真夜中の逢瀬③

 昨日の今日だし、という言葉の後に続くのは、『いるだろう』なのか、それとも『いないだろう』なのか。


 そんなことを考えながら、ぺたぺたと廊下を歩く。もし会えたら、何を話そう。聞きたいことは山ほどあるけれども、あまり質問攻めにするのは良くないかもしれない。何、おれは待てる男なのだ、あいつを手に入れられるのならば、一月ひとつきでも二月ふたつきでも待ってみせる。そんな決意を胸に中庭へと来てみたが、残念なことに誰もいなかった。古びれた井戸と、その向かいの長椅子が、いつものようにそこにあった。


 昨日のは、やはり幻だったのだろうか。


 そんなことを思う。

 

「なぁんだ、いないじゃん」


 そんな声が聞こえて振り返れば、そこにいたのは飛助である。


「飛助、お前いつの間に……!」

「え? いまいま。だって白ちゃんがあんなに熱弁ふるうんだもん、そりゃあ気になって来ちゃうよねぇ」


 よくよく考えてみればその通りだ。

 あれだけ散々に熱っぽく美人だ美人だと騒いだのである。飛助でなくたって気になるだろう。


 そう、気になるのだ。男なら。


「なぁんだ、やっぱり白狼丸の見間違いじゃないのか?」

「寝ぼけてたんだろ」

「ほい、解散解散。ちっくしょう、眠いなぁ」

「げぇっ、何でこんなに……!」


 廊下の角に隠れていたらしい男衆があくびを噛み殺しながらぞろぞろと出て来る。ひいふうみい、などと数えなくともわかる。倉庫係全員だった。


「きっと狐にでも化かされたんだよ。ほらほら、白ちゃんもとっとと寝な? 明日も仕事なんだからさ」


 そんじゃあね、と言って、飛助もとびきりでかい欠伸をして去っていった。中庭に面した濡れ縁に一人残されると、さっきまでの騒々しさのせいか、胸にぽかりと穴があいたような寂しい気持ちになって、彼はその場に座り込んだ。


「おれの夢だったのか……?」


 頭を抱え、ため息をつく。ふと顔を上げると、やはりそこには誰もいない。


 部屋に戻るか、と膝を立てた時、かたり、と音がした。釣瓶つるべでも風に煽られたかと思ったが、その井戸の陰に、ふわりと黒いものがなびいているのが見え、彼は慌てて立ち上がった。


 あれは髪だ。


 そう気付いたからである。

 下駄を履く時間さえも惜しく、裸足のまま庭に出て井戸へと走る。こんな短い距離であるのに心臓は妙に忙しなく脈打ち、こめかみに汗が伝う。


「やっぱりいた……」


 井戸の陰で身体を縮こませるようにして隠れていたのは、やはり昨日の女であった。


「こんな時間に隠れ鬼かよ」


 そう言うと、女は眉を下げ、泣きそうな顔で首を振る。違う、と必死に訴えているようだった。その表情の中に怯えが見て取れて、白狼丸は彼女から少し離れた位置にしゃがみ込む。


「そんなに怖がんなよな。何も取って食ったりしねぇから」


 歯を見せて笑うと、少しは安心したらしい。眉は下がったままではあったが、強張っていた身体から力が抜けたのがわかる。


「しかし、何で隠れてたんだ。皆お前が見たくて――」


 そこで気付く。

 だから、なのではないかと。


「もしかして、だから、隠れてたのか? 見つかりたくなくて」


 そう尋ねると、口をきゅっと引き結び、こくりと頷く。


「そうか、それは悪いことしちまったなぁ。悪かった。おれがお前のことを話したりしたからだ。本当にすまなかった」


 しゃがんだまま頭を下げ、詫びる。下駄も何も履いていない汚れた爪先が視界に入った。


 と。


 じゃり、と草履が滑る音が聞こえた。何だ、と顔を上げるより先に、彼の肩に何かが触れる。それが女の手だと気付いたのは、白い寝巻の裾が見えたからだ。ゆっくりと頭を持ち上げてみると、女は困ったような顔をして、彼の肩を擦っていた。そして、白狼丸と目が合うと、何度も首を横に振るのである。


 何だ。

 何を伝えたいんだ。


 女は必死に首を振り、何かを伝えようとしている。もしや、そこまで詫びなくても良いということではなかろうかと、「わかったわかった」と言うと、やっと彼女は安堵したように笑った。


「なぁ、お前、もしかしてしゃべれないのか?」


 頑なに声を発しようとしない女に向かってそう尋ねると、彼女は、顎を引いて視線を泳がせた。肯定とも否定ともとれぬ表情である。


 もし仮に口が利けないのだとしたら、ウチで働くのはちょっと厳しいかもしれない、と白狼丸は思った。そうなるとますます平八に囲われている線が濃厚になってくる。


「まぁ、そんなことはどうでも良いや。会えて良かった。お前に会いたくて来たんだ」


 あっち座ろうぜ、と長椅子を指差すと、女はゆるりと笑った。さっきまで井戸の陰で縮こまっていた女が、自分に対しては逃げようとも隠れようともしないのが嬉しい。あまつさえ、笑みを浮かべてくれるなど、天にも昇らんばかりの心地である。


「またお前に会えたら何を話そうかと、今日はそればかりを考えていたんだ」


 そう言って頭を掻くと、何がおかしいのか、女は声も上げずに笑った。そんな顔を見れば、もっともっと楽しませてやりたいと思う。

 だから彼は、たくさんのことを話した。石蕗屋ここに来る前のことや、来てからのこと。どう考えても女が喜ぶような内容ではなかったが、もちろん極端に下品な言葉は使わないようにしたし、多少の誇張はしたが。それでも、女は袖で口元を隠しつつ、実に楽しそうに笑っていた。


 中庭には彼の声だけがあった。

 しかし、月明かりの下に伸びる影はきちんと二つ仲良く並んでおり、その主達は、顔を合わせて楽しげに笑い合っていた。


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