第8話 冬の話

 1

 木の根も凍るような寒い、寒い季節。そんな季節になると、決まって思い出すことがある。

 木の葉の枯れる音や、霜柱を踏む音。何か煮ているような音や、雪が屋根から落ちる音。軒下に連なった氷柱が、自らの重みに耐えられず、落下して砕ける音。

 様々なところで、音とは何かの引き金になりうる。

 奇しくもそんなやっかいなものが引き起こされる時期に、トラウマそのものと出会うことになったら、あなたはどうするだろうか。


 楽しかった秋の実りの季節を終え、人も獣も、備えの時期に入るおり、猫はこたつで丸くなるとはよく言ったもので、大輔宅に設置された四人掛けの小さなこたつの中には、大抵猫が陣取っていた。

「たま、そろそろ出てこい」

 そう声を掛けられて渋々、本当に渋々といった風に、三毛猫が鼻の先を掛布団の外へと出した。

「うう、寒い、寒い……猫というのは本当に寒さに弱い生き物なのだ。大輔、もう少し位、温度を上げてもいいのでは無いか?」

 ちらっと頭をのぞかせた猫が、家主の人間へとそうのたまう。

「馬鹿言うなよ。ただでさえ電気代かつかつなんだからな。そんなこと言うとこたつの温度下げるぞ」

 大半の猫飼いならば、その可愛らしい様子に屈服してしまいそうな所、強い意思をもって、大輔は頑として断った。そればかりが条件を突きつけるのだから、春から猫と生活を共にしてきて、一人と一匹の間に確かな友情が生まれているのだろう。

