雛乃の水難騒動②

 慎重に慎重を重ね、来た時の倍の時間をかけて屋敷に辿り着く頃には、体力には自信のあった三人もすっかり疲労困憊である。


 用心していたお陰であれ以降は水の被害を受けずに済んだものの、雛乃は屋敷に入ってからもきょろきょろと忙しなく視線を這わせていて、いまにも廊下の陰から盥を持った女中が飛び出してくるのでは、などとそんなことまで考えて怯えている。


「雛乃お嬢様、もうお部屋に戻ってはいかがでしょう」


 太郎がそう言うと、「では、一緒にいてください」と袖を引かれる。

 それに慌てたのは白狼丸と飛助だ。


「嬢ちゃん、それはまずいだろ」

「そうだよお嬢様。いくらこのタロちゃんが人畜無害っつったって、一応男なんだから!」


 と、そう言ってから、白狼丸と飛助は同時に太郎を見た。


 確かに、一見人畜無害な男が女と二人きりになった途端に獣の顔を見せることはある。果たして十のわっぱに対してもそういうことをするだろうか、というのは置いておくとしても。


 ただ、これだけは断言出来る。


 この太郎に限っては、天地がひっくり返ってもそんなことは起こり得ないだろうな、と。


「……まぁ、一応男ではあるんだけどな」

「タロちゃんだからなぁ」


 だったら別に部屋に通しても問題はないんだろうな、とは思うものの、どちらかといえば、雛乃の方が襲い掛かりそうではある。ならばやはり駄目だ。太郎の貞操が危ない。


「何だ、二人共。俺がどうした」


 もちろん、太郎は何もわかってないような顔をして、ただただ己をじぃっと見つめてくる二人に眉を顰めた。


「いや、良いんだ。タロちゃんはもうしばらくこのままで良いんじゃないかな」

「そんじゃ、もうしばらくしたら飛助が教えるってことで良いな?」

「何でおいらなんだよぅ」

「お前のが年上だろ? 経験豊富なんだろ? おうおう」

「もぅ、都合の良い時だけ年下ぶってぇ!」

「いや、だからさっきから何の話を。とにかくこんなところで喧嘩はよさないか」


 自分の話かと思っていたのに、いつの間にやら始まってしまった口論を窘める。言われてみれば確かに『こんなところ』ではある。何せ、屋敷の玄関だ。


「もう帰って来たのか」


 と平八がどたどたとやって来たので、これ幸いと、彼に雛乃を押し付けた。


「おうよ、何せおれ達ゃ見張りがつくほどのワルだからなぁ。あんまり遅ぇと大騒ぎになると思って気ィ遣ってやったんだよ」

「そうそう、ちゃぁんと健全に遊んで来ましたよぅ、ねぇ、お嬢様?」

「お休みをいただきましてありがとうございました。明日からまたしっかり働かせていただきます」


 へらへらと笑う二人とは対照的に、太郎は折り目正しく頭を下げた。そんな姿を見れば、やはり雛乃の婿はこいつしかおるまい、と平八は満足げに頷く。


「雛乃や、疲れたろう。さ、行こう行こう。おい、誰か茶を淹れろ。美味い水菓子をいただいてな、ワシと――」


 そう言って、平八が雛乃の肩を抱いた時だった。


「ひいい!」


 そう叫ぶなり、雛乃はだっと駆け出した。恐らくは『水』という言葉に反応したのだろう。それがわかる三人は揃って「あぁ」と発し、それを知らぬ平八だけが、「ワシ、何かした……?」とその場に呆然と立ち尽くしていた。



