第4話 おっぱいと、悪魔。
すげえおっぱいしてんな、この人……。
第一印象はそれだった。すごい。その一言に尽きる。歩いただけで揺れてるぞ。
その女性はどうやらさっきの室員さんが言うところの「先生」らしく、見た感じ学者のようだった。かなり若い。多分まだ二〇代。
小顔。あどけない顔立ちをしていた。綺麗、というよりかわいい系。身長は一六〇くらいだろうか。日本人女性の平均身長よりは少し大きい印象だ。おっぱいの大きさからも分かるが……体格は割としっかりしていそう。けど女性的な曲線はしっかりある、いわゆるムチムチ系、というやつだった。男好みしそうな体型だ。
ロングの黒髪。肩くらいまで流している。かわいらしい、赤いワンピースを着ていた。胸元のリボンが素敵だ。足元はローファー。化粧もきつすぎない、ナチュラル・メイクである。すっぴんでいることも多い女性学者には珍しく、おしゃれにはそれなりに気を遣っているようだ。自分の魅力を分かって演出している雰囲気がある。その点、背伸びをしているそこらの女子大生より魅力的なんじゃないだろうか。
「あ、先生から話は聞いてます! どうぞ」
と、女性は元気よく僕を室内に通してくれる。僕は彼女の後について中に入る。
狭い部屋だった。先程の室員さんがいた部屋に負けないくらい棚という棚が並べられている。蟹歩きしないと部屋の端に移動できなさそうだ。
棚と棚の間。多分、五〇センチ四方くらいしかないんじゃないだろうか。机が一つ、置かれていた。上にはかなり古い型のノートパソコン。Wordファイルが開かれている。
「すみません、狭い部屋で……」
女性はそう頭を下げる。揺れる乳。いかん。直視してはいけない。そういう視線、意外とバレてるって言うしな。
「特にお構いもできないんですけど……自由に見て行ってくださいね」
と、机の前に腰かける彼女。どうやらこの部屋で研究をしていたようだ……その古いパソコンで? 下手したらワープロとか言い出すぞそいつ。
「名木橋の奴は、ここで僕に何を期待しているんでしょう?」
「先生」に訊いてみる。すると彼女はにっこりと笑った。
「分かりません。けど、きっと何かあるんでしょう。同じ学者同士、刺激し合えるとか?」
やはり彼女は学者のようだ。この部屋にいるということは、国文学の。
椅子に座り直す彼女。ぽよん。胸が揺れる。
おっぱいが机に乗ってるぞ……再び彼女の胸を見てしまう僕。慌てて視線を逸らし、室内の棚に目をやる。
「すごい数の本ですね」
多分、この部屋だけで心理学部棟にある心理学図書室に負けていない。すると彼女は笑った。
「ほとんどが近代文学の本ですよ。よかったら眺めていってください」
じゃあ、お言葉に甘えて。
本当は文学趣味なんてなかったのだが、普段覗かない領域というのは新鮮な魅力があった。
適当な本を手に取る。『二葉亭四迷と坪内逍遥の関係性について』……二葉亭四迷は聞いたことある。「くたばってしまえ」だっけ? 『樋口一葉の初期の作品と生活困窮について』……樋口一葉は言うまでもなく、五〇〇〇円札の人。あの人生活に困窮していたのか。他にも色々な作家の研究本や論文があった。
最後に文学史に触れたのは……と記憶を辿る。確か高校の国語の授業でだ。あれ以来文学には触れていない気がする。いや、学部時代の基礎教養で文学の講義があったか? 記憶が定かではない。
僕がその本を見かけたのは、そんな探求の真っ最中だった。
『悪魔が来りて笛を吹く』
そんな、おどろおどろしいタイトルがまず目に飛び込んできた。
たくさん並んでいる学術的資料の中でその本だけ、異色だった。まず第一に、文庫本だった。他の本に比べてはるかに小さい。そしてタイトル。「悪魔」……? 思わず手に取り、作者を眺める。
横溝正史……聞いたことあるぞ。
「あ、正史ですね?」
いつの間にか彼女が背後に立っていた。僕はびっくりして振り返る。ふふ、と彼女は笑う。
「金田一耕助シリーズで有名ですよね!」
ああ、金田一か。僕は納得する。なかなかその名前が出てこなかった。
「悪魔……」と、僕はつぶやく。すると彼女が再び笑った。
「気になったのなら、読んでみてはいかがでしょう?」
「読む?」僕が? と首を傾げると、彼女は続けた。
「この部屋に小説の原本が置いてあるなんて珍しいんです。それを見つけるなんて、きっとツイてますよ」
ふむ。ビギナーズ・ラックというところか。悪い気はしなかったので、僕は本を開く。
――いま筆をとってこの恐ろしい物語の、最初の章を書きおこそうとするにあたって、私はいささか良心の呵責なきを得ない。
そんな重々しい断りから始まる物語だった。