「やめろ! わかった、分ったから、後生だからそれだけは頼む」

「いや、どんだけ下げられたくないんだよ」

 強情な猫に若干呆れたような、愛おしいものをみるような視線をぶつけると、昼飯が出来たから出てこいと、今度こそ猫をこたつの中から引っ張り出した。

 胴を掴んで伸ばして見ると、グニョンと猫が伸びる。

「うわぁ……」

 思わずといったように、奇特なものを見るような声をあげてしまったからであろうか。猫が不服そうな声をあげ、大輔に対し文句を言い始める。

「なんだ、うわぁ……とは! こんなにも愛らしい猫ではないか!」

「自分で会らしいとかいうなよ。何百歳のじじいだぁ?」

「こやつめ! 猫はいつまでたっても愛らしいものであろう!」

「かわいいけど、普通のカワイイ猫は自分で自分をカワイイとか言わない」

「では私は可愛くないと申すか!」

「いんや、世界一かわいい」

「ダ、ッァ! だ、だったら、よいのではないか、バカ者!」

「お前どこからその声出したの?」

 のびのびと伸びた猫を抱え、引っ張り出たそれをソファの上に置いたが、カワイイ、可愛くないの論争が少しだけ勃発した。

 互いにいつものとこなのである。

 いやあ、ここまで馴染むのに、お互い時間がかかったと、今回ご相伴にあずかっている白野は面白そうにその様子を眺めて居た。

 彼自身、長い妖怪生の中で、ここまで妖怪と人間が仲良く共存出来ている例を、それこそ妖怪が人間と大きく交わっていた時代においても記憶にない。

 彼らが、無いものを補い合うように、互いが互いを必要とした存在だからこそ成り立ったのだろう。

 いやぁ、真に奇特な「えにし」だなぁと、用意された酒を飲みながら、見世物じみたやり歳を見ていたのだが、それに気が付いたのであろう猫が目ざとく指摘した。

「おい白野、金をとるぞ」

「どうして猫は私に対して当たりが強いのかなぁ……」

 大輔から新しくビール缶を受け取った白野は、顔に肉球を当ててくる猫に人間の通貨を払うこととなった。

 なんでも肉体言語で話をしようとする猫に、大輔が授けた技である。相手はねこのかわいさを享受できる、こちらも金になる、どちらも得をする。

 こうして覚えた技は、猫の機嫌ごとに押し売りされたり、見るだけで金を取られたりするようになったのだが、今日はどちらもコースな日だったらしい。

「良し大輔、飯代が増えたぞ」

 そのような比較的どうでもいい、くだらない事が、惨状の始まりになるとは、その場にいる妖怪の王、禍福の猫、そしてその両方からの庇護を受ける人間。

 はたまたそこらに住まう家鳴りや小鬼共でも、想像もつかない事であったのだ。

 こうしてまた、野外を白く染める雪のように、厄介ごとが、少しずつ積み重なっていく。


 2

「大輔、ポン酢がないぞ」

 近所のスーパーマーケットによった帰り、家に帰ると消費されたポン酢ビンが一本。

 せめて道中ならば引き返すことが出来たのに、そんな愚痴を零す大輔と消費したと思われる猫と人外。

 寒い中もう一度外に買いに出ることは、とてつもなく嫌であったが、無いのならば買いに行かなくてはなるまい。

 体に鞭を打ちいつものスーパーマーケットに行こうとして、改装工事でやっていなかった為遠くの店へ行ったのだと、家にいる時は回らなかった頭が外に出た瞬間回り始める。

 深いため息を吐くと白い吐息が出た。

 当たりには軽く雪が積もっており、足元をちょこまかと着いて回ってくる小鬼たちは、雪の寒さよりも楽しさの方が勝るのであろう。なんとも楽しそうに跳ねて遊んでいる。

 目当ての品を買い終わり帰路につく頃には、雪はまた降り始めていた。

 早く家に帰って、猫に冷たい手をくっつけてやろう。

 そんな楽しい想像をしていたのもつかの間、背後から聞き覚えのある声を掛けられた。

「あれ、もしかして大輔?」

 それはもう二度と聞きたくないと思っていた声であった。かつて自分を裏切った男の声であった。

 寒さのせいではない震えが体を蝕み、歯の根が合いそうにない。

