青衣の予言①

「本当にはしたないところをお見せしてしまいました!」


 追い付くなり、雛乃は通りの真ん中であるにも関わらず、そう声を張り上げて頭を下げた。歩いているうちに頭が冷えたのか、怒りよりも太郎の前で醜態を晒してしまったことを気にしているようである。


「雛乃お嬢様、お顔をお上げください」

「あんなみっともない姿、太郎様に見せてしまうなんて」

「そんなお気になさらず。どうか、私なぞのために頭を下げるなんてお止めください」


 どうか、どうか、と繰り返すと、やっと雛乃は頭を上げた。しかし表情は強張ったままで、太郎は、さてどうしたものか、と頭を悩ませる。


 きっと飛助ならば、彼女の目の前でくるりと回ったり逆立ちをしてみせたりして元気づけるのだろう。白狼丸ならば、もう気にすんなと言って大口で笑い飛ばすのだろう。


 では自分には、何が出来る。

 子どもとはいえ、女を元気づけるような方法を太郎は知らない。


 ふと並んだ商店に視線を向けると、美味そうな果物がずらりと並んだ青果店が目に留まった。


「雛乃お嬢様、喉が乾いていませんか?」

「え? え、えぇ」

「あちらに美味そうな果物が。行きましょう」


 本当は手でも引くべきなのだろうと思う。けれど、力加減を間違えて、このか弱き少女の小さな手を握りつぶしたりでもすれば大変だ。雛乃が一歩踏み出したのを確認してから、その前を歩く。


「どれにしましょうか」


 青果店の前に立てば、瑞々しい果実の香りが鼻孔を擽る。その中に、いまではかなり遠い存在となった桃色の果実が見え、一瞬怯んだ。


 彼女がそれを選びませんようにと祈ってみるも、それはどうやら叶わないらしく、その小さな手は、迷わずに桃へと伸ばされてしまった。


「ここから山を二つほど越えたところには、どの季節でも桃が食べられる村があるのだと聞いたことがありますの」


 にこりと笑って表面の産毛をなぞり、くん、とその香りに目を細める。もちろんこれも彼女は狙ってやっている。姉さん達が言っていたのだ、雛乃くらいの年頃の少女が、花や果実を無邪気に愛でる姿もまた殿方にはたまらなく可愛らしく映るものだと。


「山を二つ……」


 それはきっと白狼丸の故郷の村のことだろう、と太郎は思った。彼はそこで初めて桃というのは、普通、どの季節でも食べられるものではないらしい、ということを知ったのである。幼き頃、さすがに毎日ではないにしろ、週に三日ほどは夕食の最後に桃が出ていたので、当たり前に食べられるものだとばかり思っていたのだ。


「わたくし、これにしますわ」

「はい、では――」


 と、袂から封筒を出し、店主を呼ぶ。金を払うと、もしよければここで食っていかないか、と椅子を勧められた。見目の良い者が店先で食べてくれればそれだけで良い客寄せになるから、と。せっかくだから、そうしましょうよ、と雛乃に袖を引かれれば、断れるわけもない。その分安くするよと釣りを多く渡され、店主が皿に盛りつけてくれた桃を雛乃の膝の上に乗せて、二人並んで腰かけた。


「わぁ、とても甘いですわ。太郎様もお一つどうぞ」

「いえ、これは雛乃お嬢様のですから」

「遠慮なさらず。さぁ」


 雛乃の表情を見れば、その桃は当たりなのだろう。血色の良い小さな唇が果汁で潤んでいる。それに見とれている様子の店主もまた、「いや、今回の桃は実に出来が良くて」などと聞いてもいないことを得意気に話し出した。ですが、とやんわり断ると、雛乃は、「太郎様はわたくしの桃を召し上がってくださらないの?」と切なそうに眉を寄せ、つん、と唇を尖らせる。少女らしい、あどけない仕草に店主は目尻を下げた。ここに飛助がいたなら、やはり彼もまた「ほんとお嬢様ってば可愛いなぁ」と鼻の下を伸ばしていたはずだ。


 が、もちろん太郎にそれが通用するわけもない。けれども、彼にとってはただただ、『わたくしの桃を召し上がってくださらないの?』という言葉だけがしっかりと刺さった。雛乃は彼の雇用主である平八の一人娘である。その一人娘の命令ということであれば、聞かぬわけにはいかない。


「で、では」


 震える手で、一切れ摘まみ、ゆっくりと口に入れる。

 実に数年ぶりの桃である。懐かしい故郷の味でもある。

 ばあ様は手製の竹かごをいくつも持って、あの山道を登り、太郎のためにと桃をたくさんもらって帰ってきてくれたものだ。

 じい様には内緒だぞ、などと言って、別にそれを咎めるじい様ではないだろうに、夕食の前にこっそりと太郎の口へとそれを運んでくれたこともある。

 

 桃は、太郎にとってやはり特別な果実だった。

 うんと幼い頃は、それはもう美味そうにその汁を啜っていたことも知っている。けれど、物心つくようになって、それを味わう度に、何とも言えぬ不快感が込み上げてくるようになったのだ。吐き気とはまた違う、何やら得体のしれないもやもやが腹の底から湧いてくるような感覚がある。

 桃を美味と思うほど、それは強く彼の中で蠢いた。桃を口にした後は、しばらくの間、動くのも億劫になるほどに全身が怠くなる。たいていの場合、桃を食うのは夕食時だったため、今日はもう疲れたと言ってそのまま横になってしまえば良かった。一体これは何なのだと、布団を被って丸くなり、震えながら眠りについたものである。


 やはり今回も、たったその一切れで、太郎は数年ぶりにそれを味わった。身体のどこかで、嫌だ、止めてくれ、という声さえ聞こえてくるようで、思わず震え出した膝を押さえる。


「太郎様? いかがなさいました?」

「いえ、久しぶりの外出で、少々疲れただけでございます」


 やっとの思いでそう返す。

 白狼丸と飛助が恋しい。あの二人がここにいてくれたら、少しでも気が紛れるだろうし、雛乃の相手もしてくれるだろう。


「それは大変ですわ。さ、どうぞもう一つ召し上がってください」

「いえ、これ以上は、もう」


 大丈夫です、と己自身に言い聞かせ、勢いよく立ち上がる。きっと座っているから駄目なのだ。いっそ動き回っていた方が良いのかもしれない。大の男がたかだか一切れの果実に屈してどうする、と。


 けれど、太郎の身体はそこで崩れた。


 きゃあ、という雛乃の悲鳴と、がしゃん、と何かが落ちて割れる音。それに次いで、太郎! と彼の名を呼ぶ白狼丸の声が聞こえた。いつの間にやら近いところまで来ていたらしい。


 もしいま神様の手によって、この命が気まぐれに刈り取られるのだとしたら、最期に聞くのがお前の声で良かったと、そんなことを思いながら、太郎の意識はそこで途切れた。


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