飛助のついた嘘③

「わかるよ。情けなくなんかないさ」


 と言って、太郎は檻の中に手を差し込み、飛助の頭を撫でた。


 タロちゃぁん、と飛助が鼻を鳴らして甘えた声を出す。


 太郎とて、一人寝の寂しさは知っている。幼き頃(といってもほんの数年前だが)は、白狼丸という拠り所を得てしまったからこそ、彼がいない夜は耐えがたいほどに寂しかったものだ。かといって、身体だけは一人前に大きかったから、いまさらじい様とばあ様の布団に潜り込むわけにもいかず、寂しさにすんすんと鼻を鳴らして朝を待ったものである。


 いまとなってはもちろん一人で寝られるものの、それでも実は、隣から彼のいびきが聞こえてこないと少々落ち着かない。


 だから太郎は、十七にもなって一人が寂しいなどという飛助を笑ったりはせず、ただひたすら、よしよし、と優しく彼の頭を撫で続けた。

 

 おれは一体何を見せられているんだ。


 二人をぼんやりと見つめながら、そんなことを思う白狼丸である。

 

 飛助というのは、確かに身の軽いやつではあるものの、さすが年上だけあって華奢な身体つきの太郎よりも上背もあれば厚みもある。短い栗色の頭髪も相まって猿っぽくも見えるが、こいつは子猿ではなく大猿だ。それが、きゅっと背中を丸めて身を小さくし、きちんと正座をしている太郎と目の高さを同じにして気持ち良さそうに目を細めている。


 すっかり手懐けやがって。こいつは猿の調教師か?


 そんなことを思ったりもする。


「しかし、待てど暮らせど、誰も来ねぇな」


 おれ達だけでも逃げちまおうか、なんてことを口にすれば、太郎は、飛助を撫でていた手を止め、真面目腐った顔で「飛助を置いていくわけにはいかない」などと返す。そう返ってくるのがわかっていたから、「冗談だって」と笑った。飛助は太郎の言葉に、やはり涙を滲ませている。もし縄を打たれていなければ檻の中から手を伸ばし、彼を抱き締めていただろう。


「それに」


 と、視線をまっすぐ前――檻の中の飛助の向こうにある襖に固定したまま、太郎はぽつりと言った。


「いる」

「うん?」


 いるって、何が、と白狼丸が腰を浮かせかけたのを右手で制し、太郎はうんと声を潜めた。


「襖の向こうに誰かいる。ずっといる。ずっとこっちを見ている」

「何だと?」


 何せ賑わっている菓子屋である。

 うんと奥の部屋といっても、常に誰かの話し声であるとか、どたどたという足音、それと対にでもなっているような湯飲みや皿のぶつかる音などが聞こえてはいた。人の気配なら、ここへ通されてからずっとある。


「何か視線を感じるんだ」

「感じるったって、襖は閉まって――いや、開いてるな。わずかに、だが」


 ぴったりと閉じているとばかり思っていたその襖は、目を凝らして見ると、わずかに開いていた。覗かれる側としては、よほど意識しなければ気付かないほどの隙間である。


 けれど、それに気付いたのを知られたら厄介かもしれない。そう思ったから白狼丸はわざとその隙間から視線を逸らした。飛助を心配するふりをして、身体ごと彼の方を向く。


 けれども。


 そう、けれども、なのである。


 太郎にはそれが出来ない。

 白狼丸にも話した以上、もうこそこそするのは終いだとでも言わんばかりに立ち上がり、すたすたとその襖の方へ向かうと、白狼丸の「おい、どこへ行くんだ」という声も聞かずに、すぱん、と勢いよくそれを開けてしまった。


「――きゃあああああ!」

「お、女?」


 そこにいたのは、五、六人の女達であった。恰好からして女中だろうか。ただ、その中に一人だけ、明らかに上等の着物と髪飾りを刺した七、八歳程度の少女がいる。客か、あるいはこの家の娘か。客だとしても、まさかこんな奥の部屋まで入り込めるはずもないだろうから、恐らくはこの家の娘なのだろう、大方、興味本位で覗いてみたらとんでもない色男がいたのでじっくり見入ってしまった、といったところかと一歩遅れて追いついた白狼丸はやけに冷静に分析してみる。


 と、


「おい、いまの声は何だ!」


 女達の悲鳴を聞いて、どたどたと男連中が戻ってきた。ああこれで、おれらだけでも沙汰を免れる、なんてことはなくなったな、と白狼丸は肩を落とした。


「ひっ、雛乃ひなの!? お前、こんなところで何をしている! まっ、まさかお前、こいつらに……!」


 この大店の主人である平八へいはちが狸腹を揺らして女達の元へと駆け寄り、例の上等な着物を着た少女と太郎の前にその身を滑り込ませるようにして立ちはだかった。鬼のように真っ赤な顔をしてはいるが、角もなければ牙もない。どこからどう見てもただの人間である。


「貴様! ワシの一人娘に何を……っ」


 こめかみに血管を浮き上がらせ、文字通りに鬼のような形相となっている平八が、太郎の倍はありそうな太い腕を振りかざした。そしてそれを力のままに太郎の脳天へと――、


 振り下ろされることはなかった。


「――っ、な、何ぃ?!」


 いきなり何をなさいます、とその顔にこそ多少の怯えは見て取れたものの、太郎はそれでも平然と、その手首を掴んだ。しかもあれは利き手ですらねぇな、と、駆けつけた男連中に混じって、白狼丸はそれをぼぅっと見ていた。


「私はただ、この襖の向こうから視線を感じたものですから、それを確かめたまででございます。まさかご息女がおられるとは思わず、無礼な真似を致しました」


 平八の腕を掴んだまま、ゆっくりとそう言い、頭を下げると、女達は太郎のその所作に、きゃあ、と高い声を上げた。先ほどとは毛色の違うその声に、平八も、その後ろに控えている男達も面食らったような顔をしている。白狼丸だけは、ああはいはい、と鼻をほじっていた。


「い、てててて……! は、離せ!」


 やっとそれだけを言うと、解放された手首を擦り、女達に向かって「お前達はもう下がれ。こんなところで油を売っていないで働け」と犬の子でも払うかのように手を振った。すると、やはり大半は女中だったと見えてすごすごとその場を離れたが、ただ一人、雛乃と呼ばれた少女だけは、


「嫌です」


 そう言って、その場にすとんと座り込んでしまった。

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