一人目、山犬の白狼丸
白狼丸との出会い①
「おじいさん、大事な話があります」
桃太郎が桃から生まれて三年の月日が流れた。
あの速さでぐんぐんと成長し、あっという間ににじい様ばあ様を追い越して――などということもなく、どうやらあそこまで急激に成長するのは乳児期のみのようである。とはいえ、いまも常人の倍の速さで成長を続けている桃太郎は、八歳児程度の大きさになっていた。
「何じゃね、桃太郎よ」
きちんと正座をし、まっすぐこちらを見つめる桃太郎は、親の欲目を抜きにしても美男である。さすがはワシの子――と思いたいところではあるが、もちろん血など一滴も繋がってはいない。きっと、このまま成長すれば誰もが振り返るほどの美丈夫になるであろう。
「それです」
凛とした声で、言う。
はて、それとは何じゃ、とじい様が首を傾げていると、桃太郎は申し訳なさそうにきゅっと眉を寄せた。つるりとした白い頬が、ぷく、と膨らむ。血色の良い唇を拗ねてでもいるかのように、つん、と尖らせた。長い睫毛に縁取られた大きな瞳をぱちぱちと二回ほど瞬かせてから、彼は決心したように小さく頷く。
「お願いですから、私のことを『桃太郎』と呼ばないでください」
「何じゃと?」
「いままでずっと言えなかったのですが、実は、桃が大嫌いなのです」
「な、何じゃと!?」
じい様は驚いた。
無理もなかろう。
何せ、桃から生まれた桃太郎である。
「もちろん、桃から生まれたことも知っていますし、赤子の頃は、その汁を美味そうに啜っていたことも聞いております」
「そ、そうじゃ。美味そうに啜っとった」
瞼を閉じれば思い出す。晒しに包んだ桃の果肉をちゅうちゅうと美味そうに吸う桃太郎の姿を。
「おばあさんが私のためにと川上の村まで足を運んで桃を分けてもらっていることも、大変ありがたく思っております」
「ええんじゃ、そんなことは。しかし、そうだとすると、ワシらはお前に申し訳ないことをしてきたのじゃな」
「何とお詫び申し上げたら良いか」
「何を言う、詫びるのはこっちの方じゃわい」
桃太郎は手をついて深く頭を下げた。そして尚も懇願するのである。
「これからはどうか私のことは『太郎』と呼んでください」と。
可愛い我が子にそこまでされては仕方がない。
じい様は、わかった、と言って、その小さな背中を撫でた。
「しかし困ったぞ。ばあ様が川上の村へ桃を分けてもらいに行ってしまった」
「それなら私が迎えに行きます。道中で事情も話しますから」
「そうか、気をつけてな」
すっくと立ち上がった桃太郎は、どこぞの武士の子かとも思えるほどに凛々しい。その腰に刀を下げてやれないのが残念ではあるが、武士の家に生まれてしまえば、いずれ血生臭いことになっただろう。だったら自分のように、ここでのんびりと野良仕事をして、嫁をもらった方が幸せに暮らせるのではないかと思ったりもした。
「それでは行ってまいります」
きちんと頭を下げて、桃太郎――いや、太郎は家を出た。随分と礼儀正しい子になったものである。これくらいの年の子となれば、朝から晩まで着物を泥だらけにして遊ぶものだと思っていたが、近くに子どもがいないせいか、太郎は毎日のように自分達の仕事をせっせと手伝うのである。年相応の遊び方というものを知らないのだろう。自分達がもっと若かったら、もっと思い切り身体を動かして一緒に転げ回ったりも出来ただろうに。
老いが憎い。
もっと早くにあの桃が流れて来てくれていたら。
そう思わない日はなかった。
太郎にそう言ったこともある。
「親がこんなしわくちゃのじい様とばあ様ですまんな」と。
けれど、太郎は、不思議そうな顔をして首を振るのである。
「何を謝ることがありますか。私は、おじいさんとおばあさんの子どもでいられて幸せにございます」
