いざ鬼ヶ島

出航当日①

 結局その夜は、想いが通じたその勢いのまま、いっそ契りも結んでしまうかとも思ったが、耐えた。何せ翌日には大仕事を控えているのである。頭である太郎の身に何かあったら――確実にあるだろう――大変だと、その日は抱き合って口づけを交わすのみにとどめた。名前を呼び合い、好きだと何度も言い合って、どちらからともなく貪るように口を吸った。


 それだけでも白狼丸は十分に満たされたし、茜もまた同様のようであった。そもそも太郎にしたって、その先を知らないのだ。大方、これが夫婦の契りであるとでも思っているかもしれない。満ち足りた顔で彼の腕を枕に寝息を立てる茜を見て、得も言われぬ心地になる。いまこの瞬間、おれは間違いなくこの世で最も幸せな男だと、その幸せの象徴とも言える柔らかな身体を抱き締めて、彼は眠りについた。



 そして翌朝である。

 先に目を覚ましたのは太郎であった。


 そば殻の枕とは明らかに違う感触と、鼻先にある温みを不思議に思いながら目を開けてみれば、そこにあるのはたくましい男の胸であり、さらにいえば、寝間着の前をがばりとはだけさせた白狼丸の日に焼けた胸筋であった。そして、太郎の頭の下にあるのは、その彼の太い腕のようである。


 つまり彼は、白狼丸に抱かれたまま眠り、朝を迎えたというわけだった。


「――わ、わああああっ!」


 昨夜散々に吸われた唇をごしごしと擦り、飛び起きる。さっきまであった温もりが急になくなったことと、野太い男の悲鳴を聞いて、何だ何だと白狼丸も目を覚ました。


「おう、珍しく今日はお前の方が早かったか。どうした、朝っぱらから」

「どうしたはこっちの台詞だ。は、白狼丸、昨日俺に何をした!」

「何を、って。お前じゃねぇよ、茜の方だろ。『太郎』の方のお前には誓って何もしてねぇよ」

「そうかもしれないけど!」

「おうおう、相手がおれだとわかるやすっかり恥じらいを覚えちまって」


 昨夜の記憶はしっかりと残っている。薄ぼんやりとした夢などではないことも、相手が誰なのかもはっきりと覚えている。幸せなひと時はその感触もすべて残っていて、その息苦しさまでも愛しい口づけの雨や、己を抱く強くも優しい腕の力、散々に耳朶じだを震わせた吐息混じりの甘い声などを思い出すと、羞恥に顔が熱くなる。

 ここへ来てやっと、友人同士でするものとは違う、特別な『抱擁』があることを知った太郎である。


「言われてみれば、何だか急に恥ずかしく……。ていうか、俺を抱いたまま寝るなよ!」

「いま気付くのかよ、それ。しかし、男の時はそういうんじゃねぇってのは本当みてぇだなぁ。っつうかな、おれが抱いたまま寝たんじゃねぇ。お前がおれに抱かれに来て、そのまま寝たんだ。その証拠に、ほら」


 と指差すのは、きれいなままの太郎の方の布団である。つまりは、そもそも潜り込んできたのはお前の方だぞ、と、そういうわけである。それを言われてしまうと、太郎は言い返すことが出来ない。ぐぅ、と喉を詰まらせた。


 成る程成る程、と白狼丸がその場に胡座をかくと、太郎はそそくさと自分の布団の上に座った。距離を取って向かい合う形になり、もそもそと白狼丸が寝間着の前を直すのを、いたたまれない気持ちで見つめる。


