真夜中の逢瀬④

 白狼丸と女の逢瀬は、それからも続いた。


 女は毎晩現れるわけではなかったから、ぽつんと一人井戸の前の長椅子で何刻も待ちぼうけを食らうこともあったし、そのまま朝を迎えることもあった。

 けれど、その次の逢瀬でそれを咎めることはなかった。別に約束をしているわけではなかったからだ。しつこく、明日も会えるか明後日はどうだと迫れば嫌われてしまうかもしれない。あくまでもこれは、おれが勝手にやっていることだから、と何も言わなかった。いわゆる、惚れた弱みというやつである。


 そんなある晩のこと、いつものように隣に座った女は、おもむろに白狼丸の左手を取った。女の方から彼に触れてきたのはこれで二度目である。一体何だ、と胸を高鳴らせながら見守っていると、彼女はその手のひらにゆっくりと文字を書いた。


あかね』と。


「茜?」


 確認するように呟くと、こく、と頷く。


「茜、茜……。もしかして、名前か? お前、茜というのか?」


 女は再び、小さく頷いた。


「そうか、茜というのか。そうかそうか。ははは。そうか、茜というのか!」


 嬉しさのあまりにそのまま彼女の手を包むようにすると、女は恥ずかしいのか身をよじらせて目を伏せた。その仕草がまた言葉を失うほどに愛らしくて、このまま唇を奪ってしまおうかとも思ったが、さすがに早すぎるだろうと堪えた。我慢の男、白狼丸である。


 その日は何度も手を強く握り、名前を呼んだ。

 その度に茜は嬉しそうに頷き返した。傍から見ればもうすっかり恋仲のようである。けれども白狼丸はまだ好きだと言えなかった。軽々しく口にして良いものではないと思ったからだ。もっと慎重に、もっと確実に茜が自分のことを好いてくれていると確信が持てるまで待つのだと、つい口が滑りそうになるのをぐっと我慢した。


 だから、その『好きだ』という言葉の代わりに名を呼んだ。この想いが伝われば良いのにと、柄にもなく、そんなことを思いながら。


 

 あの白狼丸が最近やけに大人しいという噂は、太郎の耳にも届いていた。ここ数日はなかなか時間も合わず、一緒に飯を食うこともない。けれどその代わりに――というのか、飛助とはよく一緒になった。


 その日の昼も偶然一緒になった飛助と向かい合って飯を食っていた。


「そういえば最近白狼丸が大人しいって店でも噂になってるよ」


 飛助何か聞いてる? と太郎が尋ねると、彼は、ああ、と言って茶碗を置いた。


「白ちゃんさ、好いた女がいるんだ。それでじゃないかな」

「へぇ、白狼丸にそんな女が」

「タロちゃん、聞いてないの?」

「うん。ここ最近、どうにも時間が合わなくて。廊下でちょっとすれ違うくらいでさ」

「そっかぁ。それがさ、すごい入れ込みようなんだよ。どうやら五月姉さんや八重姉さんよりも美人らしくって」

「へぇ、五月姉さんや八重姉さんよりもかぁ」


 太郎にも美醜くらいはわかるので、なら相当なんだろうなぁ、などと呟く。


「そんで、タロちゃんよりも美人らしいよ?」


 いひひ、と意地悪く笑えば、太郎は、む、と眉を寄せた。


「何でそこで俺の名前が出るんだ。俺は男だぞ」

「そぉんなのわかってるよぅ。でも白ちゃんが言ったんだもん。タロちゃんよりきれいだって」

「俺をそこに入れるなよ。まぁでも、白狼丸がそこまで惚れ込むなんて、興味深いな。飛助は見たことあるのか?」

「それがさ、実はこっそり見に行ったんだ。白ちゃんが初めてその女に会ったって日の翌日に。暗い廊下でじぃっと待ってたらさ、後ろの方にぞろぞろいんの、倉庫の兄さん達が」

