告白

白狼丸と茜

 さて、その日の夜である。

 鬼ヶ島への出発を明日に控えたその夜、従業員長屋の大部屋で、白狼丸はカッと目を見開いていた。眠れない、というわけではない。


 眠るわけにはいかないのである。


 なぜなら今夜は何としても茜に会わなければならないからだ。

 

 だから、同室の先輩方の高いびきが合唱を始めた頃、彼はこっそりと布団から這い出し、音も立てずに部屋を出た。


 この東地蔵あずまじぞうから南杜潟みなみもりかたを経て西郡沖にしごおりおきへは青衣の話だと半日もかからぬらしい。

 そこから船で鬼ヶ島へ行くのも、上手く潮の流れに乗れば約半日。つまり何もかもうまく行ったとして、往復だけで丸二日かかる計算である。


 とはいえ、その鬼ヶ島での滞在時間もあるわけで、とりあえず島へ行くと決まったものの、本当にかんざしを浜辺に投げ捨てるだけで良いのか、それとも持ち主を探して返すべきなのか、その辺りは何も決まっていない。投げ捨てるだけならば無事に生還出来そうではあるが、それにしたって、誰にも見つからなければ、という条件付きである。


 だからまぁ、島でなんやかんやあったとして――、ということを考えると、ここへ帰って来るのは、早くても四、五日はかかるのではないかと思われた。というか、最悪の場合、帰って来られない可能性も多分にある。


 ならば、今夜が最後になるかもしれぬ。


 そんな縁起でもないことを考えてしまい、らしくねぇ、とかぶりを振る。


 違う。会いたいのは、そんな理由じゃないんだ、と言い聞かせる。何としても戻ってくるために、一つ大事なことを告げるのだ、と。


 だから頼む、今夜は必ずいてくれ、と祈りを込めて、一歩、また一歩と廊下の床板を踏みしめる。


 そう勇んで向かった中庭には、白狼丸の思いが通じたのか、彼の最愛の人が佇んでいた。長椅子には腰掛けずに、彼がいつも歩いて来る方に身体を向けている。


 きっと、ずっと待っていたのだ。おれが来るのを。


 そう思うと、ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような心地を覚えて、彼は思わず駆け出した。二回目の逢瀬の時のように、何も履かず、裸足で庭に降りる。


「茜」


 その名を呼んで手を伸ばすと、彼女もまたそれに応えるかのようにその手を取った。そのまま引き寄せ、華奢な身体を抱き締める。薄手の寝間着も、それを纏っている身体もすっかり冷えてしまっていた。


「ずっと待っててくれたのか。遅くなってすまなかった」


 自分の体温を分け与えるようにその華奢な身体を強く抱き、大きな手のひらで何度も背中を擦ると、彼女はふるふると首を振った。そんなに待ってない、という意思表示のようだが、こんなに冷えた身体で何を強がるのか、と苦笑する。


「茜、今日は大事な話があるんだ」


 本当は顔を見て、まっすぐにその目を見つめて言うはずだった。けれど、茜の身体が震えているのに気付いて、離れることが出来ない。胸の中にすっぽりとおさまっている彼女の耳に届くよう、そして、己自身にも言い聞かせるかのようにゆっくりと話す。


「明日からおれは少しの間ここを離れることになった。何、遅くとも五日もあれば戻って来る。必ず戻って来る」


 そう、必ず戻って来るのだ。

 鬼が何だ。

 おれは、山犬の子と恐れられた白狼丸様だぞ。


「ただ、もしかしたら、だが」


 そう言って、腕に力を込める。もしかしたら、もしかするかもしれない。その可能性がどうしても拭い切れない。


「もしかしたら、もう会えないかもしれない」


 そう告げると、それまで震えていた茜の身体がぴたりと止まった。会えない、の意味を理解したのだろうか。


「そんなこたぁ、砂粒ほどもねぇともちろん思ってる。だけど、もしもってことは、ある。だから――」


 駄目だ、やはりこれだけはしっかりと目を見て言いたい。そう思って、手を離す。急に解かれた拘束に驚いたのか、茜は彼を見上げた。月明かりに照らされた彼女の顔は青白く、切なそうに寄せられた眉の下の大きな瞳は、厚い涙の膜に覆われて揺れている。


「好きだ、茜。お前のことが誰よりも愛しい。必ず戻って来るから、その時はおれの妻になってくれ」


 恐れを知らぬ山犬の子が、初めて腹の底から怖いと思った。

 たった一つ、その返事を聞くことが。

 その気持ちに負けて目を閉じてしまいそうになるのをぐっと堪える。


 やはり茜は何も答えなかった。

 これまでもずっとしゃべらなかったのだ。答えは当然筆談か、あるいは首をどちらに振るかになるだろう。そう思っていたのだが。


 茜はただ困ったような顔をして涙を浮かべていた。

 はい、とも、いいえ、とも判別しがたい表情である。


 長い睫毛がぱさりと伏せられ、大きな瞳を覆っていた涙の膜が、雫となって頬を伝う。それを指で拭ってやるも、涙は次々と生み出され、埒が明かない。


「茜、返事は急がなくて良い。そうだ、さっきも言ったが、おれは必ず戻って来る。お前からの返事を聞くために戻って来る。だから良いか、ちゃんと考えておいてくれ。絶対に戻って来るからな。な?」


 何度もそう言うと、それについては、こくこくと何度も頷いた。絶対に戻って来てくれと、そう伝わってくる。ならば返事はもう決まったようなものだとも思うが、それでもやはりきちんと聞きたい。


 そうだ、おれは必ず戻らねばならない。

 そして、戻って来たらもう一度茜に求婚するのだ。


 そう決意して、再び彼女の身体を強く抱いた。

 冷え切っていたはずの身体はもうほんのりと温かくなっている。


 茜、茜、と何度もその名を呼び、絶対に戻って来るからな、と繰り返した。それは茜への言葉だったか、それとも己自身へのものだったか。


 ただ抱かれるままだった茜の手が、初めて彼の背中に触れた。恐る恐る抱き締め返されると、喜びのあまりに息も心臓も止まりそうになる。


 だから彼は――、


 こんなところで死んでたまるかと歯を食いしばった。

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