久しぶりの休日③

 誰かこいつに色事を教えてくれ。


 そんな白狼丸の訴えは、それまでと同様の『生暖かな視線と失笑』では終わらなかった。その場にいた年上の女中達が、わぁっと押し寄せてきたのである。


「私が教えてあげる!」

「いいや、私が!」

「私なら実践込みで教えられるわ!」


 太郎にしてみれば、それまで離れたところに座って静かに食事をしていたはずの姉さん達が目をギラつかせて自分を囲み、一体何を教えてくれるものか、我が我がと身を乗り出しているのである。生来の人見知りもそうだが、元々女人に対して苦手意識がある彼は、顔色などすっかり青ざめて助けを求めるように白狼丸と飛助の袖を掴んだ。


「おいおい、姉さん達。太郎が怯えてるじゃねぇか。そんな飢えた獣みてぇにがっつくもんじゃねぇよ」

「おぉよしよしタロちゃん、大丈夫大丈夫。おいら達、姉さん達に可愛いタロちゃんを売ったりしないから安心して」


 身を縮こませている太郎の背中を擦ってやると、彼は絵巻の化け物に怯えるわっぱの如くに二人の袖に顔を埋め肩を小さく震わせている。飛助なら「そんじゃ誰にお願いしようかなぁ」などと鼻の下を伸ばすところなのだが、彼の場合はそうではないらしい。よほど女人に嫌な思い出でもあるのだろうか、と飛助は首を傾げた。


「ハイハイあんた達、朝っぱらから盛ってんじゃあないよ! これから忙しくなるんだから、とっとと食ってさっさと出なァ!」


 結局、食堂の主であるおみね母さんの檄が飛び、女中達はすごすごとそれぞれの卓へと戻っていった。


 とりあえず、例の『春』に関しては飛助の、


「あっれぇ〜? 確か東地蔵ココには春を売る店がなかったんじゃないかなぁ?」


 という苦しすぎる嘘で収めることにした。さすがに無理があるだろうと呆れる白狼丸だったが、太郎はそれをまるっと信じた。その純粋さにホッとするやら、先が思いやられるやらの二人である。

 

 さて、いつまでもこうしてはいられない。さっさと平八の部屋に行かねば彼らの休日は始まらないのだ。


 食べ終えた食器を片付け、食堂を出て、長い廊下を歩く。

 平八の部屋のある母屋へ行くには、中庭を通らなければならない。その廊下の途中で、飛助が「にしてもさぁ」とぽつりと言った。

 仲良く三人横並びで歩いていたところへ、飛助がタタッと前に出る。そうして、後ろ歩きの状態でさらに続けた。


「タロちゃんって、何でこんなに女から好かれるんだろうな」


 器用に後ろ向きでひょいひょいと歩きながら、飛助が首を傾げる。


「何でと言われても……」


 理由があるならこっちが知りたい、と口を尖らせる太郎の足取りは途端に重くなる。


「いいや飛助よ。女に限定すんのは浅慮ってもんだわなぁ。こいつの場合、男だってその気にさせちまうんだから」


 一体何人落とした、と白狼丸が茶化せば、俺は何もしてない、とむくれる。ぷう、と膨らんだ頬を突っつくと、まるで水饅頭のような瑞々しさである。


 いや、こいつの場合は――、と言った方が正しいのだろうか、と今朝嗅いだ桃の香りを思い出してしまい、かぶりを振った。いや、いいや、水饅頭で良いんだ。こいつは断じて桃なんかじゃねぇ、と。


 故郷の特産を『なんか』呼ばわりすることに心が痛まないわけではなかったが、大事な友と天秤にかければ、そりゃあ太郎に傾く。鼻の奥に残る桃の香を残らず吐き出すように、勢いよく鼻息を吹いた。


「いや、おいらもさ? 興業であちこち回ってたからさぁ、どこぞのお姫様かな? ってくらいの美女だって結構見てるわけよ」

「畜生、良い思いしやがって」

「してないしてない。何せそちらはお客さんだからねぇ、おいらが手を出せるようなもんじゃないんだ。いや、つまりね、おいらが言いたいのは」


 そこで、よっ、と後ろ向きのまま逆立ちになり、そのまま歩き出す。さすがは一族一の軽業師を自称するだけあって、二人が歩くのとぴったり調子を合わせている。


「タロちゃんより顔がきれいな人っていうのは、こぉんな広い世界なんだから、そりゃあゴロゴロいるってことよ。ウチの店にだってさ、五月姉さんとか、八重姉さんとか、きれいじゃんか」

