久しぶりの休日①

「おはよう白狼丸。早いな、どうした?」


 実に二月ふたつきぶりの休日の朝である。

 鶏の声と共に起きるほど朝に強い白狼丸は、さっさと井戸で顔を洗い、その足で太郎の個室(旧掃除用具入れ)の戸を叩いた。


 どうやらさっきまで寝ていたらしい太郎は、緩くうねる黒髪に手櫛を通しつつ、ふわぁ、と欠伸をしている。


「どうもしねぇけど、せっかくの休みだから。なぁ、入って良いか?」

「ああ、もちろん。狭いけど」

「それは全然かまわねぇ。ってほんとに狭いな!」

「だろ?」


 辛うじて布団が一組敷ける程度の広さとは聞いていたし、実際にちらりと見たことはある。けれども実際に布団を敷いてみると、辛うじてどころか、四隅を軽く折り畳んで無理やり押し込んでいる、というのが正しい。それでも太郎は白狼丸と比べればまだ小柄な方なので、そこまで窮屈ではないのだろうが。


「座れよ。布団の上で悪いけど」

「良いよ別に。でっけぇ座布団だと思えば」


 ぐるり、と室内を見渡す。窓があるからギリギリ部屋に見えるものの、広さはやはり用具入れだ。よくもまぁこんな狭い部屋で過ごせるものだと感心する。白狼丸のいる大部屋は五人部屋であるため、相応に広いし、人が多い分生活感というか、部屋らしさもある。これではまるで独房ではないか。


 その唯一の窓の下に、白狼丸の毛皮がかけられていた。どうやら釘が打ってあるらしく、それに引っ掛けているらしい。


「おれの毛皮」


 無意識にそう口に出すと、「ああ」と言って、太郎がそれに手を伸ばす。


「日に焼けたりしないようにって、ここに掛けてたんだけど、大丈夫か?」

「別に焼けたってかまわねぇよ。っつうか、こういうのは焼けてなんぼだろ」


 そういや彼はこれを纏って太陽の下を駆け回っていたのだということをいまさら思い出す。そうだったな、と笑えば、それに続いて白狼丸も、にしし、と犬歯を見せた。本当に真面目なやつだと思いつつも、自分の大切なものを丁重に扱われて嬉しくないわけがない。


「いやぁ、何か久しぶりだな、これを羽織るのも」


 照れ隠しにそんなことを言いながら、ばさり、と振って袖を通す。


「ごめんな、事後報告になるけど、肌寒い時にはそれを被ったりしてた」

「構わねぇよ。何も謝るこたぁねぇって」


 白い毛がうなじを擽る久しぶりの感触に目を細める。すると、彼の鼻先をふわりと掠めるものがあった。その毛皮本来の獣の香りではなく、また、長年愛用したことによって染み付いた彼自身の体臭でもない。


 成る程、太郎のか。


 鼻の利く白狼丸でもなければ嗅ぎとれぬほどの微かな香り。だが、平素は気付きもしなかった。意識して嗅ぎとろうとしていなかったからだろう。だから白狼丸は驚いた。


 それが、桃の香りだったからである。


 くん、と鼻を鳴らして深くその香りを吸い込めば、それは紛れもなく故郷で嗅いだ桃の香だった。


 あんなに厭うても、避けても、桃から生まれた所以なのか、彼の身体には確かにそれが染み付いているらしい。恐らく本人は気付いていないだろう。気付いていないだけまだ良いのかもしれないが、桃嫌いの太郎には何とも残酷な話である。


 こいつはこの先も一生桃の呪縛から逃れられないのだろうか。


 そんなことを思う。


 白狼丸が鼻を鳴らしたまま動かなくなってしまったのを見て、太郎は焦った。


「ごめん白狼丸。もしかして臭かった?」


 身体はちゃんと洗ってるんだけど、と自分の腕を持ち上げて脇の辺りを嗅いでいる。必死に己の臭いを嗅ぎとろうとしているその姿が何やら滑稽で、白狼丸は、ぶは、と吹き出した。