「あれ? 忘れちゃった? お前の友人の祥吾くんですよ?」

 忘れるわけがないだろう。この屑野郎。

 叫んでやりたいのだが、なぜか体が言うことをきかない。これほどまでに自分はメンタルが弱かったであろうか。

「おい、なぁ聞いてんのかよ」

 段々と苛立ったように言葉を荒げてくるが、それに対峙している暇が無い位に体が寒い。

 サクサクと雪を踏みしめる音が聞こえる。どうやらこちらに近づいてきているようだった。

 立ち去ろうにも、逃げようにも如何せん動くことが出来ない。足元の小鬼たちが心配そうにのぞき込んできている。

「無視してんじゃねぇよ!」

 本当にどうしよう。

 そんな時であった。

「あれ? 大輔だよね? 寒い中立ってどうしたの?」

 今の時分において唯一ともいえる友が、向かいの店の中から姿を現した。

 体を抱きしめ震える大輔を気遣い、友へと向かっている不審な男にキツイ視線と声を掛けた。

「失礼だが、彼の体調がすぐれないようなので失礼するよ」

 大輔の肩を抱き店内へと向かっていく暁人。

 気に食わない対応をされたのであろう、祥吾は苛立ったように暁人の肩を掴み、力いっぱいに振り向かせようとしたその瞬間、つかんだ方の祥吾が叫び声をあげ地に伏せた。

 一瞬の事で何が起こったのか分からない。

 だんだんと体に力が入るようになる中で、大輔は町の雑踏が聞こえない事に気が付いた。その様子にはどこか既視感があった。

 妖怪たちが良く使う人避けの術。それに似ているのだと気が付いた時、三人しか存在していなかった空間にその場にいた誰とも違う声が響き渡った。

「貴様、きさま! なぜ暁人にも手を出した!」

 怒りにより裏返っているが、かすれたような男の声だ。

 黒一色の服装に身を包んだその男が、祥吾に近づくや腹を蹴り上げる。痛みに喘ぐその姿をしり目に何度も、何度も何度も同じ個所を蹴り上げた。

「グッ! がッ! ッ、ヵはッ!」

 祥吾の口からは空気が漏れ出るような音が聞こえ出した。

 呆気に取られていた大輔であったが、隣に立つ暁人は暴れる男とは知り合いらしく、髪を振り乱しながら祥吾を痛めつけ続ける男の名を呼んだ。

「宵、これは一体どういう事なんだ?」

 暁人に声を掛けられたからか、蹴る足をぴたりと止め顔を高揚させながら説明をし始める。

「あぁ、暁人。すまない、危険な思いをさせてしまった。まず、あの根付を滅ぼす為、その男を手に入れないといけないのだろう? だとしたらいう事を聞くように精神から捕縛しようと思って。その為に、過去の傷となっている人間を雇ってそれに接触させたんだ。そうして俺の術で魂を硬直させていれば後の事は簡単だろう?」

 まるで褒めてほしいという子供の様に、自分の行いを語る彼。

 暁人の強張る表情に気が付かないのだろうか、いかに大輔が邪魔であり、かつ有益な交渉材料である事を語る彼の恍惚とした顔に、大輔は内心ドン引いていた。

「というか、根付ってたまの事か」

 最近は猫が付けてくれと頼んだおかげでもっぱら「たま」呼んでばかりである。

 大輔にとっては何の気もなしに出た独り言のようなモノであったが、ここ数か月、猫や妖怪たちに何かというと守ってもらっていることが多いからだろうか、この場において防犯意識が欠片もないという事は、致命傷にもなりうる事であった。

 自分と暁人が話をしている所を割り込まれ、激高した宵の蹴りが大輔を蹴り飛ばす。

「凡人が! しゃべるんじゃねぇよ!」

 数メートルは吹き飛んだであろうか。

 体がバウンドし、肺から空気が漏れ出てくる。猫の加護のおかげか骨は折れていないようだが、体中がミシミシという鈍い音を立てている。

「大輔っ!」

「駄目だよ、暁人。近寄ったら危ない」

 悲壮な表情を浮かべる暁人に対し、走ったら危ないとでも注意するが如く、にこやかな宵は取り合わなかった。

 焦ったように大輔の方へ駆ける暁人を遮るように、宵は不干渉の術を大輔の周りに設置する。暁人がその術を解くのに手間取っている隙に、笑顔を浮かべながら大輔に対して拘束の呪を使用した。  

