第2話 同期との、再会。

 彼と再会したのは、僕が母校で初めての社会心理学の講義を終えた後だった。


「よう」


 どうやら彼は僕の講義を受けに来てくれたらしい。手にはタブレット。カバーをキーボード代わりにしてパソコンとしても使える代物だ。


 最初の講義なんてシラバスの確認だけだぞ。本領発揮は二回目からだ。そうは思ったものの、僕は彼に挨拶した。


「よう、名木橋」


 彼こそが、僕の同期にして二〇代で准教授になった稀有な例……非常に稀有な例……名木橋明だった。僕の記憶が確かなら、確か僕たちが二七の時。ちょうど博士課程に進んで三年が経った頃だったと思う。僕が最後に研究論文を書いた時だ。彼は師である緑川先生の推薦で准教授になれた。二〇代で准教授。異例中の異例だ。


 名木橋は、学部生時代から優秀だった。噂で聞いただけなので定かではないが、とある院生が学部生時代の名木橋の知能指数を測ったところ、規格外の数値を叩き出したのだそう。


 以来、名木橋の伝説は至るところから聞いた。三年時のグループ研究の論文を実質一人で書き上げただの、卒業論文を三本出しただの、卒業に必要な単位の二倍の単位を取って卒業しただの。


 僕たちの大学の心理学部は、アマゾネス改めタマゾネスで有名だった。優秀な女性が多かったのだ。女子九割に対し男子一割という比率も関係しているのかもしれない。そんなタマゾネスも、名木橋には一目置いていた。学部時代の名木橋がモテたことと言ったら……あ、それは今も同じかもしれない。


 一方で名木橋は、気の強い女に多少凝りている嫌いがあった。学部一年の頃はそれなりに浮いた話も聞いたが、二年になると鳴りを潜めた。噂によると、一年の当時付き合っていた同じ学部の先輩彼女に浮気されたらしい。以来、名木橋が心理学部の女と……特に気の強い女と……付き合うことはなかった。三年になる頃には名木橋は立派な女嫌いとして知られていた。


 彼は群れなかった。いつも孤高の存在だった。大体、大学生活で友達を一人も作らない人間というのは試験の過去問をもらえなかったり、楽な単位、通称ラクタンを教えてもらえずに履修選択に苦労したりと学生生活に苦戦するものだが、名木橋は例外だった。彼はまるで魚が泳ぐようにスイスイと課題やテストをクリアしていった。


 そんな彼は人と群れないでいつも何をしていたのかと言うと、一人で本を読んでいた。読書家だったのだ。それも大変な。


 名木橋と僕の交流が生まれたのは修士一年の時。僕らの代で院に進んだ人間は僕と名木橋しかいなかった。必然的に親交が深まる。学部時代は顔を合わせる程度だったのだが、院生に割り当てられる共同研究室が一緒だった。初めて名木橋が僕にかけた声は今でも覚えている。


「その研究、今すぐやめろ」


 確か、修士論文の研究計画を指導担当の教授に出す時だったと思う。僕が具体的にどんな研究を計画していたのか、は伏せるが……社会心理学の実験だとだけ言っておこう……、名木橋は僕の研究計画書をちらりと覗き見しただけでそう告げてきた。


「は? 何?」

 僕が返した言葉それだった。そりゃそうだ。自分の研究にいちゃもんをつけられて黙っている院生はいない。けれど名木橋は頑なだった。


「その研究は人を傷つけるだけじゃなく、君自身も傷つける」


 心理学は人を対象にする学問だ。人の内面に切り込んでいく。しかし時に、そのメスの切っ先は自分に向く。名木橋はそういうことが言いたかったようである。


 結果的に、僕はその研究計画を取り下げた。理由は同様に伏せる。僕と同じ失敗を、先人が既にしていた、という程度の説明に留めておこう。


 それ以来、名木橋は「定期観察だ」と称し僕の研究に顔を出すようになった。僕にとっては幸いだった。研究の成果を誰よりも優秀な名木橋に見てもらえる。彼のアドバイスは的確だった。


 修士論文の時も名木橋は僕にアドバイスをくれた。名木橋はいつも僕の頼れるガイド役だった。


 一方の僕は名木橋に何かしてやれたのか、というと……僕は名木橋に、遊びを教えた。


 彼は麻雀をやったことがなかった。彼は合コンに参加したことがなかった。


 名木橋は実家を離れ一人暮らしをしていたが、一人暮らしの男子大学生がしそうなこと……女遊び、言ってしまえば風俗遊びなど……は一切やっていなかった。僕はそれらを教えた。もっとも、風俗に一緒に行くのはさすがに名木橋から拒否されたが、キャバクラくらいには連れていった。


「あいつら凄いな」


 名木橋が人生初のキャバクラ遊びをした後のことだった。


「臨床心理のテクニックと思しきものを、誰にも教わることなく使ってるぞ」

「君、頭の中、心理学のことしかないのか」

 僕が訊ねると名木橋は笑った。

「凝り性でね」


 名木橋レベルになると凝り性なんて言葉では解決できないくらい心理学の知識が豊富だったが、まぁ僕は笑って聞き流した。

 以来、僕たちは悪友になった。


「さすが、人に何かを教えるのが上手いだけあるな」

 母校で最初の社会心理学講義の後。名木橋は僕を待ち伏せするとそう笑った。

「君には教えることなんてないよ」

 僕も笑って返した。


 その日、僕は四、五年ぶりに名木橋と一緒に飲んだ。名木橋の左手には、いつの間にか指輪が光っていた。僕が知らないところで生涯の伴侶に出会ったのだろう。名木橋のことだから、きっと女の基準は厳しい。それをクリアできた女性……がどんな人か気にはなった。しかし、多分これは男同士なら分かってもらえると思うのだが、僕たちは近況報告は程々にしてほとんどを仕事の話で済ませた。僕たちは学者だったので、学問の話だ。


 最近の脳科学の話……これは、名木橋の話……最近の大学生の話……これは、僕の話……いっぱい話した。


 しかし、その日はあんなに心理学について話したのに、僕は四谷教授から課された論文のことについて名木橋に相談できなかった。忘れていた、と言うのが正しいかは分からない。初めての母校の講義で緊張して、一時的に頭から飛んでいたのかもしれない。とにかく僕は、四谷教授から課された「一年以内に一本の論文」という条件を名木橋に話せなかった。


 それなのに、である。

 初めての講義の翌週。名木橋からこんなメールが来た。


〈君の論文に使えるかは分からない。けれど、もし研究テーマに困っているなら、文学部棟八階六号室に行ってみるといい〉


「あいつ、どこで僕の論文のことについて知ったんだ」

 研究室……晴れて准教授になれたので、個室である。心理学部棟二〇九号室……で僕はそう独り言ちた。情報の漏洩は由々しき事態である。どこの誰が漏らしたかは知らないが……おそらく、四谷教授だろうが……、プライバシーは守ってもらわないと困る。


 しかし、あの名木橋の言うことだしな……。


 彼の言うことは大抵の場合、正しい。それは何かに裏打ちされた情報である、という点でもそうだし、まるで不思議な術士のような、ある種宗教めいた予感のような意味でもそうだった。


 そういう訳で、論文のテーマに困っていた僕は、試しに行ってみることにした。


 文学部棟八階、六号室とやらに。

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