「いや、でも安心したわ」

「何がだよ」

「もしおれが男に戻ったお前にも抑えが効かなくなったらどうしようかと思ってたんだ」

「よしてくれよ」

「だからな、安心したんだって。おれも全然その気にならん。自慢の愚息もげんなりよ」

「何を言ってるのかよくわからないけど。とにかく、ああいうのは絶対に茜の時だけだからな」

「わかってるっての」


 ぶすくれたような顔で口を尖らせる太郎に、「今日は勝負所だぞ、気合い入れろ」と言うと、「わかってる」と返ってくる。その低い声も、強い眼差しも、すっかり男のそれだ。


 昼は友達、夜は妻。

 これならしっかり線を引けそうだと、白狼丸は胸を撫で下ろした。



 身仕度をするのについ背を向けてしまうのは、昨夜の行為の気まずさからだろうか。


 そんなことを思い、ちらりと後ろを見れば、同じくこちらを盗み見ていた太郎と目が合う。


「……何だよ」

「それはこっちの台詞だ。おれの裸に見とれてんじゃねぇよ」

「見とれてない。白狼丸の裸なんて子どもの頃に何度も見た」

「ばぁっか、あんなガキの頃とはちげぇだろ」


 見せつけるように腕に力を込めると、盛り上がった筋肉を見て、太郎は、ふん、と口を尖らせた。彼ほどの厚みは太郎にはない。男として、それが悔しいのだろう。


「そういや、何で茜はずっとしゃべらなかったんだ」


 いつまでも裸でいるわけにもいかず、ばさり、と着物を羽織る。袖を通してまたちらりと後ろを見ると、太郎の方は着替えに集中しているようだった。


「茜の時の行動は、正直俺にはよくわからないことが多いんだ。特に最初の頃は夢だと思ってたし。茜が頑なにしゃべりたくない様子だったから、俺もそうしてただけだ。どうしても気になるなら、茜の時に聞いてくれ」

「へぇ、そういうもんなのかねぇ」

「悪いな。でも、俺が男だから、女のしゃべり方を忘れてしまったんじゃないかとは思う」

「成る程。確かに昨日も口調は完全にお前だったもんなぁ」

「だからさ」


 きっとお前の前では可愛い女でいたかったんだろうよ、と言うと、白狼丸は、ぐぅぅ、と呻いてその場に蹲った。


「え? おい、大丈夫か、白狼丸?」


 膝歩きで近付き、その肩を優しく揺する。布団に突っ伏している顔を覗き込むと、彼は耳まで赤くして、悶えていた。


「ちっくしょう、可愛いな、あいつ!」

「えっ?! あ、ああ、そう、なのか? ええと、これは俺がありがとうって言うべき?」

「むしろお前は言うな! 恥ずかしいっ!」




 身仕度を済ませて食堂に向かう。

 席には既に飛助と青衣が着いていて、朝食は四人分が用意されていた。


 いただきますの数秒後、眠そうな目をした飛助が青い顔で、向かいに座っている太郎と白狼丸に言う。


「この宿さぁ、何か出ない?」


 どちらともなしに、何が? と返せば「夜半に女の啜り泣く声が聞こえたんだよぅ」と眉を下げる。


 ぐ、と同時に飯を詰まらせかけ、太郎と白狼丸は涙目になった。


「あんまり怖いから、姐御の布団に潜り込もうとしたんだけど、この助平って怒られちゃうし」

「お前、端からそれが目的だったんじゃねぇのか」

「違うよぅ! おいらほんとに怖くてさぁ」

「とか何とか言って、子守唄一発で夢ン中だったじゃァないのさ」

「姐御一服盛ったろ!」

「ほほ、何のことやら」


 そんなやりとりでどうにか話題が逸れてくれたと二人がホッと胸を撫で下ろす。


 が。


「わっちはその後、何やら艶っぽい声が聞こえてきたことの方が気になって眠れなかったけどねェ」


 顎に人差し指をあて、青衣が、思い出すように天井を見上げながらぽつりと呟く。


「えぇー! 何それ! おいらもそっちが良かった! もう、起こしてくれよぅ、姐御の意地悪!」

「ほっほ、お猿が聞いたら、覗きに行くとか言い出すだろう? せっかくの初夜、邪魔しちゃァ悪いじゃないか」


 えーっ、何で初夜だってわかるんだよぅ、と興奮する飛助を無視し、うんと含みを持たせて、二人もそう思うよねェ? と流し目を寄越されると、太郎は耳まで赤くなって硬直し、白狼丸は――、


「まだヤッてねぇよ!」


 と立ち上がって抗議した。


「えっ? 何? 白ちゃんなの!? いつの間に女連れ込んだんだよ! ていうか隣にタロちゃんいるのに最低!」

「そういうことじゃないんだよゥ。ほんと馬鹿だねェ、このお猿は。ていうか、アンタも生々しいこと言ってんじゃァないよ、犬っころ」

「うるせぇ! お前も黙ってねぇで何か言え、太郎!」


 ぐるる、と唸って隣に座る太郎を見れば、彼は両手で真っ赤な顔を隠しており、その指の隙間から、


「俺じゃないのに……」


 と涙混じりの弱々しい声が聞こえてきた。


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