 一見縄のように見えたそれは、術者の姿を写し取ったような黒く艶やかな鱗に覆われているヘビであった。

 大蛇はぎちぎちという音を立てながら大輔の体を締め上げてゆく。ヘビが体中を這いずるにつれ、拘束されていた部分が擦れて針で皮膚を刺されるような辛さであった。

 締め上げられる恐怖と痛み、だんだんと呼吸が苦しくなる。

「夜! 今すぐ呪を解け!」

 青白い程に真っ白な肌を赤く染め上げながら暁人は叫んだ。

 信頼していた部下にこのような形で裏切られることになるとは、当代一とも噂される慧眼の若当主の面目も丸つぶれである。

「そうしたら逃げてしまうかもしれないし、何より暁人に危険が及ぶかもしれないから、それは出来ないな」

 己が術で苦しませている対象がいるとは思えないほどの穏やかさに、暁人は背中に伝う汗を無視できなかった。

 不干渉の術のせいで大輔に近づき苦しみを取り除いてあげる事すらも出来ない、自分の無力さを暁人は痛いぐらいに痛感していた。

「なんで、なんでこんなん事をするんだ!」

 悲痛な叫びがその場に染み込んだ。

「お前は、お前だけは裏切らないって信じていたのに!」

 ようやく不干渉の術を解き終わり、大輔へと絡まりつくヘビへたどり着いたのは、大輔の意識が朦朧とし始め、猫たちの加護も効力を失い始めた時であった。

 暁人は宵に一瞥もくれる事は無かった。

 その事実が何よりも重く、苦しいもので、己が泥の怪物にでも成り果ててしまったかのような倦怠感さえ感じる。

 己の目の前では、自分に決して見せる事の無いような必死の形相で、あの清く美しい暁人が、凡人の世話をしている。

「……なんでさっき名前じゃなくて、夜って呼んだんだよ、命令する時にしか、任務の時にしか、使わないって言ったのは、暁人の方だったじゃないか」

 何も見たくない、これは質の悪い冗談か夢で、そう、自分は夢を見ているのだ。

 頭を掻きむしり目をつぶる。

 あぁ、開けたら自分はあのくらい部屋にいて、起きたら寝汗が酷いだろからシャワーを浴びて洗濯機を回そう、それから、それから……。

 何度目を開けようと、何度髪を引きちぎろうと、夢は醒めない。冴えてばかりで醒めることは何一つもない。

 嫌でも視界に入ってくるのは、自分が呪として放った蛇に巻き付かれる凡人と、その傍らに膝をつく、自分の神様であった。

「なん、で……」

 いったい何がダメだったのだろう。彼を引き留めておけなかった理由は? 逆にあの凡人の何がそうさせた? おかしい、おかしい、おかしい、おかしい、おかしい、おかしい!

 何が友人だ! 何が家族だ! 馬鹿馬鹿しい! 吐き気すらする! 結局人間は他人と他人! 分かり合うことなど不可能なのだ! なのになぜ、なぜそのような分かり合ったような顔をする! 気色が悪い! 精神異常者め! 欠陥品の分際で私の神をよくも汚してくれた! よくも、よくも、よくも、よくも、よくも、よくも、よくも、よくも、よくも、よくも! よくも!!

「お前さえ、お前さえいなければ! 猫を捕まえて、他家の横やりから暁人を守ることが出来たのに! なのになんで、なんで暁斗がお前を庇うんだよ!」

 宵は瞳を充血させ、汚らしく唾と髪の毛をまき散らしながら、勢いよく大輔へと詰めよった。

 頭に空気が回らず、何をしゃべっているのかもわからないし、自分をこんな目に合わせたやつの面を拝むことさえできやしない。

「……ッ、ガッ! ァ、はッ!」

 おまけと言ってはなんだが、暁人がそっちの関係の人間だったと今知った。

 鈍いと言われればそれまでなのだろうが、こんな仕打ちを受けるなんて思いもよらなかった。

 骨の一部がずれたのであろうか、常に体は異常な音を出している。酸欠で周りの音もよくよく聞こえないというのに、ボキッという大きな音が大輔には確かに聞こえた。

(絶対人間の出して良い音じゃねーよ……!)

 薄れゆく意識の中、呻いていたのであろう祥吾が驚き声を上げる声がした。

(そういえばあいつは俺に巻き込まれているのか。はッ! ざまァねぇな)

 何かが割れるような音がしたのを最後に、大輔は意識を手放した。


 3

 刹那の時を、斑の風が通り抜ける。

 民間人よけに張っていた不可視の術と、外部からの接触を拒む断絶の結界。日の本にいくつかある祓いの大家、その筆頭家臣である宵の結界が、こうも簡単に破られた。

 ただただ力任せに飛び込んできたのであろうその体には、結界の断片があちらこちらに突き刺さっている。が、よく見ると硬質な毛でおおわれたその巨体は全くの無傷であり、結界を壊した者に対する逆転の術も意に介していないようであった。

(これはこれは、大分まずいんじゃないか?)

 大輔の傍らに侍る中、先ほどの宵の取り乱しようを見て大分落ち着きが戻ってきた暁人は、現在自分たちが絶対絶目のピンチである事を十二分に理解してた。

 雷のような唸り声をその身から発する姿は恐ろしく、大きな黄金の眼は血走り今にも飛び出しそうな具合である。

(呪詛を呟いている宵に、何やら訳ありそうなボロボロの民間人と、意識を失った大輔とその傍らにいる自分……)