「臭くねぇよ。全然。むしろまーったく臭いもしねぇから、おかしいと思ったたけだ」

「そうなのか?」

「おうよ。普通野郎が一晩被って寝りゃあ臭いなんて何かしらつくもんだけどよぉ、お前は全ッ然だな。無臭無臭」


 わざとらしくくんくんと鼻を鳴らしてみせると、それはそれで恥ずかしいな、と太郎がゆるりと笑って頭を掻く。その笑みが嬉しくて、どれ、もっと笑わせてやろうと調子に乗る。


「あぁ、これが飛助だったら、ひでぇもんだぞ。あいつ最近一日中木っ端の中で作業してるからな、やにの臭いから、削りかすやらで着られたもんじゃねぇって」

「ははは、まさか」


 いよいよ声を上げて笑い始めた太郎に、白狼丸は安堵した。太郎の場合、憂い顔もそれはそれで様になるのだが、やはり笑っている方が良い。


「いいや、本当だ。こないだなんかな、あいつ削りかすの山に頭から――」


 さらに笑わせてやろうと、片膝を立て、身を乗り出した時である。戸が、すい、と開いて寝ぼけ眼の飛助が現れた。


「そこまでだはくちゃん。それをバラすんなら、おいらにだって考えがあるんだぞ」

「げぇ、飛助お前」

「良いかい、タロちゃん。こないだ白ちゃんたらねぇ、傷んで捨てることになった小豆袋に尻を――」

「わわわわ、やめろ! この馬鹿猿!」

「馬鹿猿とは随分じゃないか。おいらが馬鹿猿なら、白ちゃんは駄犬だよね」

「言ったなてめえ!」

「ちょっと二人共」


 挑発するような飛助の態度にまんまと乗って、掴みかからんと白狼丸が両手を伸ばす。それがあとわずかで届くというところで、太郎が二人の間に素早く身を滑り込ませると、身体をくねらせながら悪い顔をしていた飛助も、血管を浮き上がらせ沸騰寸前だった白狼丸の手もぴたりと止まった。


「止めよう。せっかくの休日に怪我でもしちゃあもったいない」


 落ち着き払ったその声で、二人の熱は――最も熱くなっていたのは白狼丸のみではあったが――しゅん、と冷めた。


 太郎が言うなら仕方がない。


 不思議とそう思ってしまうのである。いや、思うよりも先に身体がそう反応してしまうのだ。昔から山犬の子とからかわれていた白狼丸だが、これでは本当に犬である。


 だとしたら、俺の飼い主は太郎なのかよ。


 畜生、と思わないでもない白狼丸である。けれど、それがやけにしっくり来てしまうのも何だか癪だ。


 いいや、待て。

 百歩譲って俺が『犬』までは良い。犬だとしたら飼い主に忠実なのはむしろ優秀な証とも言えるだろう。

 だけど、飛助は『猿』じゃないか。猿にもそんな特性があるのだろうか。猿はどちらかといえば群れの長に従う生き物だったように思う。ならば太郎は猿の長、ということに……?


 そんなことを考えていると、太郎と飛助が揃って怪訝そうに眉をしかめて顔を覗き込んでくる。


「白ちゃん、さっきからぶつぶつ何言ってんの?」

「白狼丸、俺が猿とか、何の話だ?」

「――!? あれ、声に出て……?」


 何でもねぇ! と慌てて立ち上がり、赤い顔で二人を見下ろして鼻息荒く捲し立てる。


「お前らとっとと顔洗え! 飯行くぞ、飯!」


 そして、どすどすと足音を立てて廊下を行ってしまった。


 すると、どこかの部屋から「朝っぱらからうるせぇぞ白狼丸!」という怒声が聞こえてきて、


「足音だけで白ちゃんってバレるとか、面白すぎない?」

「確かに」


 と飛助と太郎は肩を震わせた。


 

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