粗末な鍬②
「馬鹿猿お前、こんな太郎に何かしたらただじゃおかねぇからな」
「わ、わかってるよぅ。さすがのおいらだってその時はちゃんと同意を得てからに――」
そこで飛助は気が付いた。
青衣が手に持っている扇子に。
「……もしかして、だけどさ」
「何だよ、馬鹿猿」
「いちいち突っかかんなよなぁ、全く。いや、その姐御の扇子だよ」
「これがどうしたんだい?」
「中の薬のせいなんじゃないの?」
太郎を除く三人の動きがぴたりと止まる。
「いいや、わっちは断じて坊に向かって扇いじゃァいないよゥ。それにこれはもうほとんど空だしねェ」
「そうだな。おれも見てたが、そんなことはなかった」
「そんなことおいらだって知ってるさ。でも、風病にしたってこんな急になる?」
白狼丸に凭れ、飛助に抱きつかれたままの太郎は、うわ言のように熱い熱いと言いながら、帯の結び目に手をかけている。それをやんわりと阻止するも、既に襟はがばりとはだけられ、ほんのりと赤い華奢な鎖骨と薄い胸板が惜しげもなく晒されていた。
確かにあの時、太郎が一番青衣の近くにいたのだ。わずかに残っていた薬を吸い込んだとしてもおかしくはない。
「あぁもう、目の毒すぎるよぅ。白ちゃん、おいら無理かもぉ」
「馬鹿野郎、耐えろ! 後で絶対太郎に軽蔑されるぞ! 良いのか、口も利いてもらえなくなるぞ」
「うええ、それは嫌だよぅ」
太郎を支えているために離れるに離れられず、彼の色気にあてられて困惑する二人に、青衣が呆れたような視線を向ける。
「馬鹿だねェ、アンタ達。解毒剤くらいあるに決まってるだろう? どれ、ちょいと待ちな」
「おお、姐御頼んだ!」
「早く! おいらの理性が頑張ってるうちに!」
こうなれば後は時間との勝負である。青衣があの馬鹿でかい薬箱の中から解毒剤を探す時間と、それから薬が効く時間だ。だから飛助はぐっと歯を食いしばって耐えた。白狼丸はぎゅっと目を瞑り、茜を思い出して己を律した。
が。
「白狼丸」
名を呼ぶのだ。
いつもより、甘えたような声で。
何だ、と太郎を見れば、誘っているのかと思うほど蕩けた表情で、尚も白狼丸、白狼丸と呼ぶのである。
「白狼丸、いつもありがとうな」
「……はぁ?」
「お前が友達になってくれて、俺がどんなに嬉しかったか」
「うん? う、お、おお」
「雨が上がった朝、お前が山道を降りてくるのを、俺がどれだけ心待ちにしていたか。お前の白狼の毛皮が見える度、俺の心がどれだけ浮き立ったか。白狼丸は『山犬』と呼ばれるのを嫌うけど、俺は、お前ほど山犬のように気高くて美しい獣はいないと思っているよ」
「――ぐぅぅぅっ! ち、畜生、何だよいきなり! おい姐御! 薬はまだかぁっ!」
「ほほほ、なぁんか面白いことになってるじゃァないか。もうちょっとお待ちねェ」
それからも、白狼丸をどれだけ頼りにしているだの、感謝しているだの、といった彼への思いの吐露は続いた。そのうちに白狼丸の顔は太郎と変わらぬほどに赤くなっていく。
「えぇ、良いなぁ良いなぁ。白ちゃんばっかりずるい。なぁなぁタロちゃん、おいらは? おいらには何かないのかい?」
くいくいと腕を引きながら、うきうきと飛助が尋ねる。無言で耐えるより、いつもの調子でしゃべっていた方が乗りきれそうだと思ったらしい。それに彼も太郎から褒められたかった。
「飛助も仲間になってくれてありがとう。飛助はすごいよなぁ、俺よりも大きな身体をしてるのに、まるで羽が生えてるみたいに身軽でさ」
「うんうん、それでそれで?」
「それから、何よりも俺はその明るさに助けられてるんだ。飛助といるといつも楽しい気持ちになるよ。俺はさ、飛助が美味そうに菓子を食べているのを見るのが好きなんだ。最近じゃ、菓子をもらうと、一番に飛助の顔が浮かぶようになったよ。早く食べさせてやりたいって」
「ほんとぉっ!? 嬉しいなぁ」
飛助もまた顔を赤くして相好を崩している。嬉しさのあまりに太郎の身体を強く抱き締めると、ふぁ、と何とも色っぽい声が彼から漏れてしまい、「お前なんてことしてくれてんだ!」と白狼丸にどやされる結果となったが。
「はいはいお待たせしましたねェ、っと」
やがて、解毒剤を手にした青衣がさりさりと畳の上を滑りながら戻ってくると、それを目に留めた太郎が「青衣」とその名を呼ぶ。
「何だい、律儀にわっちにも何か言ってくれんのかえ? でもねェ、坊、わっちはまだ付き合いも浅いし、その気持ちだけで――」
「青衣、安心してくれ」
「何がだい?」
とろりとした表情で我が子に向けるかのような慈愛の目を青衣に向け、大丈夫だ、俺に任せろ、と言う。一体何が大丈夫で、一体何を任せれば良いのか。付き合いの長い白狼丸にさえわからず、全員が揃って首を傾げる。
「いまは自由になる金がないけど、飛助の借金を返し終わったら――」
その言葉に青衣が「馬鹿猿、アンタ、坊になんてもんを背負わせてんだい!」と目を吊り上げて飛助を小突く。これには色々訳があるんだよぅ、と涙目の飛助に「おい、太郎がいましゃべってんだろ、黙れ馬鹿」と白狼丸からの追撃が飛ぶ。
律儀にもその三人の会話が終わるのを待っていたらしい太郎が、すぅ、と大きく息を吸って、青衣をまっすぐに見つめた。
「そしたら俺が立派な鍬を買ってやるからな」
「……はァ?」
「鍬ぁ……?」
「何でだよお前……」
お前はまだ鍬にこだわっていたのかと、真面目すぎる太郎の言葉に全員が脱力する。
「もう……粗末な鍬だなんて……悲しま……」
すべてを言い切らぬうちに太郎はとうとう寝息を立て始めた。
どうやら青衣が城を抜けたのは、粗末な鍬を宛がわれたせいだと思ったらしい。自分の仲間になったからには、そんな思いはさせないと、そう言いたかったのだろう。
「寝ちゃった……」
「ま、まぁ、とりあえずは何とかなったな」
「しかし、残りカスみたいな量だったのに、随分と効いたもんだ。
と、その言葉に白狼丸は思い出す。
そうだ、太郎はまだ生まれて六年しか生きていないのだ。見た目こそ立派な青年だが、そういや酒にも弱い。
「まぁ……、太郎は酒もあんまり強かねぇな」
とりあえずそれだけを言って、水に溶いた解毒薬を飲ませると、彼を布団に寝かせた。
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