 さて、それから一晩明けて、昼の休憩を終えた飛助が、午前中にやり残した仕事の続きに取り掛かろうと作業部屋の戸を開けた時である。


「あれぇ? お嬢様?」


 雛乃がいた。

 飛助が愛用しているくたびれた座布団の上にちょこんと座って、じっとりとこちらを睨んでいる。

 すると、彼の存在に気付いた先輩の一平が明らかにホッとしたような顔をして立ち上がった。


「ああ、やっと来たな、飛助。ほら、お嬢様、飛助が戻って参りましたよ」


 厄介事でも押し付けるかの如くに彼女の背中を押す。うんざりしたような彼の表情を見れば、どうやら雛乃は随分長いことここにいたらしいことがわかる。


「え? おいらに御用なんですか、お嬢様?」

「どうやらそうらしいんだ。飛助、お前今日の仕事は良いから、お嬢様の相手をして差し上げなさい」

「えぇ? でも、今日中に仕上げてしまいたいやつが……」

「そんなの俺がやっとくから。お嬢様がわざわざおいでくださったんだぞ?」

「うえぇ、一平さんの仕事雑なんだよなぁ」

「あっ、お前先輩に向かって」

「だって事実だもん。良いですよぅ、明日やるから。絶対に触んないでくださいよぉ?」


 そう何度も念を押し、とりあえず、話があるんなら食堂にでも行きますか、と促す。お峰母さんが「アンタが最後だよ」と言っていたので、夕飯の準備の時間まであそこは誰もいないはずである。


 昨日の今日で一体何なんだ、と思いながら、とぼとぼと彼の後ろをついて来る雛乃を見れば、どこか様子がおかしい。明らかに元気がない。


 まぁ昨日、色々あったしなぁ。


 そんなことを考える。

 しかし、水難は昨日一日だけのはずだし、もう気にすることはないはずだ。


 そう思っていたのだが。



「昨日の扇子屋に連れて行きなさい」


 食堂の椅子に座るなり、開口一番に言われたのがこれである。太郎がいない場では態度が随分違うものだと苦笑する。しかしそういうところもまた可愛らしいではないか。そう思えるのが飛助という男である。


「それは良いけど、どうしたんですか? もう水難は去ったんでしょう?」


 お峰母さんはいなくとも、茶を淹れることくらいは出来る。どうぞ、と湯飲みを彼女の前に置いたが、まだ『水』絡みのものが怖いのか、それを出来るだけ自分から遠ざけて、そうだけど、と言った。


「それにあの扇子屋ならお嬢様一人でも行けるでしょうに」


 何せ一本道なのだから、迷うなという方が無理である。


「護衛よ護衛。わたくしは石蕗つわぶき屋の一人娘ですのよ? 何かあったらどうなさるおつもり?」


 何かあったら、と言われても。

 一人で出歩いて何かあったのであれば、それは飛助の責任にはならないだろうし、であればむしろ、同行して何かあった時の方が怖い。


「それはそうですけどぉ。ていうか、だったらタロちゃんの方が……」


 どうしてもやりかけの仕事がちらつき、心の中で「タロちゃんごめん!」と詫びつつその名を出す。すると雛乃は、しゅんと項垂れた。


「わたくしだってそう思いましたわよ。だけど、お父様が、太郎様が店にいなかったせいで昨日一日の売り上げがかなり落ちたっておっしゃって」

「さすがはタロちゃん。すっかり看板娘になっちゃってまぁ……」

「仕方ないから、白狼丸か飛助にしなさい、って」


 そこで何でおいらを選ぶんだ! 

  

 そう思わないでもないが、いや、白ちゃんかおいらなら、そりゃあおいらになるよな、と納得する。


「仕方ないなぁ。わかりましたよぅ。そんじゃさっさと行きましょ。詳しいことは歩きながら聞きますから」


 すっくと立ち上がってにこりと笑うと、雛乃はやっと安心したのか、つられて笑みを見せた。


「ああでも、おいらには惚れないでくださいね。おいら、昨日も言いましたけど、年上のお姉様の方が――」

「それは絶対にないから安心して」


 軽い冗談のつもりが本気で返され、飛助は「ひっでぇなぁ」と肩を竦めた。

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