第3話 国文学と、心理学。
心理学部棟と文学部棟は近い。距離にしてざっと六〇〇メートルほど。もっともこれは直線距離で、実際は曲がりくねった通路や階段もあるのでもう少し歩くかもしれないが。
多摩の丘陵地帯に建てられた本学は段差も坂道も多い。入り組んだ道も多い。同じ学内の移動でも、時間がかかる場合もある。
三〇年か四〇年くらい前に、モノレールの駅が乗り入れてからかなり便利になったそうだが、それまでは最寄りの駅からバスで移動しないと入っていくことができないほどの山奥に本学はあった。登山。通学のことをそう呼ぶ人もいる。
〈午後三時頃、行ってみろ。君の講義は確か二時四〇分に終わったよな? 多少早く着いても問題はない〉
名木橋はメールにそう追記していた。時間指定あり? ますます僕には分からなかった。
二度目の社会心理学の講義の後。
僕は文学部棟を目指した。僕の講義の履修者は心理学部が六割、文学部が二割、法学部と商学部、経済学部が残りの二割を均等に分けている感じだ。
つまり文学部は全く関係のない学部ではなく、むしろ得意先の一つくらいに思っていた。学生の生活を覗き見ることで得られる教育上の知見も多い。観察のし甲斐もあるというものだ。僕は文学部棟に着くと、学部事務室や掲示板の類を見て回った。
学部事務室では、学生の履修相談をする事務員などを見た。熱心に相談に乗っている。いいことだ。掲示板には、サークルの勧誘ポスター、図書館や美術館のイベント告知などが貼りだされていた。文学部からは教師になる人が多いのか、教職課程専用の担当口なるものが事務室脇にあった。心理学部にはない施設だ。
次に、エレベーターホールに行き、フロアガイドを見る。
一階には講義室が集中しているようだ……語学などで使うのだろうか……。二階から研究室になる。まず英文学科。次に三階、独文学科。四階、仏文学科。という感じで上に行き……僕の目的地である八階は、どうやら国文学科の領域のようだ。
国文学と、心理学?
疑問符が浮かんだ。名木橋の奴が言うことだから、多分何かしら僕の研究論文に役立つことではあるんだろうけど……正直、話が見えてこなかった。
エレベーターで八階に向かう。ボロいエレベーター。時々揺れる。大丈夫かよ、と思っているうちに八階に着いた。降りる。すぐ目の前に女子トイレがあった。左手に曲がる。長い廊下。
よく知らなかったのだが、国文学科にも様々な研究があるらしい。古今和歌集についての研究論文要旨が貼り出された研究室、明治時代の漢文についてのイベント告知ポスターを貼り出している研究室、色々あった。
僕が目指すのは六号室。
あった。「資料室」の表札がある。ノックする。
「おや?」
室員さんと思しき人が出てきた。白髪混じりの老人。六〇代くらいだろうか。腕の中には……何故か赤ちゃん。
「心理学部の者ですけれど……」
と、挨拶と自己紹介をしようとすると、室員さんっぽい老人は「ああ、ああ、心理学部のね」と一人分かったような顔になって部屋の中に引っ込んだ。しばし、僕は立ち尽くす。
「あれ、入らないの?」
開けっぱなしのドア。振り返って、そんなことを訊いてくる老人。僕はおどおどとしてから、「失礼します」と中に入った。
そこそこの広さの部屋……一〇〇畳くらいあるんじゃないだろうか……に、大量の本棚が置かれていた。可動式の、金属でできた本棚だ。ちょっとした迷路みたいになっている。壁が動く迷路。解くのに苦労しそうだ。
室員さんっぽいこの老人は、この部屋のどこに何があるのか全て把握しているのか? そんなことを思う。
「よしよし、よしよし」
老人は赤ちゃんをあやす。腕の中の赤子は、すごく小さかった。多分ちょっと大きな白菜くらい。生まれてまだ間もないのではないだろうか。
「よく眠るいい子だねぇ」
まぁ、赤ちゃんは寝るのが仕事だからな。しかしあんた何で赤ちゃんなんて抱いているんだ? 僕はそんなことを思う。
この室員さんっぽい老人が……あるいはその抱かれている赤ちゃんが……僕の研究に関係あるとでも言いたいのだろうか、名木橋の奴は。
一瞬、乳幼児心理学という言葉が頭に浮かぶ。赤ちゃんの認知能力や発達過程について学ぶ学問だ。心理学の領域ではあるものの、僕の専門じゃない。僕は首を傾げる。
「名木橋先生の紹介でしょ?」
室員さんと思しき老人が赤ん坊を抱きながら笑顔を向けてくる。人懐こい人なんだな。赤ちゃんは、お孫さんか何かだろうか?
っていうか、何で文学部の人間が名木橋を知っているんだ? 疑問ばかりが頭に浮かぶ。
「何故彼の名前を?」
とりあえず後に思いついた方を質問する。すると室員さんは赤ちゃんを揺すりながら答えた。
「よく来るからね」
名木橋の奴が文学部に? あいつ文学趣味なんてあったのか?
まぁ、読書家だからな。そう、一人納得する。それに僕より優秀なあいつのことだ。きっと専門外の研究の一つや二つ、抱えているのかもしれない。
「で、その名木橋先生の紹介で来たんでしょ?」
室員さんが確認するように首を傾げる。僕は答える。
「ええ、確かに名木橋の紹介で来たのですが……」
僕がその先を続ける前に、室員さんは笑って口を開いた。
「だったら、そこだよ」
室員さんは向こうの方を指さす。
壁に接した本棚と、本棚の間。
まるで非常口のような質素なドアが一つ、あった。表札には「近代文学」と書かれている。資料室の中に資料室? 特別な研究室か何かか? 僕は再び首を傾げる。
「それにしても、いい時間に来たねぇ」
室員さんが時計を見る。
「先生、午後四時までしか研究してないんだよ」
「先生? 午後四時まで?」
と、いうことは時短勤務? っていうか「先生」って誰だ? 疑問符ばかり浮かぶ。すると僕のそんな様子を悟ったのだろうか。室員さんが赤ちゃんを撫でながら笑うと、口を開いた。
「ほら、そこだよ、そこ。行ってごらん」
室員さんに示されるままに、僕はその本棚と本棚の間にある非常口みたいなドア……資料室か、特別研究室と思しきドアに……、向かう。ノック。
「はあい」
返事があった。女性の声。何と言ったらいいか分からなかったが、とりあえず「名木橋の紹介で来ました」とだけ告げた。すると非常口みたいなドアが小さく開かれた。
「こんにちは!」
中からは、やはり女性が出てきた。元気な様子。明るい表情だ。
この時の僕は知らない。彼女との出会いが、思わぬひらめきを生んでくれるということを。
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