雛乃の変化①

 それからまた二日ほど経った昼休みのこと、白狼丸はいそいそと飯をかっ込んでいた。わしわしと箸と口を動かしつつも、ふと茶碗を持つ己の左手に目がいく。暇さえあればつい見てしまうのだ。


 茜がここに己の名を書いたのだ。

 あの白く細い指で、つぅ、となぞって。


 それを思い出すだけで、自然と口元が緩んでしまう。


 茜。

 なんと美しい名だろう。

 空が茜色に染まる度に思い出すのだろうな、などと思う。そして、茜色の空が濃紺に変われば、また二人だけの時間が訪れるのだ。


 今日こそは、好きだと言おうか。いや、まだ早いか。


 そんなことを思いながら、熱い汁を啜る。すると、彼の視界に食器を乗せた盆が入って来た。顔を上げると飛助である。向かいの席に座り、彼は、はぁ、とため息をついた。


「よぉ。これからか」

「うん。今日も忙しくてさぁ、やっと飯だよ」


 いつもへらへら笑っている飛助がげっそりとしているのを見れば、自分ばかりが幸せなのも何となく悪い気がしてくる。緩んでしまっている頬をきゅっと引き締めて、お疲れさん、と返した。


「ああ、白狼丸に飛助」


 今度は太郎の声である。

 彼もまたこれから飯を食うところだったらしい。いちいち断りを入れるような間柄でもないので、何も言わずに白狼丸の隣に座った。


「今日は遅いんだな」

「そうなんだ。ちょっと色々あって」


 また客にでも迫られたか? などと茶化す。太郎の場合、買った菓子をそのまま贈られるのはもちろんのこと、重箱に詰めた手料理を押し付けられることもあるし、着物の帯に恋文を無理やり差し込まれることだって日常茶飯事であり、それらをうまく断ることも業務内容のうちなのではないかと白狼丸辺りは内心思っている。


「まぁ、それもあるんだけど」

「やっぱりあるんだな」

「そりゃあるでしょ、タロちゃんだよ? ウチの看板娘なんだから」

「飛助、俺は男だぞ。娘じゃない」


 じゃあ看板男だな、などと言って白狼丸が笑う。けれどそれにつられて笑ったのはやはり飛助のみであった。それがさ、と太郎は疲れたような顔で茶を一口啜った。


「五月姉さんと八重姉さんが急に抜けちゃって」

「何? あの二人が?」

「急に?」

「そうなんだ。まだあらかじめわかっていたら心構えもそれなりに出来たんだけど、前触れもなくいきなりだったから」

あの二人きれいどころがいっぺんに抜けちまったら大変だわな」

「ぜーんぶタロちゃんに来るってことだもんなぁ」


 にしても、二人一気にって、何で? と飛助が首を傾げると、太郎は、それが……、と口ごもった。周囲をちらちらと気にしているところを見ると、ここでは少々話しにくい内容なのかもしれない。言いにくいなら無理にとは、と白狼丸が言いかけると、太郎は声を落として「雛乃お嬢様が」と言った。


 ある意味予想通りの人物の名に、白狼丸と飛助は箸を止めて太郎の顔を覗き込んだ。


「雛乃お嬢様がいきなり店の方に来て、二人を解雇するっておっしゃったんだ」


 太郎が、うんと潜めた声でそう言うと、飛助と白狼丸は揃ってため息をつき、「またか」とうんざりした声を上げた。


 最近の雛乃の行動は目に余るものがある。

 大店の一人娘ということで多少は我が儘に育っているとは思うものの、それでもまだ『子どもの我が儘』の範疇だった。それが、ここ数日は、完全に度を超えている。


 最初は若い女中の淹れた茶だった。

 熱すぎる、と言って怒り出し、湯飲みごと床に叩きつけたのである。慌てて温めの茶を持っていくと、今度は温すぎるとわめいた。


「お前はここで何年働いている。茶も満足に淹れられないのか」


 そう言って暴れ回り、割れた湯飲みをその女中に向かって投げつけ、顔に怪我を負わせたのである。

 いくら雇い主の娘だといっても、たかだか茶一つで、しかも女の顔に傷をつけたとなっては娘に甘い平八も黙ってはいられず、雛乃をきつく叱ったのだが、彼女に反省の色はまるでなかったという。


「あの女中がまずい茶を淹れたのが悪いのです。それともお父様はわたくしにまずい茶を飲めとおっしゃるのですか」


 冷めた目でそんなことを言い、勝手に話を切り上げるとさっさと自室へ引っ込んでしまったらしい。


 確かに雛乃は年の割にはませているし、虫の居所が悪い時にはきつく当たることもある。けれども、ここまでではなかった。子というものは、その成長の中で親や大人に強く反抗する時期を迎えることがある。それは平八も知ってはいたし、子を持つ従業員達もそういうものだと言っていた。


 だから、そういう時期が訪れたのだろうと思っていたのだ。多少強すぎる気はしたが、人それぞれ、という言葉もあることだし、と。


 しかし、あまりに酷すぎる。


 些細なことで物を投げつけるのは日常茶飯事である。

 それも決まって硬いもの、それなりに重さのあるもの、尖ったものなど、当たればかすり傷程度では済まないものばかりである。相手を傷つけてやろうという明確な悪意がそこにはあった。


 さらに、目と目が合えば、相手を罵る言葉ばかりを吐くようになった。


 白狼丸に対しては、顔を合わせる度に「薄汚い山犬の子め、寄るな獣臭い」と言った。その度に血管を浮き上がらせつつも歯を食いしばって耐えた彼を、太郎と飛助はよくぞ堪えたと褒めたものだ。


 だが、白狼丸の方はまだ序の口だった。確かに言われたくない言葉ではあるものの、山犬とは昔からそう呼ばれていただけに、悔しいが耐性はある。それよりも酷かったのは飛助であった。


 てっきり馬鹿猿辺りかと高を括っていたところへ、「親に借金を押し付けられた挙句に捨てられた哀れな猿」と、触れられたくない過去を抉られた上に「捨てられたということは、いらない子だったというわけだな」と追い打ちまでかけられ、さすがの彼もその場に崩れ落ちた。

 普段の彼の性格からして、せいぜい「酷いよぅ」と眉を下げて涙目になる程度の反応かと思いきや、わっぱのように膝を抱えてわんわんと泣き始めたものだから、これには白狼丸も大いにうろたえた。慌ててその日に回ってきた差し入れの菓子を持ってきて、彼の口にねじ込んだものである。


 では、太郎はどうかというと。

 彼だけは何もなかった。雛乃は太郎と目が合うと、頬を染めて恥ずかしそうに笑い、そそくさと立ち去ってしまうのである。そこだけは、恋を覚えた十の娘のままらしい。やがて太郎は、雛乃が何か問題を起こす度に呼ばれることとなった。何せ太郎さえ見せておけば雛乃は大人しくなるのだ。


 だから最近の太郎の仕事といえば、己目当てにやって来る客の相手と、雛乃のなだめ役である。そこへ来て、今日は主力が二人も抜けた。体力には自信のある太郎ではあったが、さすがに気力の方が限界だった。


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