白狼丸と物言わぬ女

真夜中の逢瀬①

 飛助の愚痴を聞きながらの夕食を終えたその夜半のこと、白狼丸は酷い喉の渇きで目が覚めた。


 あの飯のせいだな。


 今日は食堂係のおみね母さんが休暇をとっていたために、のくじを引いた従業員が作ることになっていたのである。


 料理には多少自信があるとふんぞり返っていた庄之介の作る飯は、確かに味は良かった。けれど、つい食べ過ぎてしまう味、というか、はっきり言えば濃かったのである。塩辛かったのは飛助の涙などではもちろんなかったのだ。


「お前らみたいな若いやつにゃ良いんだろうが」


 年配の兄さん連中はそう苦笑して何度も茶をおかわりしていたし、薄味を好む太郎もいつもの三倍は飲んでいたと思う。


 白狼丸はまぁいつもより白飯が進むな、と呑気に考えてもりもりと食べ、茶もそこそこに席を立った。そして風呂を済ませてさっさと床に着き――、


 現在に至る、と。


 同室の先輩方はぐうぐうといびきをかいている。ぐっすり寝ているのが妬ましく、わざと戸を乱暴に開け閉めして、白狼丸は水を飲みに食堂へ向かった。


 いや、わざわざ食堂でなくとも中庭の井戸で良いだろう。そう思い直して、廊下をぺたぺたと歩く。

 

 日中は常に誰かが忙しなく走っているこの廊下に何の音もないというのは、どうにも落ち着かない。月が眩しいくらいの夜だったのが幸いだった。これで月が雲に隠れでもしていたら、物の怪でも出るのではと柄にもなく怯むところである。


 と。


 中庭の井戸の周りに置いてある長椅子に、誰かが座っていることに気が付いた。


 おれと同じやつがいるんだな。


 大方、喉の渇きで目が覚めてしまったのだろう、と想像し、勝手に親近感を覚える。


 しかしあれは誰だろう。髪の長さと線の細さからして女のようだ。だとすると、声をかけるのはまずいかもしれない。


 何せお互い薄い寝間着姿なのである。男の白狼丸は良いとしても、女人は恥ずかしいだろう。


 ま、ウチの姉さん達に恥じらいがあるなら、だが。


 そんなことを考えて笑いを噛み殺す。この長屋で女といえばそれは即ち『姉さん』なのだ。


 いきなり背後から近付けば驚かせてしまうだろう。そう思って、共用の下駄をわざと音を立てて履く。こちらに背を向けて座っていた女は、狙い通りに振り向いた。


 やはり物の怪ではあるまいか。


 そう思ったのは、その女がとても美しかったからである。石蕗つわぶき屋の従業員にこんなに美しい女はいない。男衆の中で度々話題になる五月さつき八重やえすら霞んでしまうほどの美しさである。


 こんな時間に人と会うなんて思いもしなかったのだろう、その女は驚いたように目を丸くしている。そんな表情も一幅の絵のようで、白狼丸は思わず見とれてしまった。


 だが、いつまでもそうしているわけにもいかない。あぁ、だか、おぉ、だか、やっと声が出るようになって、白狼丸はゆっくりと井戸へと歩いた。


「こんな時間に何してんだ」


 何してんだ、は彼とて同様である。けれどそれ以外にかける言葉が見つからなかった。女は、ただ、困ったように眉を寄せてふるふると首を振るばかりである。口元が微かに濡れていたところを見ると、やはり水を飲んでいたのだろう。


「喉渇くよなぁ、今日は。庄さんの飯、しょっぱかったもんなぁ」


 そんなことを言いながら、水を酌む。ちらりと女を見ると、彼女はやはり白狼丸の言葉に返すこともなく、ただただ、視線をおどおどと地面に這わせていた。


 男に慣れてねぇんだな。


 そんなところもまた好ましく映る。有り体にいえば、白狼丸はその女に一目惚れしてしまったのであった。


 ならばこれ幸いと手を出すような白狼丸ではない。せっかくここまで男を知らずに来たのだ。その最初の男が自分であれば良いのに。いいや、そうしてみせる。ならば、いますぐ手を出さずともいずれはそうなるのだから、焦ることはない。焦って手を出し、怖がらせてしまえばおしまいだ。


 そんなことを考えて、無闇に近付いたりはしなかった。普段の彼からは想像も出来ない慎重さである。


「ここで働いているのか?」


 寝間着も借りものなのか、大きいのを無理やり着ているようだし、もしかしたら新顔なのかもしれない。最も、これほどの器量良しが入ったとなれば、あっという間に彼の耳にも届くはずなのだが。

 

 しかし女は、首を縦にも横にも振らなかった。


「平八の旦那の親戚か? 娘は雛乃嬢ちゃんしかいねぇはずだし」


 それについては、はっきりと首を横に振った。


 とりあえず、狸親父の親戚にならずに済んだことに安堵する。白狼丸の中でこの女を娶ることは最早確定事項になっていた。


 そろそろ部屋に戻るつもりなのだろう、長椅子から腰を上げた女に向かって、引き止めるように声をかける。


「なぁ、名前は何ていうんだ。おれは白狼丸だ」


 けれど女はそれに答えることはなかった。ただ、首だけを彼に向け、やはり困ったような顔で薄く笑っただけだった。


「また、ここに来るか? なぁ!」


 この一回で終わってたまるかと、女が歩き出す前にそう尋ねる。


 すると女は、少し躊躇う素振りを見せた後で――、


 こくり、と頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る