03


「おかえり」


 そう言ってくれるようになってから何回目の訪問だろう。エプロンをしている彼の姿は、生活感に溢れている。愛おしい、生命の証拠だった。


「ただいま」


 こうして、姉も足しげく通ったのであろう男の門をくぐっていく。こんな自分がダメとも思わないけれど、罪悪感はそこはかとなく冬の廊下に落ちているような気がして、つい足元を確認してしまう。埃一つだってない床なのに、私は汚れがあって欲しいと願っているかのように目を凝らす。




 二人暮らしには少し手狭な間取りが、私たちの距離を近づけていく。煩わしく思われていないだろうか、なんて心配をしている私。そんな心を知るよしもない彼は、笑顔で煮込んだ鍋をカセットコンロに移していった。私がコートを剥がしたり、うがいをしたり、必要なことを済ませている間にさっさと彼は手を動かしてみせる。手伝う暇なんて与えてくれない、卑怯な彼。



「……」


 会話もないまま進む食事。もちろん本当になにも話していないのかといえば、そんなことはない。ただ、私としては大切なことを話し損ねているような気がして、湯気のむこうに揺れている、彼の優しい表情の移り変わりばかりを目で追ってしまっていた。


 彼と暮らし始めて、私は痩せた。食が一気に細くなってしまったからだ。彼を見たり、見られていたりすると食べられないのだ。生まれて初めて好きになった人だから。


 いつか餓死するかも。なんてね。



 お風呂から上がったところで、歯磨きをしている彼が洗面台に向かっていた。パジャマを着た私もそれにならう。これが一つの合図だからだ。彼も入浴を済ませたところだったけれど、いつもならこんなに早く歯を磨いたりはしない。コーヒーやら紅茶やら、とにかく歯につくような飲み物を多く嗜む人だからだ。


 狭い鏡に二人は入りきらない。背が同じくらいだったら、共同作業はもっと難しくなっていただろう。背が小さくてよかった。少なくとも、彼といっしょのときだけはそう思える。



「……命日、もうすぐだね」


 彼の精液を受けとめた口をゆすいでくると、ミネラルウォーターを差し出しながら、肩を落とす彼がいた。


 この時期になると、毎年彼は死霊にとりつかれてしまう。いない人間のことをいちいち考えていたって仕方がないじゃないかと、本心では思う。そもそも、あなたと姉がいっしょに生きていた時間なんて、私と比べたらたいしたものではないじゃないか。悲しむ権利は私の方が多く持っている。それでも、あなたが手に入ったのだから、私は悲しくなんてないのだけれどね。


「……お墓参り、いっしょに行こうか」


「うん……」


 手を引かれ、彼の胸元に着地する。寂しいのだろう、苦しいのだろう。この瞬間、彼はきっと私でない誰だろうと抱きしめたいと思ったはずだ。


 私が奪ったのは彼の心ではなく、彼の隣にある空間だったのだ。そしてきっと、誰だってそうなのだ。他人を自分の思い通りに操ることなんてできない。彼がなにかを忘れてもらいたくても。きっと叶うことなんてないのだろう。これだけは、流星にだってどうしようもないことだ。



「別に、君よりあの人の方を愛しているとか、そういうことではないんだよ。もう、思い出すことも少なくなってきたんだ。ただ、この時期だけは……」


「うん、分かってるよ。大丈夫、なにも言わなくていいよ」


「君が一番大事な人なんだ。ぼくは、本気でそう思っているんだよ」


「分かっているよ」


 本当のことなんて一つもない会話だった。ただ、肌を寄せ合ってしている会話ほど、真実だと信じられるものはない。というか、真実だということにせざるを得ないだけなのだろうけど。


 私たちは、互いの体温を献上する代わりに、自己の弁明を可能にしていく。代償は心臓の鼓動と、共有できない罪悪感だ。


 こんな関係に終わりも目的もない。寂しさを埋めてあげたかった、だから、いつ終わってもいいのだ。


 あの日、姉が焼かれた日。


 初めて彼に話しかけた瞬間から、そう決まっていた。



 彼よりも早く起き上がる。水をコップ二杯分飲んで、ぼんやりとした頭を目覚めさせていく。洗顔から始まる朝のルーティーン。洗面台はすっかり、私色の小物で溢れかえっている。


 朝ご飯を作る前に、とりあえず朝の紅茶とティーバッグを用意する。電気ケトルで無理やり沸騰させられたお湯を注いでいるとき、キッチンに一輪の花が飾ってあることに気がついた。


「バラ……」


 昨日、カップルが買っていった死体とは違う。生きているバラだった。短くカットされたそれだったけれど、立体的に膨らんだ赤赤しさは健在だった。やがて枯れゆく運命だとしても、せめてこの瞬間だけは咲き誇っていようという力強さ。生命の特権とは、一方通行ゆえの全力なのだろう。



 気に入らなかった。花を飾っていることではなく、その飾り方が腹立たしかった。


 朱色のマグカップ。どうしてこんなものに、花を預けているのだろう。彼女のことは、思い出さないのではなかったのか。


「……嘘つき」



 あの日、ビルから飛び降りて自殺した人の、下敷きになった姉。なんて滑稽な最期だったのだろう。天文学的な確率、流星に当たるようにして姉は死んだ。自分の彼氏の目の前で、真っ赤な血をまき散らせ、どれが誰の脳味噌なのか分からなくなるほどの惨状を作ってみせたのだ。


 あげく妹に、最愛の人すら奪われて……。


 奪われて……。


「奪ったのに……」



「……あれ……?」


 カーテンと窓を開け放ち、ベランダへと歩みを進めた私。朝の日差しと冷たい空気が流れ込むと、彼はたまらず目を擦って目を覚ます。今日は午後から出勤だから、まだ起きたくない時間なのだろうけれど、そんなことは考慮に値しなかった。


「おはよう」


「……あ、うん……」


 私が持っているマグカップ。姉の形見のそれとバラを、呆然と見つめているだけの男。微笑んで、それを片手に下の駐車場を見やる女。


 昨日の青年のように、私もなにしているんだって怒鳴られるのだろうか。カップの色に似た車だってあることだし、まだ溶け込めたりしないだろうか。黒い地面はコーヒーの水面ではないのだ。すべてをはじき返すだけだとしても。



 くだらない。こんなことしてなんになる。


 でも、こうすることしかできなかった。自分のなかでは回答は出ていたし、なによりもまず、怒りに身を任せてしまうくらいしか、自分を慰められなかったのだ。美しい朝だった。


「晴れているね」


 昨日まで二人の窓を覆っていた養生シートは、門出を祝うように姿を消していた。光を届けるためには、邪魔者はいない方がいいという好例だった。


「私、姉さんのこと、嫌いになっちゃった」



 これもいまさらだ。



 肩を回して朱色と深紅を放り投げる。地面への激突までの数瞬、地面に打ちつけられ雫のように飛び散る彼女を想像しては、ゾクゾクとした。すごく気持ちよかった。



 姦しく、響く悲鳴が点呼する。

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姦しく、雫 武内颯人 @Koroeda

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