瑞葵①

「とにかく、だ」


 仕切り直すようにそう言って、太郎の手からかんざしを奪うと、それを少女に手渡す。


「頼んだ。そのお社に戻しておいてくれ」

「わかった。任せて」


 早速行ってくるね、とくるりと背を向けた少女に向かって、太郎が「待って」と声をかける。


「ありがとう。君の名は何と言うんだ。俺は、太郎だ」


 白狼丸も慌てて名乗ると、少女は、ふふ、と笑って「茜」と言う。


「あ、茜……?」


 これは偶然だろうか、と思わず太郎を見る。彼もまたこの偶然に驚いたような顔をしている。


「この島の女鬼はね、十になるまで皆『茜』と呼ばれるの。瑞葵様のお子様の名前よ」


 この名前で瑞葵様に守っていただくの、と歌うように言って、茜という名の鬼の子は、林の中へと駆けて行った。


 草原に残された太郎と白狼丸は、しばらくの間無言だった。


 つまり、そういうことなのだ、と白狼丸は理解した。

 瑞葵様というのは、太郎の――いや、茜の母上で、彼女が犯した禁忌というのが、人間と交わって子をなしたことなのであろう、と。


 そりゃああんな小さい子にまぐわうだの何だのなどと話せるわけがない。


 そして、亭主を処され、子を流された瑞葵は、あの崖から身を投げたのだ。そう推測し、小鬼が指差した方を見ると、青い空と海に吸い込まれるように消えていく女鬼の姿が浮かぶようで、彼は頭を振った。その姿が、茜の姿になった太郎と重なってしまったからである。


 気付けば太郎も白狼丸と同じ方向をじっと見つめていた。きゅっと口を引き結び、何やら思い詰めた表情で。


「……お前、いま何考えてる」

「何、って」

「おかしなこと考えてねぇだろうな」

「おかしなことって何だよ」

「母上の後を追うとか、そういうやつだよ」


 ずばり指摘すると、太郎は、ああ、と言って目を伏せた。


「だって、母上はたった一人で」


 その言葉を聞けば、まさに彼がその『おかしなこと』を考えていたことがわかる。


「だから何だ。お前の母上はお前に何て言ったんだ。桃の中のお前によ。幸せになれって言ったんじゃねぇのか。親の後を追うのが幸せかよ!」


 そう叫んで胸倉を掴む。下らねぇこと考えてんじゃねぇぞと殴りそうになったが、こいつは夜半になると茜になるのだと、堪えた。いくらいまは男でも、愛しい女の顔がどうしてもチラつく。


「わかってる。わかってるけど」

「お前は優しいやつだ。それはおれもわかってる。馬鹿猿の借金もあっさり背負っちまうし、あいつの代わりに自分の指を折れとかとんでもねぇことを口走るしよぉ。でもな、それだけは駄目だ。おれはお前の母上がどんなやつか知らねぇけど、てめぇのせいで我が子が後を追うなんて悔やんでも悔やみきれねぇに決まってる」

「だけど!」


 そう言うと、太郎は白狼丸を振り切って走り出した。畜生、と舌打ちをして、彼も慌ててその後を追う。


 足の速さなら負けねぇんだ。こいつは昔から、それだけはおれに勝てなかったんだ。


 案の定、一歩出遅れはしたものの、白狼丸はあっという間に太郎の背中を捕まえた。肩を掴み、どうせ柔らかな草原なのだからと、崖とは逆の方へ力任せに投げ飛ばす。不意を突かれた太郎は、飛ばされた勢いで草の上に背中から倒れ込んだ。白狼丸はその上に馬乗りになって、襟を乱暴に掴む。


「だけど、って何だよ。お前、ふっざけんなよ!」

「ふざけてなんかない!」

「飛び込む気だったろ、馬鹿野郎!」

「だって」

「だってもくそもあるか! お前はそれで気が済むかもしれねぇけどな! 残されたおれ達はどうなる! おれだけじゃねぇ。飛助も、姐御も、石蕗つわぶき屋のやつらも、皆お前のこと待ってるってのによぉ」


 吐き出すようにそう言って、がくりと項垂れる。


「……お前は。お前は知らないかもしれないけどな。おれだってお前に会うのが楽しみだったんだ。だけど恰好悪いから、わざとゆっくり歩いてた。ほんとはあの山道を全力で駆け下りて、お前に会いたくて仕方がなかった」


 ずず、と鼻を啜りつつ、太郎の着物の上に大粒の涙をぼたぼたと落としつつ、白狼丸は語った。


「頼むから、おれの前からいなくならないでくれ」

「……白狼丸」

「お前は、おれの一番の友達だろ」

「そうだ」


 もう泣くなよ、と太郎が困ったように眉を下げると、泣いてねぇよ、と袖で乱暴に顔を拭う。


「俺の着物、べちゃべちゃなんだけど」


 苦笑混じりにそう言えば「そんなの、お前の汗に決まってるだろ」というぶすくれた声が返ってきて、俺の肌は乾いてるんだけど、という言葉をぐっと飲み込んだ。


「そうだった。これは俺の汗だったな」


 そう優しい嘘をつく。


 しばらくその体勢のまま白狼丸の涙が完全に引くのを待ってやろうとも思ったが、さすがに少々重い。どけてくれ、という気持ちを乗せて少し身体を起こすと、それが伝わったのだろう、白狼丸は少々気まずそうな顔で「絶対に行くなよ」と念を押し、彼の上から降りた。


「もうどこにも行かないよ」


 そう返す太郎の顔は憑き物が落ちたように晴れやかである。


 と。


 ざああ、と強い風が吹いた。

 高く結い上げられた太郎の黒髪がなびいて白狼丸の顔にかかり、視界が奪われる。


 風が止み、その視界が晴れると、そこに、いままでいなかったはずの女がいた。


「茜……?」


 そう思わず口にするが、太郎は目の前にいるのである。茜に瓜二つの女は、太郎の横に姿勢よく座っていた。


「だ」


 誰だ、と白狼丸が言うより早く、太郎が声を上ずらせた。


「母上」


 と。


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