に最初のうちは労い、助けになろうとしてくれていた教師や友人たちも次第に離れて行った。

 そして時には優しく、時には殴り合いになっても何とか男を立ち直らせようと長年頑張って来た両親だったが……。

 先日、男が30歳になった日。

 家の中が妙に静かだと思って2階から降りると、今のテーブルに一枚の書置きと共に幾らかの現金が置かれていた。




『貴方も今日で30になるが、私たちの力では貴方を立ち直らせる事は出来ませんでした。


 家族で相談した結果、貴方にこの家を上げますので今日から一人で暮らしてください。


 当面の生活費は置いて行きますので、それを元手に働き口を探してください。


 体には気を付けて。

                                    母より』



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「チッ、クソマズいピザだな……もういらねぇや」


 一切れだけ口にして放り投げた出前のピザが、今のテーブルの“ゴミ溜め”の上に重なった。

 強制的に始まった男にとって初めての一人暮らし。

 だが住む場所は変わっていないと言うのに男は何もかもが今までと違う事に今更戸惑う事になっていた。


 今までは何もしなくても片付いていた部屋が見る間にゴミで散らかり、何もしなくても洗われ畳まれていた洗濯物がドンドン溜まっていく……。

 当たり前だ、男は家の事を何一つやった事が無かったのだから、掃除しなければ汚れるし、ゴミも出さなければ溜まっていく。

 今まで“当たり前だ”と思っていた事をやってくれていた人がいたのだという事をこの期に及んでようやく理解し……そして実感する事になった。


「ああ……俺は本当に全部失ったんだ…………」


 怒りも悲しみも湧いてこない男は、たった一人になってしまった見慣れた家が散らかって行く様を呆然と見つめて呟いていた。 


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                  ・


 それは男が一人暮らしを始めてから一週間はたった頃。

 この期に及んでも家から出る事をせず、2階の自室でネトゲをしていた男は不意に下の居間から物音がするのに気が付いた。


『もしかしたら両親が帰って来たのか!?』


 しかし僅かにそんな甘えた事を思い浮かべて居間へと降りた男が目にしたのは……泥だらけでボロキレにしか見えない服を着て、昨日出前で取ったのに一切れで食うのを止めて捨てるつもりだったピザを一心不乱に貪る男の子だった。


「ごご、ごめんなさい!! 勝手に食っちゃって……ずっと何も食ってなくてひもじくて……我慢できなくて…………」

「あ?」

「つ、つぐないは……なんでも……は、働いて……」

「…………」


 そんな事を口走る子供に男がまず感じたのはどす黒い優越感、何もかも失った底辺の自分に頭を下げている……自分よりも下の人間に対する優越感だった。


「ふん……そんな食い残し、幾らでも食えば良いけど?」

「……え?」

「ま、何でもって言うなら部屋のかたずけでもしてくれよ。簡単な飯くらい出してやるからよ」

「……え? 仕事をくれる……んですか? それに飯も??」


 それが卑しく心の狭いゲスな考えである事は男も理解していたのだが、それでも男は思った……理由は分からないが、コイツは俺と同じ人種で、俺よりも下の人間なんだ……と。

“気まぐれにそんな哀れな同類を養ってやる”

 男はそんな狭量な想いを抱いていたのだった。


「貴方は…………神様……なんですか?」

「神様~~~~? 俺はまだやった事ね~な~」


 少年の言葉に男はいわゆる“神待ち”の家出少年なんだと思ったのだった。

 最初のうちは……だが。




 その少年は現代の日本において不思議になるほど常識や物を知らず、あらゆる事に対して質問し男を蔑みの目で見る事はなく事あるごとに尊敬のまなざしを向けて来た。


「すげぇ! 撫でるだけでゴミが吸い込まれて行く!! 何だよこの魔法は!?」

「箱に入れるだけで俺みたいな子供でも少しの時間で洗濯できるのか!?」

「ゴミ運びは任せてよ! このくらいなら俺でも出来るからさ!」


 そんな男の子の眼差しを受ける度に男の胸は痛みを覚えた。

 簡単な片付けだけで食わせてもらうのは悪いからと、その子は掃除や洗濯までやると言い出した。

 その簡単な片付けすらしていなかった男だったのに、教えて欲しいと言われて機械の使い方を教える内に……つたないながらも掃除だって洗濯だって自分にもできた事に愕然となる。


