茜と白狼丸①

 声が聞こえた。


 白狼丸、と。


 鬼ヶ島行きを翌朝に控えた、その夜半のことである。


 聞き覚えのない女の声だった。

 何だ、誰だようるせぇな、と思い、布団を被って無視を決め込んだが、その声は止むことはなかった。それどころか、胸の辺りにずしりとした重さまで加わり、その高く柔らかな声は尚も、白狼丸、白狼丸、と呼ぶのである。そこでいよいよ彼は覚醒した。どこのどいつだ、このおれの眠りを妨げるやつは、と目を擦ると、そこにいたのは愛しい女である。


「あ、茜……? お前、どうしてここにいるんだ?」


 恋しさが見せた幻か、はたまた幸せな夢かとその頬に手を伸ばす。茜は、その手を取って自身の頬へと導いた。その暖かさを確かめるかのように、目を伏せ、ゆっくりと頬擦りする。もう片方の手も使って両頬を挟むようにしてやると、彼女はそのまま彼の胸へと倒れ込んできた。


 華奢な身体を優しく抱き締めると、とくとくという脈の音が伝わってくる。寝間着越しに伝わってくる柔らかな温もりに、理性が飛びそうになる。


 これは夢じゃない。幻でもない。


 ならばなぜここにいるのだという疑問も湧くのだが、それよりも気になることがある。


「茜、いまおれの名を呼んだか?」


 確かに聞いたのだ。白狼丸、と呼ぶ声を。


 腕の中の茜が、こくり、と頷く。


「お前、しゃべれたんだなぁ。なぁ、もう一度呼んでくれないか」

 

 頼む、と腕に力を込めると、控えめな声で「白狼丸」と聞こえた。嬉しさに頬が緩む。


「そうか、そんな声だったんだな」


 そうかそうか、と尚も言って、小さいわっぱにでもするように、頭を撫でる。艶のある長い黒髪に指を通していると、そうだ、と同じく美しい黒髪を持つ男の存在を思い出した。


「あぁ茜、すっかり忘れていた。お前に紹介したいやつがいるんだ。おれの一等大事な友達でな。いや、男だから妬いてくれるなよ。太郎っていうんだ。ほら、すぐそこで寝て――あれ、いねぇな。厠か?」


 何だってこんな時にいねぇんだ、と苦笑すると、


「いるよ」


 と声がする。腕の中の茜である。


「うん? 何がだ?」

「いるよ、ここに」

「だから、何が」


 と視線を合わせる。

 彼をまっすぐ見つめるその凛とした眼差しに覚えがあった。まさか、という思いで、背中が、すぅ、と寒くなる。


「太郎は、ここにいる」


 それは、茜の顔で、茜の声だった。けれど、腕の中の茜は、確かに太郎のようにも見える。


「どういうことだ。茜じゃないのか」


 離れようと腕を緩めるが、そうはさせじと襟を掴まれる。


「話を聞いてくれ。頼むから、離れないで」


 縋るような声を出されれば、それが茜だろうが太郎だろうが従わぬ白狼丸ではない。寒いのか、小さく震えている華奢な肩を抱き、「離れねぇから、ゆっくり話せ」と促す。ありがとう、という声と、すん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。


「さっき言いそびれたことで」


 そういえば太郎は、話はあともう一つあると言っていたのだ。飛助と青衣の乱入によって有耶無耶になってしまっていたことを思い出す。


「桃の木が近い村を離れたからなのか、町へ来てから、夜半になるとこの姿になる」

「女の、姿にか」

「女の、というか、鬼に、だ」

「はぁ?」


 夜になると女に変わるというのも十分信じがたい話だが、鬼になるというのはそれ以上である。けれど、白狼丸が茜の前髪をかき上げてみると、そこには小さな瘤のようなものが二つあった。触れると、ざらりと硬い。


「さっき、いまはないって言ったじゃねぇか」

「だから、男の時には、ないんだ。俺は元々女鬼めおにだった。それが、桃に閉じ込められて赤子に遡る中で男になったらしい。だから、人の時は男で、鬼の時は女なんだ」


 気味が悪いだろ、と自嘲気味に笑う。


「だけど、最初はこれも夢かと思ったんだ。俺は夢の中で鬼になって、それで、男と――お前と会ってた。俺と茜は、意識がちゃんと繋がってないっていうか、それがお前だと気付いたのも昨日のことなんだ。しばらくはずっと、ただただ幸せな夢を見てるんだと思ってた」


 そう言って、苦しいのか胸を押さえる。


「自分でも気付かないうちにあそこにいて、それで、布団の中で朝を迎える。朝になると俺は男で、太郎に戻ってた。中庭で会ってたお前のこともぼんやりとしか覚えていなくて、ただ、すごく良い夢を見たって記憶しかなかった」


 おれとの逢瀬はすべて夢だと思っていたのか、と白狼丸は肩を落とす。けれど、いまもそう思っているのだとしたら、現状の説明がつかない。なぜ茜はおれの腕の中にいるのだと。


「だけど、そのうちに、もしかしたらこれは夢ではないのかもしれないと思い始めたんだ。白狼丸に名前を教えて、それで、お前が何度も呼んでくれた時のことだ。あの日、強く手を握ってくれたろ」


 おう、とだけ返す。

 茜が太郎だとわかると、これまでの逢瀬で幾度となく囁いた言葉の数々が途端に恥ずかしくなる。それに彼は昨夜、言ってしまったのだ。


 お前のことが誰よりも愛しい。おれの妻になってくれ、などと。


 いますぐにでも、ぐわぁ、と叫んでこの場から逃げ出したい気持ちになる。けれど、いくら太郎だとわかっていても、腕の中にいるのは茜なのである。震えている彼女を放り出して行けるわけなどない。


「その手が暖かくて、気持ち良くてさ。目か覚めてもずっとその感触が残ってたんだ。それから少しずつ、これは現実なんじゃないかって思い始めた。それで昨日、やっと茜と俺が繋がって、自分の好いた相手がお前だったって気付いたんだ。ごめん」


 ごめん、ごめん、と何度も繰り返しているうちに、その声に涙が混じっていく。華奢な身体をきゅうと縮めて懸命に涙を堪えようとしているのか、喉の奥から苦しそうな声が漏れてくる。 

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