学者として一番大事なのは、素直な気持ちである。
僕は常日頃からそんなことを思っていた。指導者として、時に知らないことを知らないと素直に言える気持ちが、教えている学生を正しい道に導くことができると僕は思っていた。
だから素直に、この本の感想を述べよう。
圧倒された。最高に面白かった。時間にして約一時間。僕は読書に没頭した。この部屋には数多くの文学研究資料があるにもかかわらず、僕はずっとその『悪魔が来りて笛を吹く』だけを読んでいた。
戦後の斜陽族。没落した家系。そこに渦巻く愛憎。フルートの音。謎の男。火炎太鼓の紋様。密室の謎。全てが僕を圧倒した。正直、こんな面白い読書体験はしたことがなかった。ミステリー。普段は読まないジャンルなのに。そして本を閉じる時、僕は思った。
これは、本当に、すごい。
勝手な妄想の域を出ていないが、学術的な……僕の研究領域的な……発見もなくはなかった。
『悪魔が来りて笛を吹く』が僕に教えてくれたこと。それは、人は実に簡単な……言い方が悪い。シンプルな、に置き換えよう……理由で「悪魔」になる、ということだった。僕の専門である社会心理学の立場に立って一般化を試みれば、それはすなわちこういうことだった。
人の行動や人格は、その人が持っている内面的なものに起因しない。状況や環境に起因する。
つまり、『悪魔が来りて笛を吹く』の犯人は、その内面的な理由で殺人という非行に及んだのではない。その人が置かれた環境がその人をそうさせたのだ、という考察だ。悪魔は人間の心にいる訳ではない。常に、我々の身近な環境に……。
と、そんな興奮に包まれている時だった。化石みたいなノートパソコンの前で作業していた彼女が、申し訳なさそうに口を開いた。
「あのう、私、そろそろ帰らなきゃいけなくて……」
「あっ」僕は慌てて『悪魔が来りて笛を吹く』を棚にしまう。
「もう四時ですか」
確か彼女は四時まで研究しているんだった。
「はい」彼女は笑った。「夢中で読んでいましたね」
「いや、面白くて」僕も笑った。「すっかり夢中になっちゃって」
「正史の作品は興味深いものが多いですよね」彼女は帰り支度を始めた。
「私も、いくつか読んだことあります」
その本も。と、『悪魔が来りて笛を吹く』を示す。これで僕と目の前の巨乳な彼女とは、読書仲間になった、という訳だ。
「面白い作品だったと思います。よかったら今度、読書感想会をしませんか」
彼女の提案だ。僕は頷く。
「いいですね」
それじゃ、と僕たちは、小部屋から出た。すると室員さんが待ち構えたように赤ちゃんを連れてやってきた。
「おう、おう、いい子で待ってたねぇ」
「面倒見てくれてありがとうございます……よしよし」
彼女が赤ちゃんを抱く。どうやらこの子は、彼女の子供のようだ。まだすごく小さい。下手したら両掌に乗るんじゃないだろうか。
「何か月ですか?」僕は訊ねる。すると彼女は答えた。
「一か月です。あ、もう一か月半かな?」
「え?」僕は訊き返す。「先月生まれたってことですか?」
「はい。三月に」彼女は笑った。「産後一か月半で職場復帰は、早すぎますか?」
すごく早い。早すぎるだろう。法律的に大丈夫か心配になるレベルだ。
産後一か月半? 僕は改めて彼女をまじまじと見た。とてもそんな風には見えない。
出産後、女性は体型が大きく崩れると聞くが……彼女を見る限り、そんな感じはなさそうだった。もしかしたら見えないところが崩れているか、それか一か月半の間、相当の努力をして体型を元に戻したか、ワンピースで隠しているのか……。
いやいや、そもそも産後一か月半って体調的には大丈夫なのだろうか? 学者をやっている以上は研究が好きなのだろうが、いくら研究が好きだからって、そんな、無理をしなくても……。
それにそんなことをされたら世の大半のお母さん方は自信を失くしてしまうのでは? 学者の産休制度ってまだ整ってなかったんだっけ?
色々な心配が頭を駆け巡る。すると彼女は赤ちゃんの目を見つめてにっこり笑った。
「いい子で産まれてくれてありがとうねぇ。お母さん、助かっちゃった」
よしよし、と赤ちゃんをあやす。さっき室員さんの腕の中で眠っていたその子は、今はパッチリと目を開いて母親の方を見ていた。つぶらな瞳。どことなくだが、見覚えがあった。
「あ、あの……」思わず僕は訊ねる。
「あなたって、名木橋の……?」
すると彼女は、にっこりと笑い、赤ちゃんを腕に抱いたまま、人差し指をそっと唇に添えた。
「ナイショ」
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