 ただやろうとしなかった……それだけの事だった事に……。


 そして、余りに常識的な事、その年なら知っているハズの簡単な計算すら知らない少年に男が何気なく「親に教わらなかったのか?」と聞くと……その返答に愕然となった。


「親? もういないよ……数か月前に二人とも死んじゃったし……」

「勉強って……あんなのは金のあるヤツしか出来ないじゃん」


 最初は気を引く為のガキなりのウソかと男は思おうとした。


 10歳そこそこにしか見えない子供なのに親の仕事を毎日手伝い、金が無い事で学校などにも言った事が無い。

 そして数か月前、突然押し入って来た強盗に家族全員が殺されたなど……内容が余りにリアリティが無い。

 そんな事件があったなら速攻でウェブニュースになっているハズなのだから……。


 しかしそれにしてはその少年は余りにモノを知らず、自分が提供する即席の食事を大絶賛しながら食らいつき、そして家出少年にありがちな親の悪口など欠片も湧いてこない。

 共に過ごす時間が多くなればなるほど、男は確信を持って行った。

 コイツの話している事は事実なのだ……と。

 理由が死別なのか、それとも捨てられたのかは分からないが……この少年は本当にすべての物を失った人間なのだという事を。


 男は少年を自分と同じ人種だと思っていた。

 しかし本当に全てを失った少年を前にして人生最大の羞恥心を胸に確信せざるを得ない事があった。


『俺は……何一つ失っていない…………』


 両親に見捨てられた?

 死別したワケじゃないし、家どころか当面の生活費すら残して行ったのに?


 自分に価値が無い?

 少年は男に言った言葉は『仕事をくれるのか?』だった。

 年齢のせいでまともに働く事は出来ない少年が『仕事をくれてありがとう』と言った。

 出来る年齢なのに仕事もせず、何もしようとしなかった男に尊敬の眼差して……。


 誰もが自分の事を蔑みの眼差しを向けて来たと言うのに、突然現れた少年は男の事を常に尊敬し、感謝し、まるで神様を崇めるかのように接してきた。


 体調不良でも無いのに食い物を粗末にしていた自分に……働ける年齢であるのに言い訳して何もしなかった自分に……しっかりと学習する機会に恵まれ、基礎学力を当然のように習得しているのに何もしていない自分に……しっかりと両親がしっかり存命なのに“失った”など何処までも甘えた考えを持つ自分に。

 本当の本当に全てを失った少年に対して優越感を持っていた、どこまでも恥知らずの尊敬など抱かれる資格も無い自分に……。

 しかし少年は幾ら自分が立派な人間ではない、こんな事は誰でも出来ると言っても謙遜とでも思っているのか尊敬のまなざしを向ける事を止めなかった。



「……なあ、分からないなら簡単な算数くらい教えてやろうか?」


 それは男の心の底に残っていたプライドの欠片が言わせたのか、それとも人生で初めて何か力になってやりたいという義侠心だったのか……。

 はたまた“こんな自分を神様と言ってくれたガキに幻滅されたくない”という悲痛な欲求だったのか……。

 引きこもり、自分から動く事をしようとしなかった男は本当に何もかもを失った少年に気が付くとそんな事を口走っていた。


「え……ええ!? 良いんですか!! 本当に教えてくれんの!?」


 それから奇妙な共同生活は始まった。

 料理以外の家事を少年がやる対価として簡単な勉強を教える……不思議な事に言葉が通じるのに少年は読み書きが全く出来ず、教科によっては難攻したのだがアラビア数字を覚えてからは目に見えて覚えが早くなっていく。

