第7話『暗い夢の話』

 1

 たまに昔の夢を見る。

 幼い事のあの日々を、怠惰に、惰性に。

 ただただ受け入れていた弱い俺が、夜の闇に隠れて小さくなって泣いている。

 泣いているところを見られたら怒られるか殴られるか、もしくはどちらもされるから、必死で声をかみ殺して、心の中で大声を出して泣いている。

 そんなどうしようもないような悍ましい夢を、自分の脳は丁寧に、丁寧に海馬の大海から探し出して見せてくる。

 もういいのに、見たくないのに。

 忘れたい頃に、また僕はあの頃の夢を見る。


 すでに無くなった記憶の、そんな夢を見た後の目覚めは決まって最悪だ。

 嫌にべったりとした汗で濡れた寝具と寝間着をはぎ取って、そのまま洗濯機へと放り込んだ。

 烏よりも早く水浴びを終えた後、自分は未だガタゴトと仕事をする機械が止まるのをじっと座って眺めて、ふとTシャツの襟元を濡らす存在に気が付く。

 ふいたというより触ったというような程びしょびしょなそれは、本当のカラスの羽のように、窓から刺す月明かりに照らされて、我ながら妖艶に濡れ光っていた。

 床に滴る水滴もそのまま、洗濯機の中を回る布をのぞき込むように視界に納めていたが、しばらくしてから立ち上がり、椅子を持ってきて背もたれに法杖をつきながら、また黙ってじっとみつめ始めた。

 水が、洗剤が、自分の中の汚いものを洗い流してくれるのを、じっと見つめて監視している。

 そうでもしていないとまだ自分が、あの頃のような姿に戻ってしまうような気がして。

 そんな気がして、仕方がなくて、しかたがなくて、しかたがなくて、本当に、どうしようもないのだ。


 2

 自分という自我が出来た瞬間とは、俺は始めて死というものを体験した時だと思う。

 小さな体に容赦なく撃ち込まれる思い拳に、口の中に広がる不快な味、殴られた箇所はすごく痛くて、心臓が痺れたように、自分の体中を嫌なものが走り回っているような、そんな地獄だった。

 幼く脆い躰に大人の拳は酷で、骨が砕けたり、あらぬ方向に向いてしまっていたりした。

 だけど臓器は不思議と傷一つついていなくて、幼い俺は、不思議なことがあるものだと。

 存在しない神に、感謝をささげた事もあった

 それからというもの、同じような日々が容赦なく降り注いで、その痛みに慣れるくらいになる頃には、僕の中の感情という生き物は姿を消してしまっていた。

 毒を飲み、蟲を喰い、己の体が蠱毒の壺となった時、己は己でなく、俺は痛みを昇華させた。

 幼い自分を優しく包み込んでくれた母は、いつの間にやら思考の内から消えていき、この空っぽな体に残っているのは、痛みに対する抗えない恐怖と、何者かに対する憎しみだけ。

 修練というには過激すぎて、躾というにはあまりにもお粗末な、愚か者の暴行。

 夜は毒虫の蔓延る小屋の固い土の上で眠り、昼はただただ痛みに耐える。そのような生活が数年ほど続いたある日、いつものように痛みが降ってくることは無く、その男はいつものように感情を伺えない顔で静かに言った。

「これからお世継ぎに会いに行く。体を清めて着替えろ。お前の主になるお方だ」

 男に連れられて行った先は、漆喰に塗り固められた、奇妙な球体のような、不思議な建築物の群れがあった。

 朱色の門をくぐり、大きな木製の扉をくぐった途端、何か生暖かい膜をくぐったような、そんな一瞬の接触があり、これまた生暖かい空気が頬を撫で上げた。

 辺りは品のいい、紺と白でまとめらえた空間が広がっている。天上は室外から見るよりも高いようで、不思議な香りが漂っている。その綺麗に整った空間に、俺は恐ろしい程の恐怖を覚えた。