 間違いなく祓い師の、こちら側の案件である。

 それは見るからに怒り狂っていた。

 体の端々から煙だつ湯気は、その身を焦がした炎か、はたまた怒りによる発熱か。

 大切な愛し子を傷物にされて、宿敵である祓い師を目の前にして、そして何より、大輔を守る事の出来なかった自分自身に苛立っていた。

 大きくなった毛の一本一本からは炎が立ち上り、体中からパチパチという小さな破裂音すらも聞こえてくるようである。

 口元からはこれまた激しい炎があふれ出し、鋭い牙は美しい位に冴えわたっているようであった。

「よくも、よくもこの子を傷つけてくれおったな……!」

 発する音の一つ一つが粒だって聞こえ、脳を、神経をなで斬りにされているような気分であった。

 視線はこちらを捕えて離さないのに対し、空間に閉じ込められた小妖怪たちを外へと逃がしている。

(最悪の展開だ……)

 こちらへ、大輔の方へ近づいてくる大妖を目の前に、一つの隙も出せない時間が始まろうとしていた。


 4

「宵、流石にこれは無理だ」

 さすがの大妖の登場に、宵も先ほどの勢いを必死で殺し、暁人の側にはせ参じる。

 未だ蟠りがある中、ここまで揃うことが出来たのは、ひとえに目の前の獣が恐ろしかったからだろうか、これまでの二人の時間であろうか。

 そしてその獣から吹きだされた紅蓮の炎は次第に形作られ、いつもの猫の姿になって二人へと襲いかかった。

 術や道具を使いするする逃げてゆく二人であったが、如何せん自分結界から出た先は民間人がいる。

 己の身すらも燃やす尽くそうな程に燃え上がる煉獄に、流石の二人も内心舌を巻いていた。

 かという猫は、久方振りに炎をまき散らし大分すっきりしたのであろう。早くも二人から意識をずらし、大輔の方へ向かいたくて仕方がなさそうだ。

 それを好機と問ったのか、宵が猫へ仕掛けると猫はその攻撃を受け、がっと大きな体で相手を組み敷いてしまった。

 宵の眼の先に、炎を吹きだす鋭い牙が幾重にも重なって見える。

「よい! 逃げろ!」

 必死にそれを引きはがそうとするが、鉄をも通さぬ鋼鉄の毛皮はびくともぜず、ただ悪戯に体力を削っていくのみである。

「くっ! どうした! 殺さないのか! あんたの大事な大事な人形を汚したのは私だぞ! さあ! 殺してみろ!」

 殺せと猫に対し挑発を繰り返す宵。その目は本気であった。本気で猫の牙にかかって死ぬならば本望だと、そう望んでいるかのような目であった。

「殺せぬか! 殺せぬであろうて! 今人間である俺を手にかければ、あんたはその人形に近寄ることが出来なくなるぞ!」

 己の身をとして神を奪還できるのならば、それこそ今まで生きてきた意味があるというものである。宵はそう考えていたのだが、その程度で猫と大輔の想いが途切れることは無い。