「ほぉ」

「あんまり白ちゃんが騒ぐもんだから、気になったんだろうね。だけど、女はいなかった。白ちゃんだけ。そんでどうせ夢でも見てたんだろってことで、解散したってわけ」


 つまらなそうに茶碗の縁についている米粒を箸で摘まむ。それをぱくりと食べてから、でもね、と笑う。


「その後、実はもう一回だけ、おいら一人で覗きに行ったことがあるんだ。まぁ、たまたま厠に行きたくなって目が覚めたってだけなんだけど、ついでにちょっと行ってみようかな、って。そしたらね、ちゃんといたんだ」


 それで? と身を乗り出す。タロちゃんがここまで食いつくなんてなぁ、と思いつつ、飛助は続ける。


「さすがにそこに割り込むなんて野暮なことは出来ないから、結局後ろ姿しか見えなかったんだけどさ、まぁ、佇まいっていうのかな、何か上品そうな女だったよ。線が細くて、髪が長くて。そんで白ちゃんってばさぁ」

 

 そこで口を押さえ、ぐふ、と笑う。手の中から、ぷくく、という声まで聞こえてくる。


「何だよ、もったいつけて」

「だってさぁ、もう傑作だよ。あの白ちゃんがだよ? 中庭の長椅子にさ、二人並んで座ってるんだけど、ちょっと離れてるんだよ。もう一人腰掛けられるくらいっていうのかな。緊張してんのか何だか知らないけど! 面白過ぎない?! おいらてっきりとっとと襲い掛かって口でも吸ってんのかと思ったのに!」


 手すら握ってなかったんだぜ、と笑うと、太郎はつられて笑うこともなく、不思議そうに首を傾げている。


「あれ? どしたのタロちゃん」


 太郎にはウケなかったが、自身のツボには大いに入ったらしい飛助が、目尻の涙を拭いながら問い掛けると、彼は眉間にしわをこさえて言うのである。


「襲い掛かって口を吸うって、それじゃまるで物の怪じゃないか。飛助は白狼丸を何だと思ってるんだ?」と。


「え――……っと、ねぇ。うん、ああ、そっかぁ……そうきたかぁ……。タロちゃん、口吸いすら知らないとはなぁ……。ええ、どうしようかな、これ」


 たまたま近くに座っていた男の先輩方に救いの目を向けるが、彼らはその視線をサッと避け、盆を持って席を移動してしまった。


「そんなぁ、兄さん達酷いよぉ……」


 ええい、やっぱりおいらがやるしかないのかと、飛助は、ぱぁんと自身の頬を叩いた。


「タロちゃん!」

「どうしたんだ飛助。いきなり自分の頬を叩いたりして、大丈夫か?」

「うん、それは大丈夫なんだけど、それはおいといて、だね」


 卓の上に置かれていた太郎の手を取り、両手でそっと包む。


「タロちゃん」

「何だ」

「今夜、タロちゃんの部屋で、おいらが良いこと教え――あいたぁっ?!」


 いきなり後頭部をすぱぁんと叩かれ、誰だよぅ、と涙目で顔を上げる。そこにいたのは鬼のように目を吊り上げた白狼丸であった。どうやら彼はこの時間から休憩らしい。


「お前は何で真昼間から盛ってんだ馬鹿猿」

「盛ってねぇよ! おいらはただ、タロちゃんに男女の睦み事ってやつを実践つきで教えてやろうかと」

「実践つきって、やっぱり盛ってんじゃねぇか! 第一、男女の、ってお前男だろうが!」

「二人ともこんなところで喧嘩はよせよ」

「そんでお前は手まで握られてる癖に、何でそんな落ち着いてんだ!」

「タロちゃぁん、せっかくなんだから、頬くらい染めてよぉ」

「何でだよ」

「これだもんなぁ~」


 がくりと肩を落とす飛助に、依然として何もわかっていない様子の太郎。それに呆れた視線を向ける白狼丸と、いつもの三人のやりとりを盗み見て笑いを堪える男衆達。


 そんな賑やかな食堂の中でお峰母さんはというと――、


 だったら私が、と腰を浮かせかけている女中達に鋭い眼光を向けていた。

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