瑞葵②

「茜、立派になりましたね」


 と話す茜にそっくりな女――瑞葵みずきの身体はうっすらと透けていた。これは夢か幻かと白狼丸は目を擦り、頬も抓ってみたが、ただひたすら痛いだけである。


 一体何が起こっているんだ、と呆然としていると、さらには、いつの間にやら太郎も茜の姿になっていた。


 なぜこんなお姿に、と太郎は涙を流してその身体に手を伸ばすが、それはすぅ、と通り抜けてしまう。


「あなたを海に流した後、もうこの島にはいられないと思い、あの人の回復を待って、二人で島を出ようとしたのです」

「ということは、父上は……」


 死んではいなかったのですね、と茜が言うと、瑞葵は悲しそうな顔で頷いた。


 そして、ほたりほたりと涙を零しながら訥々と語り出す。


 島を出ようと舟を出したのは、月の綺麗な夜だった。

 風は多少あったものの波も落ち着いており、北の空に見える大きな星を目印に西へ進めば、西郡沖にしごおりおきに着くはずだったのだ。


 けれど、それは叶わなかった。

 何の前触れもなく、静かな海はその小舟をとぷりと飲み込んだのである。行くな、と海が意思を持ったようにも感じられたという。


 長い髪が藻のように揺らめいて視界を奪い、四肢は波に絡めとられて思うように動かない。もがきながらも愛しい人に手を伸ばしたが、着物の端、髪の毛の一本すらも掴むことは出来なかった。


 そうして気付けば、自分一人が再びこの島に戻されていた。

 傍らにあったのは、夫が島の石で作ってくれたかんざしと、履き古した草履だけ。


 それだけが残って、全部失って。

 自分一人がどうして生きられよう。


 だから、崖から身を投げた。

 子を流し、夫をも飲み込んだ海に、今度こそは、と。決して戻らぬよう、草履を脱いで足に重石を括り付けて。かんざしも置いた。島の石を使った鬼のかんざしが、万が一にも人の手に渡れば大変だと思ったからだ。


 そこまで言うと、瑞葵は「なのにまさか再びあなたに会える日が来るなんて」と、唇を震わせた。とめどなく零れる涙を拭ってやりたくとも、茜の指は彼女の頬をすり抜けるばかりである。


 しばらくほろほろと泣いていた瑞葵だったが、ふと思い出したように顔を上げた。「そなたは」と白狼丸に視線を向ける。

 

 茜よりも低く落ち着いた声に、自然と背筋が伸びる。まっすぐに彼女を見つめ返して「白狼丸」と名乗った。


「白狼丸殿は、茜の……?」


 そう言って、茜と白狼丸を交互に見る。その続きを促された茜が「ええと……」と言い淀む。その肩を抱いて挑むように瑞葵を見つめ、


「おれは茜の夫です」


 そう宣言すれば、瑞葵は「まぁ」と嬉しそうに両手を合わせた。


「それはそれは。まぁ、茜ったら、いつの間に」

「あの、母上、それはですね。ええと」


 いつの間に、という部分に律儀に返そうとするのをまぁまぁと押さえる。放っておけば、出会いから昨夜の睦言まですべて語られてしまいそうで。


 すっかり涙も乾いたようで、そんなやりとりを微笑ましげに見つめる様は、霊にありがちな悲壮感などなく、まるで生きているかのようである。さらに「茜は母に似て面食いですねぇ」などと呑気にころころと笑うものだから、茜と白狼丸は揃って吹き出した。


「母上、俺はそんな妖怪じみたことは致しません」


 と、文字通り『面』を『食らって』いると勘違いした茜が必死に首を振り、


「おれはそんな器量良しじゃねぇですって」

 

 と、本来の意味をわかっている白狼丸もまた両手を振って否定する。


 そんな二人を見て、瑞葵は目を細めた。


「島の外に出てしまったかんざしが心残りでこの地に引っ張られ、離れられませんでしたが、これでやっと天へ帰れます。茜、あちらにはあなたの父もちゃあんとおりますから、母は一人ではありません。ですから、決してこちらに来てはなりませんよ」