 宵の姿に興が乗ったのだろうか、はたまたうっとおしく思ったのだろうか。本気で猫が宵の事を嚙み殺そうとした時、微かに音がした。

「猫、拾い食いはやめろって言ってるだろ。腹壊すぞ」

 ほんの少しのかすれ声であるが、猫が大輔の声を聞き逃すことは無かった。

 周りにいた妖怪たちのおかげで、大輔も楽に呼吸ができるまでには回復していた。

 その声を聴き、心底安心したという顔で大輔の元へ進もうとして、今まで組み敷いていた男が呆然とした顔でいるのを良い気になる。

 斬撃やら、炎やらが止まり、猫が大輔を回収したタイミングで暁人が猫へと問うた。

「一つ問おう。なぜ、彼を離してやってはくれないのか、なぜ彼だったのだ」

 彼の質問に猫は何も答えぬまま、フッと小さく鼻で笑うと、そのまま大輔を抱いてそこへ丸くなった。

 その場から逃げるよりも先に、敵を倒すよりも先に、彼は大輔を治すことを優先したのである。

 その傲慢な様子に憤った宵は攻撃を加えようとするが、寸でのところで暁人がそれを止める。

「なぜ止める! そんなにあの男が大事か!」

「違う、そうじゃないよ。何を勘違いしているのかと思えば、君はあの恐ろしい獣に真正面から立ち向かう勇気がまだあるというのか?」

「妖がいるのならそうするまでの事」

「それは蛮勇と呼ぶものだ。ご覧よ、周囲の妖共を。今の彼らに手を出そうものなら、我々はどちらにせよ仏になってしまっているよ」

 宵は初めて猫以外の妖たちが、自分の作った結界内に忍び込み周りを囲ってることに気が付いた。

「なッ! いつの間に」

「僕たちの負けだ、禍福の猫よ。長い間追いかけまわしてすまなかった」

 そう頭を下げる暁人に対し、ようやく猫は表情を緩めた。

「禍福の猫ではないわ、それは人間どもが付けた名で、私にはきちんとした名がある」

「それではこれからはなんとお呼びすればいいか」

「ふん! 呼ぶ機会などさらさらないだろうに、ほんにこざかしい。そんな程度の力で真名が取れるとでも思ったら大間違いだぞ、だがしかし、まぁ特別に教えてやってもいい」

 猫は歌うように、楽し気に、だが少し気恥ずかしそうに、意気揚々と名乗りを上げた。


「私はもはや禍福の猫、呪いの根付ではない。人間、岡本大輔の友にして、彼のものから受けた大恩に報いる者」

「ミセバヤ、玉の緒。名乗った数はつくもの如し、捨てた名前は大けれど、九十九が神へと昇華するならば、私もまた別のもんへと生まれ変わった」

「名をたま! 御饌(みけ)でもなく! 玉緒(たま)でも、横文字の何やら凝ったような名前でもないが、率直に決められた私の名だ!」

「もう少し凝った名前が良いだとかはもはや言うまい! この名が最初で最後の名だ! 存分に心に刻むがいい!」

「岡本たま、が私の名だ!」


 5

 白野が駆けつけた先で視界に広がっていた光景は、大きな形状になり傷ついた大輔を大事に抱え込む猫と、対峙する二人の若い祓い師、その周りに群がる無数の妖怪たちと言った混乱に混乱を重ねたような現場であった。


 本日もご相伴にあずかろうと、大輔と猫の住む家に向かおうとした白野は、近くで猫の力の昂りを感じ慌てて駆けつけようとし、そこまで強くもない祓い師共に足止めを駆けられていた。

 殺生を好まない白野がいっそ殺した方が楽では、と思うくらいにはうるさい羽虫共を何とか払って着いた先は、惨状という言葉がよく似合っている。

 白野はついた矢先、切れかけている隠形の術を辺りにかけて回る羽目になった。

 猫は暴れた後なのだろうか、大きな姿のままで大輔を前足に抱え、治癒の術を施しているようだった。

 祓い師たちはというと、人を助ける猫の姿に驚いたのだろう、猫と大輔が語り合う様子を

 信じられないものを見るように眺めている。

 それに手を出すわけでもなく、これ以上祓い師が暴れないようにと距離を取って観察している妖怪たちの姿に、自分が言い聞かせてきたこと、大輔との交流がついに実を結んだのだと、白野は思わず涙ぐみそうになった。

 そのようなほのぼのとした空間の中、まぁ妥当だろう、黒い方の祓い師の方が声を荒げている。

「なぜ、なぜそこまで妖が、人間だぞ。ただの人間に何の価値があるというのだ」

 唸り声をあげる猫の、大きくなった喉元を撫でながら大輔は語る。

「何もないからだよ。何もなくて助けてもらったから、俺も人間が嫌いだから、仲良くなったのだって偶然だ」

 いっそ清々しい位に大輔を睨み付ける術師とは違い、先ほどから何か考え込むように黙り込んでいる術師の方が、ようやく口を開いた。

「大輔、君は先ほど声をかけるだけでその根付を従えた。私は君の友としてではなく、祓い師の家系の長として、君を討たねばならない時が来るかもしれない」

 感情が込められていないような、平坦な美しい声。だが少しばかり寂しい声であった。

 猫の顔がまた恐ろしい形相になっている。眼光を見開き、それ以上何かを言ったのであれば、手練れの祓い師を相手にすることが出来るのではないかというくらいの面構えである。