 全身の鳥肌が立ちあがり、心の臓をそのまま捕まれるような、本能が接触を拒むような、そんな感覚に陥った。

 隣に立った男が、その先に進めずにいる俺の背を軽く叩いた。

 はっと意識が表面に浮かび上がり、手足に通っている血潮を判別することが出来た。

 前に進む男の手のひらが、俺の背中を押して、それに追従するように右足を前に出すと、足の裏から圧を感じ、出そうとした左足が思わずすくんで、背中を冷汗が伝うのを感じた。

 正直自分のいる環境よりも、地獄のような場所があるとは想像もしていなかった。これほどまでに、美しい空間だというのに、精神をすりつぶされるような恐怖があるとは想像もしなかった。

 頭にぼうっとした靄がかかっているような、そんな意識のまま、大人たちが話しているのを横で聞いていたが、男たちの周りに人が複数出入りしたと思ったら、遠くから鈴のような音が微かに聞こえてくる。

 だんだんと近くなる鈴の音ともに何となく、涼しいような、心地のいい風が鈴のなる方から吹きかけてくる。

 幾多の死霊と共に現れた雪のように可憐な子供は、純白の着物の上に金色の刺繍が施された半透明のベールを纏って、シャンと伸ばした背筋でこちらを真っすぐに見つめ、鈴を転がすような声を発した。

「こんにちは」

 この一声を掛けられただけで確信した。俺はこの子のモノになるのだと。

 本能か遺伝か、この子に全てを捧げたいと、この美しい子供こそが、自分を地獄から救ってくれる、そんな気がしてならなかった。

 このような気味の悪い場所であるのに、この子供がいる側であれば、まるで森の中にいるように、綺麗な真水の中にいるように、心が軽くなる。

 その時から俺の、第二の人生が始まったのだ。


 3

 天使のような相貌に対し、一切の情け容赦ない激情。圧倒的な力の裏に隠された努力に裏打ちされた忍耐。

 仲良くなるにつれて彼が見た目とは違い豪快な性格であることも、誰かの為に涙を流す慈悲深さも、神聖で触れられない存在だった彼が、背中を預けてくれるようになるまで、彼の懐に自分を入れてくれるようになるまで、時間と誠意をもって、じっくり、じっくりと育てていったのだ。

 あの地獄の時間は、彼の隣へと立つための、必要な時間だったのだ。

 友人に対する愛情と執着と信頼。

 言葉にすれば簡単だろう。だが、文字上なんかでは、決して言葉では起こしきれない。俺の思いは、このドロドロとした思いは、決して君には見せることは出来ない。

 祓いを、最悪の人種を統べる者として、君臨するようになる君は、その立場に見合わないほどの光を抱いている。

 汚いものは全て僕が受けよう、食べられない毒は僕が喰らってみよう。だから君は、美しいままその頂点に君臨していておくれ。


 なぁ、だから、俺の神様の世界に、お前はいらないんだよ。ずっと彼を守っていた俺の、俺の為に頼むから、頼むから消えてくれ。

 彼に理解者はいらない、彼に友人はいらない。

 そばに侍って良いのは闇を被った祓いの者だけ。中途半端なモノが、簡単に太陽に近づかないでくれ。

 あぁ、本来、あなたはそんな風な笑みを、笑い声をあげる人間ではなかったはずなのに。

 貴方はそんな人では無かったはずなのに。

 どうしてあなたは変わってしまったのか。何が悪かったのか。やはり、根付が相手だとは言え、神を人に近づけてはいけないのだ。容認したおのれが馬鹿だったのだ。


 どうしたら彼は彼に戻ってくれるのだろうか。やはり、彼を地上に縛りつけるモノを隠せば、彼は天上に戻ってくるだろうか。

 それをどうすれば壊せるか、失くすことが出来るだろうか。過去の記憶やトラウマが、心の隙に入り込むのが、あれにはあるだろうか。

 彼の為に調べ上げた、あの人間の過去を暴こう、そして徹底的にすりつぶそう。

 彼の為に、彼の友を殺して、彼を空に、汚れの無い空に、導いてあげよう。


 それこそが間違いだとは言ってくれるな。

 今のような関係を望んだのはあなたじゃないか。

 あぁ、なんだ、あなたも僕を捨てるのか。

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