「確かにな」

「だけど、タロちゃんが店にいる時は、みぃーんなタロちゃんなんだよ。姉さん達、楽が出来るわーなんて言ってるけど、内心はどうだかねぇ」


 はらわた煮えくり返ってるかも、と悪い笑みを浮かべると、太郎は口をあんぐりと開け、カタカタと震え出した。


「ど、どうしよう白狼丸。俺、五月姉さんと八重姉さんに謝りに行かないと」


 いまにも走り出しそうな太郎の襟を掴んで引き留める。


「馬鹿お前、そんなことされた方が傷つくに決まってんだろ。第一何て言う気だ。おれの顔がアンタらより良いばかりに客を奪っちまってすみません、ってか? 火に油だぞそんなの」

「そうだよタロちゃん。皆タロちゃんが悪気なんてないのちゃんとわかってるんだから、そこは気にしなくて良いって。いや、そうじゃなくてさ」


 腕の力だけでひょいと飛び上がり、くるりと回って再び己の足で歩く。中庭へはあと少しだ。


「ほら、聞いたことがあるんだけどさ。虫とか動物って、何かこう……特殊な匂いっていうの? そういうのを出してつがいを集める、みたいなのあるんだってさ」


 匂い、という言葉にどきりとする。もしかして飛助も気付いているのだろうか、と。


 いや、おれの鼻でやっとわかる程度だぞ? 飛助に嗅ぎとれるはずがない。


 そう思い、ぎり、と歯を食いしばる。


「おい馬鹿猿。お前太郎が虫やら犬猫やらと一緒だっていうのかよ」

「言い方は悪いかもだけどさぁ、人間ったって動物だろ? おいらが言いたいのは、そういう本能的な部分の話だよ。そういうので惹かれちゃうんじゃないかなって」


 と、いうわけで――、と言うや否や、飛助はあっという間に太郎の背後に回り込んだ。そして、高く結い上げられて背中に垂らされている豊かな黒髪の束をひょいと持ち上げると、露になったうなじに鼻を近付ける。


「え? ちょ、ちょっと飛助?」


 不意をつかれた太郎が一拍遅れて反応し、飛び退く。艶やかな黒髪が飛助の手の上をするりと滑って逃げた。


「あぁん、タロちゃんの髪、もっと触っていたかったのに……。でも、おっかしいなぁ。ぜーんぜん何の匂いもしないや、タロちゃんてば。もう全然無臭」


 手の中から去ってしまった絹織物のような髪の感触を名残惜しむかのように指を伸ばしつつ、はて、と首を傾げる。

 太郎はというと、いきなり何をするんだと眉を下げ、飛助から守らんと奪還した髪をぎゅうと握っている。


「さっき白狼丸にも言われたよ。全然しないって。なぁ、それって変なのかな。男ってもっと匂いがするものなのか?」

「いや、体臭が薄い男もいるよ。ただほら、タロちゃんの場合はさ、近くに白ちゃんみたいなのがいるから」

「おいおい聞き捨てならねぇなぁ。何だ、おれがくせぇみたいに」

「えぇ~? 白ちゃんたら自覚ないのぉ? いや、別にさ、悪い意味じゃないんだって。ま、汗臭いこともあるっちゃーあるけど? その、何て言うかな、雄としての? 魅力っていうか? ぶふっ」

「笑ってんじゃねぇか、てめえ!」


 こめかみに血管を浮き上がらせ、顔を真っ赤にした白狼丸が飛助の共襟を掴もうと手を伸ばすが、彼はやはりそれをサッとかわし、嘲笑うかのようにひらひらと舞いながら逃げていく。


「畜生、待て! この馬鹿猿!」

「へっへぇん、犬でもあるまいし、『待て』って言われて待つ馬鹿はいないよねぇ」


 うははは、と高らかに笑い、梁やら柱やらに手をかけてそれをひょいひょいと渡りながら、飛助はあっという間に外へと飛び出してしまった。


 くそぉ、と歯噛みする白狼丸の後ろをとぼとぼと歩きつつ、太郎はまだ己の髪を掴んだまま、眉を下げている。


「俺も白狼丸みたいな男臭さがほしかった」


 突然彼の口からぽつりと零れた無い物ねだりに、白狼丸は飛助の怒りも忘れて吹き出した。


「だっはっは、そりゃ良いな。お前がおれみたいだったら、姉さん達も寄り付かんだろ」


 その言葉に、暗に白狼丸が女から好かれていないと指摘してしまったようで、太郎は慌てて首を振った。


「違うんだ、そういう意味じゃなくて。白狼丸は俺なんかよりよっぽど魅力があるよ。だから、俺は、白狼丸みたいになりたかったな、って」


 、って、もうなれないと諦めてるのかよ。

 

 そこを突っついて茶化してやろうかとも思ったが、太郎の目がいつになく真剣であるのに気付き、白狼丸はそれを飲み込んだ。

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