青衣との出会い②

「雛乃お嬢様が申し訳ないことをした」


 そう言って、太郎は頭を下げた。袂の中に入れていた手拭いを取り出して手渡すと、青衣あおいは「かえって気を遣わせちまったねェ」と笑ってそれを受け取った。


 化粧が崩れないようにだろう、折り畳んだ手拭いを滑らせずに押し当てる。茶はきれいに拭き取れても、流れてしまった白粉はどうにもならず、白かった青衣の肌はまだらになってしまっている。


「あのお嬢ちゃん」


 雛乃が飛び出して行った方を、じぃ、と見つめる。まだあの小さな背中ははっきりと見えるところにあった。


「追わなくて良いのかえ?」

「飛助と白狼丸のところへ行くと言ったから」

「ああそうかい。全く鈍い色男だこと」


 茶の染みた着物にも、とんとん、と手拭いを当てていく。それの調子に合わせて、何やら楽しげに聞いたことのない歌まで歌いながら。


「さっきの、相というのは」


 青衣の手と歌がぴたりと止まる。視線だけをこちらに向けて、にや、と笑った。


「興味がおありかえ、坊」

「どこまでわかるんだ」

「他人のことなんて、どこまでもわかるし、どこまでもわかりゃせん」

「どういうことだ。さっき、雛乃お嬢様のは当てたんだろう?」

「だァから、ほとんど出任せさね」

「何」


 あれくらいの年の子が知りたいことといやァ、好いた相手とのことと相場が決まってるんだよゥ、と言って、青衣はけらけらと笑った。


「言ったろ、当たるも八卦当たらぬも八卦、って。何、人助けってやつさ」

「人助け?」

「まァだ気付かないのかねェ、この色男は」

「何のことだ」


 あの嬢ちゃんの好いた相手って、アンタのことだよゥ、と言って、今度は視線だけではなく、身体ごと太郎に向き合った。運よく難を逃れたのか、それとも、水に強いのか、鮮やかな紅の色だけは目に焼き付くほどにはっきりと赤い。


「困ってただろう?」

「別に困ってなんか」

「嘘をお言いでないよゥ。顔に書いてあらァね」


 そう言って青衣が目を細めると、太郎は慌てて自身の頬をぺたぺたと触った。

 

「どこにそんなことが」


 そのあまりの狼狽ぶりに、青衣は口元を袖で隠しつつ、ころころと笑う。


「そういうことじゃァないんだよゥ。でも、どうだろうね。案外坊の方でも、当たってたりするのかえ?」

「当たるって、何が」

「心に決めた方、ってェやつさ」

「心に決めた、というのは、つまりどういうことなんだ」

「おや、そこまで初心うぶとはねェ。さっきの嬢ちゃんよりよっぽど可愛いじゃないのさ」


 青衣は目を細めて薄く笑うが、太郎とて立派な男子である。可愛いなどと評されて喜ぶのはせいぜいわっぱだ。だから少しばかり頬を膨らませて目を伏せた。


「あれま。怒ったかい? 悪いことをしたねェ。堪忍堪忍。でもわっちの見たところじゃァ、あながち外れてもいないようだ。きっといるんだろうさ、まだ気付いていないかもしれないけど」


 そう言って、ふん、と鼻から息を吐く。


「気に入ったよ、坊」


 これで締めだと言わんばかりににんまりと笑い、手拭いを膝の上に置いて、まっすぐに手を伸ばす。細く長い指が太郎の顎を、つぅ、となぞった。


「困ったことがあったら、いつでもおいでな。力になるよゥ」

「困ったことが、って言われても」

「きっとあるはずさ。坊みたいなのは、厄介ごとに巻き込まれやすいからねェ」

「それも、相でわかるのか」

「いいや。これは強いて言うなら、ってやつかねェ」


 茶で汚れた手拭いをきちんと折り畳んで、ひらり、と振る。返してくれるのかと太郎が手を伸ばすと、サッと袂に入れ、「これは洗ってお返しするよ」と言った。


「返すも何も、どこに返すつもりだ」


 まだどこの誰かも名乗っていないというのに、と太郎は眉を顰める。けれど、青衣は、やはり何もかもお見通しだと言わんばかりの顔である。


石蕗つわぶき屋だろう? 名は太郎」

「なぜわかった」

「それも女の勘さ」

「女の、勘、って」

「なァんてね。坊はこの町じゃァ有名人なんだよ。道行く犬だって知ってらァね。そら、そろそろ追っておやり。あの手の女は拗らせると厄介なんだよゥ」


 青衣が通りの方へ顎をしゃくるのにつられてそちらを見ると、まだ雛乃は見えるところにいた。かなりの勢いで飛び出したはずだが、途中で疲れたのか歩きに切り替えたらしい。それにしても牛の歩みかと思うくらいに遅く、ちらちらと背後を気にしているようでもある。つまりは、待っているのである。自分のことを追いかけて来てくれるであろう者のことを。


「あの子の怒りがアンタに向かないようにしないとねェ。ちょいと耳をお貸し」


 と、顎をくい、と引かれる。

 何の抵抗もなくされるがままになっている太郎に対し、無防備だねェ、わっちが口を吸うつもりだったらどうすんのさ、と青衣は呆れたが、当の本人は「口なんか吸ってどうする」と眉一つ動かさない。それがおかしくて、青衣はまたけらけらと笑った。そして、そんなことより耳だよ耳、と言うと、顎を持って顔の向きを変え、太郎の耳にそっと囁いた。

 



「また会おうねェ、坊」


 ゆるりと笑って手を振られ、太郎は扇子屋を出た。


 雛乃の元へと駆け出しながら、ふと、昔、白狼丸から「神様が怖いか」と聞かれたのを思い出す。

 神様というのはつまり、人間の想像を遥かに越えた存在なのだから、どんなに抗おうとも勝てるものではない。ならば、理不尽に何をされても仕方がない。期待をしてはならないのだ。良いことも、悪いことも。だから、怖くない。それはいまでも変わらない。


 けれど、人は、そうではない。

 言葉が通じてしまう。力が届いてしまう。だから、こちらの出方によっては、相手を壊してしまうかもしれない。太郎はそれが怖い。自分の感情なり、物理的な力なりによって、相手を粉々にしてしまうのではないかと、いつもそれに怯えている。


 俺は、普通の人間ではないから、と。


 だから、それに耐えられる白狼丸や飛助は特別である。彼らは、どんなに自分をぶつけてもびくともしない。なぜだか会った瞬間にそうわかったのだ。


 そして、それは、どうやらあの薬師――青衣もそうであるらしい。

 ならば――、


「青衣も仲間になってくれるだろうか」


 そんなことをぽつりと呟く。


 しかしそれは一旦置いておくとして、まずは、雛乃の怒りを鎮めなければならぬ。


 先ほど青衣に耳打ちされた言葉をゆっくり思い出す。


「あの薬師が『水難の相が出ているから、今日一日、水には十分気をつけな』と言っていた、って伝えるんだ。そして何事もなけりゃァそれで良いけど、何かあったらまたおいで、とね」


 それを伝えたところで、果たして彼女の怒りは収まるのだろうか、と、太郎は首を傾げた。

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