 初めて経験する勉学が、新たに知識を得る事が快感なのか、乾いた地面に水が吸い込んでいくかのように少年は数日の間に算数であれば小学生レベルはすぐにクリア。

 さらに比例して理科系の勉強も順調に覚えて行って、特に興味を示したのが気体、液体、固体とか微生物などに関する自然科学。

 今まで目の前にあった常識の仕組みを知った少年の「そうだったんだ!」という驚きの表情が、いつしか男にとっても快感になっていたのだ。


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                  ・


 共同生活を始めてから一週間はたった頃……BSの再放送でとあるアニメが流れていた。

 それは毎日決まった時間に放送される枠で、全24話のアニメを見れば単純に24日かかるのだが……そんなアニメに件の少年が不思議な程食いついたのだった。

 男は一度そのアニメを見た事があって最終回までの結果を知っていたのだが、折角ハマったのならネタバレは無粋と思い内容については何も言わなかった。


「悪人の末路ってのは、どんなストーリーでも同じでつまんねーよなー」


 ただ男がありきたりな雑魚敵が主人公に真っ二つにされたシーンでボソッと言った時、少年が妙なほど顔を青くしていたのが印象的であった。


 放映当時アニメの内容はシンプルな“召喚勇者チートハーレム物”として認識されていたのだが、このアニメは昨今の流行りを逆手にとったのか徐々に認識を覆されて行く。

 その理由は主人公は強くあらゆる種類の美少女が大勢出てくると言うのに、絶対に最後まで手を出す事が無いのだ。

 キスは勿論の事、ラッキースケベでさえも“本人が”全力で回避する為に単なる事故として処理される始末。

 その理由は主人公には日本に残してきた彼女がいて、その彼女に操を捧げているからなのだが……当初イチャイチャハーレム展開を期待していた諸兄の方々には反感があったのだが、回を増すごとに侮蔑の意味を一切込めない尊称として主人公はこういわれた。


『童貞勇者』と…………。


 その勇者の最期は悲惨なもので、魔王と相打ちになって命を落としてしまうのだ。

 死に際にまで彼女の名を呼ぶ勇者に最後の最後まで想いが実らなかった聖女により、涙ながらにせめて遺体だけでも現代に送還する最終回はネット界隈で『なぜ殺した!』『遺体を彼女に送り付けるなんて鬼か!』など大論争となったくらい。


 最終回を見終わった少年は複雑な表情になってエンドロールが流れるテレビを見つめていた。

 何だかんだと正義感に溢れ一途な主人公は人気が高く、男性だけじゃなく女性人気も高かったゆえに、どうしても見終わった後には『アイツには幸せになって欲しかった』というシコリが残ってしまうのだった。


「召喚なんてなければアイツも晴れてケガれる事が出来たのにな~。勇者伝説何かが無ければ今頃彼女とよろしくやって……」


 まるで自分の事のように暗い顔になった少年に男は励ますつもりで軽くそんな事を口走っていた。




 そしてその翌日……件の少年は唐突に姿を消した。

 余りにも突然の出来事で男は心配して、あれ程出る事を躊躇っていた家を飛び出して探し回り、最終的には警察にまで行ったのだが……少年の消息は全く分からなかった。

 周辺の防犯カメラなどにもそんな少年が存在していた映像も無く、近所でも男が引きこもりであった事は知られていたので“質の悪い妄想”と片付けられて……男は再び一人になった部屋を見つめる事しか出来なかった。


「アイツは……何者だったんだろう?」


 男は一か月前とは違ってスッカリ片付いた家の中を見つめながら呆然と呟いていた。

 確かにあの少年がいたのは事実、誰が何と言おうと男だけは知っていた。

 自分だけで家を片付ける事などしないし、何より人に勉強を教えるなんて事をするワケがない。

 テーブルに残された少年が計算の為に使ったノートの汚い字が何よりの証拠だ。

 自分を蔑み、憐れむ事であらゆる事から目を逸らし逃げて来た男を『神様』だなんて言っていた少年…………男はその笑顔を思い出して奥歯を噛み締めた。


「あのガキの前では神様でいなきゃならねぇ…………めんどくせえな……くそ!」

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