「それなのだけれど、」

 そんな猫の毛に埋もれながら、喉の辺りを触って猫を落ち着かせている大輔は、どこか口に出しづらそうな、そんな空気を醸し出しながら、猫と祓い師の長の一人だという若者を交互に見つめる。

「もういっそさ、妖怪と祓い師が協力しあったらいいんじゃないか?」

 大輔の言葉を理解した者から順に、何か素っ頓狂な声をあげ始め、だんだんとざわめきが大きくなっていく。

「人間を害する妖怪と、それを退治する祓い師が仲良くなれと? 大輔は本当に面白い事を言うね」

 苦笑というには、大分やつれ、だがしかし、泣きそうな子供の様な顔で、暁人は続けてこう言った。

「もしそれが本当になったら最高だね。でもそれは理想論だ。始めはうまくいったとしても、きっとどこかでほころびが出てくる」

「妖怪だって人間をむやみやたらに襲ったりしているわけじゃないんだ。会話が出来るのなら、協力することだってできるだろ」

 それを制した暁人は返答を返した。

「君たちが居る間は、そうなるのかもしれない。僕もいたずらに妖怪との抗争で、ただでさえ希少な祓い師の血を絶やしたくないしね」

 疲れたように笑う暁人にたまが食ってかかった。

「ほらみろ大輔、奴ら祓いの者というのは、大概が自分利益しか考えていない愚か者どもだ。こんな奴らと手でも組んでみろ、今に妖怪の三分の二は消し飛ぶぞ」

 憎々し気に暁人を、敷いては祓い師を睨み付けるたまを撫でながら、大輔は当たり前のことをいうように、なんの含みもない笑みを浮かべた。

「だけど、暁人はそんな事はしない、よな? あのヤバい人だって、元はといえば暁人の為に行動した結果、あんなふうになってしまっただけだし。多分暁人が一から十まで話せばわかってくれる」

 にっと、悪戯が成功したかのような子供のごとき笑みに、あっけを取られ暁人は体から毒気が抜けていくような感覚に陥った。

 周りの者は皆、妖と祓い師。払うものと払われる者。抑える者と暴れる者という枠の他に、新たなるものを生み出す事など考えもつかなかったであろう。

「うん、そうだね」

 巻き込んでしまった償いにも、大輔の願いをかなえないとね。

 この何の力を持たない人間が、この場において一番の強者である。

 なんの気もない発言が、千年と続いてきた争いの火種を一つ、消す手助けをしている。


 6

 祓いの長が人間の言葉に同意した事により、反応は二つに分かれた。

 人に恨みを持つ者たちは白野も同意をした意見に従う事が出来ず、白野を中心としてまとまっていた会を抜けたのだという。

 無理に引きとめることもできず、全体の二割程度が抜けた後の集会は、いささか活気が足りなかったようだ。

 残ったものたちは暁人を介し、少しずつ人間側に力を貸しているようであった。

 祓い師はというと、流石に人間というべきか内部でいくつもの衝突が起こる。

 いくら当主の言葉とはいえ、暁人はまだまだ若く反乱の話もあったらしい。すべてがらしい、でおわるのは大輔を襲った主犯である宵の働きゆえである。

 機密理に行動し、暁人が動く前にはすべて問題を解決しているらしい。どこまでも影のように暁人に付き従う姿は、大輔を感情のままに襲った者と同一人物とは思えない。

 彼も彼で何か思う事があるのだろう。

 後始末やらが全て終わった後に、大輔の元に謝罪に来た。

 追い返そうとするたまを止め、事情を説明する。妖怪たちが相も変わらず騒ぐ部屋の中、ぎりぎり人間である二人は静かに言葉を交わした。

 元より仲直りという間柄でもないが、祥吾を使った事を詫びると共に、キチンと彼には記憶処置を施しているらしかった。


 なんとなく続く日常の中、猫と青年は互いが互いの楔たる為に、今日も今日とて息をしている。

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根付子猫 @mizunotoi

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