 その言葉に、茜は強く頷いた。

 透けていた身体がさらに薄くなり、「母上」と思わず手を伸ばす。けれど、それは空を切って、茜の身体はぐらりと傾いだ。それを白狼丸が抱きとめる。


「あなたも愛する人と生きなさい」


 その言葉を最後に、瑞葵の身体は消えた。


 愛する人。


 その響きに、茜の身体がぴくりと震える。己の身体を抱くのが、その『愛する人』であることに気付いて、彼女の頬が熱くなる。それは白狼丸の方でも同様だったと見えて、ああ、だの、うう、だのと、意味のない言葉を吐いては、明後日の方に視線を泳がせた。


「――も、戻ろうか」


 この雰囲気に耐えられない、と、先にそう切り出したのは茜である。飛助と青衣も待ってるだろうし、と。けれど白狼丸は「もう少しだけ」と言って彼女を離さない。それどころか、さらに力を込め、彼女を強く抱くのである。浜に残した二人が気がかりで振り解こうとも思ったが、彼のその手が小さく震えているのに気付いて、それを止めた。

 

 白狼丸はというと、様々な感情が一気に押し寄せ、混乱の極みにあった。

 あの少女と会うまでは、確かに鬼への恐怖もあったし、太郎の母の話で心も乱された。さらには無二の友人であり生涯の伴侶でもある太郎と茜を一遍に失いかけ、ひた隠しにしていた友への思いも吐き出してしまう始末。認めたくはないが、涙まで見せてしまった。そこへ来て、今度は茜の母上が登場とくれば、さすがの白狼丸も脳の処理が追い付かない。


 とにかくいまは、この手に愛しい女を抱いている。

 この体温が己の手の中にあって良かったと、全身が喜びに震える。


 その喜びのまま、がばりと顔を上げてその唇を奪おうとしたところで――、


「――ってぇ!」


 彼の顔面に、大きな男の手のひらが、ばちん、と当てられた。


「っだから! そういうのは俺にするなって言ったろ!」


 低い男の声で我に返る。


 さっきまで白狼丸の腕の中にあった柔らかな女体は、硬い男の筋肉に代わっていた。


 げぇ! と叫んで飛び退くと、「げぇ、はないだろさすがに」と、少しうんざりした顔の太郎がいた。


 そして――、


「ちょっと何だよ、結局タロちゃんの方にも手ェ出すつもりなのかよぅ」


 と、嫌悪感を露にした飛助が白狼丸をぎろりと睨みつけ、


「おおよしよし、怖かったねェ坊。わっちが慰めてやろうねェ」


 と、青衣がここぞとばかりに彼の背中を優しく擦り上げている。


「お、お前ら……いつの間に……」

「いつの間にも何も、ずぅーっと見てたよぅ。いや、見張ってた、かな。ねぇ、姐御」

「そうとも。番犬気取りの犬っころが狼になるかもしれないからねェ」


 わっちはもう心配で心配で、と、泣き真似をすると、太郎は「心配をかけてすまなかった」ときちんと頭を下げて丁寧に詫びた。


「ただな、青衣」


 と、やけに真剣な眼差しで青衣を見つめ、その肩を抱く。これから接吻でもするのかという雰囲気に、肩を抱かれた青衣も、それを見つめる二人も、ごくり、と唾を飲んだ。


「犬は、成長しても狼にはならないんだ。それと、狼なのはどうやら白狼丸の兄上のようで――」


 と真面目腐った顔で語り始め、白狼丸は「おいおいおいおいおいおいおいおい!」と慌てて二人の間に手刀を入れて割り込んだ。飛助はというと、「ちょっと何その面白そうな話! おいら続き聞きたい! タロちゃんいまのうちにお願い!」と言って、白狼丸を羽交い絞めにした。


 

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