育ててくれた恩を感じて世辞を言ってくれているのかとも思ったが、一緒に暮らしているとわかる、この子は世辞を言えるほど器用な質ではない。ばあ様が料理を失敗した時など、じい様がどうにか濁してやり過ごそうとする横で、「今日の煮物は少々塩辛いです」などとはっきりとそれを指摘するような子なのである。
にも拘らず、桃が大嫌いであることを親に気を遣っていままで黙っていたなんて、何と健気なことか。名につくのも嫌なものを、自分達のために顔に出さぬよう必死に堪えながら食べていたのかと思うと、じい様の胸は締め付けられたかのように苦しくなる。寿命も縮まる思いである。
ああ、桃太郎よ。いや、太郎よ、いままですまんかった。
ばあ様は気落ちするかもしれんが、何、わざわざ川上の村まで足を運ぶ手間がなくなったと考えれば良いのだ。
じい様はそう思った。
太郎が川上の村に着くと、その入り口で、ぽつんと一人しゃがんでいる者がいた。
身体は太郎よりも一回りは大きいだろうか、色素の薄い灰色の髪は長く、櫛も当てていないのかぼさぼさと伸び放題になっている。それを雑に結わい垂らした背中には、立派な白い毛皮がかけられている。大人用に仕立てられているのだろうそれは、彼をすっぽりと覆っており、そのせいで遠目には人間だと思わず、白い狼が蹲っているかのように見えたのである。
「すみません、こちらに私のおばあさんが来ておりませんか」
けれど近付いてみればそれはどうやら自分と同じ人の子であるらしい。それがわかったから、太郎は軽く肩を叩いてそう尋ねた。
すると、その子は驚いたように目を見開いて太郎を見た。何をそんなに驚かせてしまったのだろうかと思い、小首を傾げる。だけど、視線は逸らさない。なぜって、太郎の方に逸らす理由がなかったからである。
「聞こえてませんか? あの、ここに桃を分けてもらいに――」
「聞こえてるよ。聞こえてるけどさ」
聞こえているのならばなぜすぐに答えてくれなかったのだろう、と太郎は疑問に思った。太郎の知っている人間というのは、おじいさんとおばあさんだけだ。その二人はいつも太郎の呼びかけにすぐ応えてくれる。――もちろん、聞こえている場合に限られるが。年齢が年齢なのだ、多少反応が鈍いのは否めない。
「お前、何でおれに話しかけるんだ」
「何でと言われましても」
そう尋ねるからには、何かしらの理由があるのだろうと太郎は思った。つまり彼は、常日頃、人から話しかけられたりしないのではないか、と。
彼自身がそれを望むのか、それとも、望まぬのにそうされているのか。
「お前、何ていうんだ」
「はい?」
「名前だよ、名前」
そんなことよりばあ様がどこにいるのかを知りたい太郎だったが、名乗らなければ教えてもらえないのかもしれない。そう思った太郎は、本名である『桃太郎』ではなく『太郎』と名乗った。何せ、桃太郎の『桃』の字はもう捨てたのだ。
「太郎。太郎と言うんだな」
「はい。それで、おばあさんは」
「まぁ急くな。おれがまだ名乗ってない」
「はぁ」
太郎は何せ狭い世界しか知らない。いままでじい様ばあ様としか会話をしたことがないのである。だから、こういうものなのだと思った。何事もまずは双方名乗ってからなのだろう、と。
「おれは
その言葉と共に立ち上がった白狼丸は、やはり太郎よりも頭二つ分ほどは大きかった。ふさふさの大きな毛皮を纏っているせいか身体つきもがっしりとして見える。太陽を背負ったその姿は、子どもらしからぬ雄々しさに満ちていた。
いつか見た山犬様に似ている。
きりりと釣り上がった太めの眉に、力強い瞳。ニヤリと笑う口の端には立派な犬歯が見える。
じい様に連れられて登った山で見たあの時の山犬様が、人となっていまここに現れたのではないかと太郎は思った。
「桃太郎よ、あの山犬様を決して怒らせてはならんぞ」
じい様は太郎にそう言った。あの山犬様は山の神様の使いだから、と。
だから素直な太郎はこう言った。
「あなたは山犬様でいらっしゃいますか」と。
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