第6話 秋の話
1
かさりと微かな音を立てて、深い霧が煙る森を歩く影があった。
月の光に照らされ、風に揺れる木の葉に覆われて暗がりとなっているその場所を歩くのは、どうにもその場に似つかない人物で。
長くさらりと背に流れる漆黒の髪に、着流しから除くなめらかで白磁のような素肌。
前を見据える瞳は、どんな宝石も霞むような黄金の輝きを放っている。
いくら月の明かりが強い時分とはいえ、常人であれば歩くことも困難な明かりも無い夜の森を、美しい男はまるで平地を行くかのようにするすると歩いていく。
しばらくの間歩き続けていた男は、唐突に立ち止まったかと思うと、何かを探すようにきょろきょろと辺りを見渡した。
目当ての物を見つけたのか、草むらの中へと歩を進めた男。
獣道だろうか。わずかばかり何者かが通った後がある道の中腹。何もない空中をまるでドアをノックするように二、三度こんこんと軽く叩いた。
その場所には何も存在しないはずであった。
だが男が叩いた瞬間、透明なガラスのようなものが形成され、明らかに硬質の物体が出来上がった。
男は驚くそぶりも無く、その物体を軽く前に倒すと、その中に身を滑り込ませ、まるで出入りした後の扉を閉めるように物体を元の様子に戻して、その場から姿を消した。
まるで初めからその場に存在していなかったかのように、男の気配は一瞬にしてその場からかき消えたのであった。
終いには男のつけてきた足跡さえも、月に雲がかかってから姿をもう一度地上のものに見せる、そのわずかな間にすっかり消えてしまっていた。
男はガラス戸のようなそれを越えた後、ゆっくりと呼吸を整えると背後に建つ、古ぼけた神社に向き直った。
人の手が入らないまま何十年も放置されたのであろうそれは、見るからに朽ち果てていて、神聖さの欠片も感じられない。
そのような廃墟同然の建築物を眺める男の顔は、なんとも優し気であり、それでいて寂しさと後悔を募らせたような表情であった。
冷たくも、暖かくも見える、その不思議な魅力を宿す瞳が見つめる先には、かつて己と袂を別った友が、風一つ無い水面のような、静かな瞳でこちらを見つめていた。
「こうした月夜に二人きりで会うのは、ずいぶんと懐かしい気がするな」
なぁ、猫。
その鋭利な美貌からは想像もつかないほど、なんとも甘ったるい、恰好を崩した声で男は三毛猫に問いかけた。
猫は、さあな。
とそっけない返事をしたのち、また何かを考えるように黙ってしまう。
「おいおい、お前が話したいことがあると私を呼びよせたのだろう。ずいぶんな仕打ちではないか?」
わざとらしい軽薄な声を作って、悲しそうに眦を下げて猫に問いかける男。
それに対し猫は困ったような、呆れたような、だが少し安心したような、なんとも言えない表情を浮かべている。
「お前は変わらないな」
「そういう猫は大分いい顔をするようになった」
「そうだろうか……」
「自分では気づかないものなのだなぁ!」
小さくなる猫の声に比例するようにあげられた、男の大声と笑い声。
それを咎めるような猫の視線に大振りな動作で謝った男は、仕切りなおすように大きく頷いた。
「そうだとも! あの業火のように燃え盛っていた憎悪の炎が、薪くらいの大きさに変化している」
うれしいと、喜ばしい事だと、体全身で喜びを表している男を、猫は眩しいものを見るように眼光を変化させ、ただ静かに
「そうか」
と肯定の返事を返した。
己にとって珍しく肯定的な意見を受け取った猫に対し、ふふ、と笑いがこみ上げてきた男であったが、当初の目的を思い出し真面目な顔で猫に話しかけた。
「して、話とは?」
猫はしらじらしい男の様子に、その瞳を責めるようにじっと見つめる。
そのような最中も、男の目には面白いものを見たような、愉悦の光が煌めいていた。
猫は堪忍したように、苦虫を噛み潰したような、嫌そうな顔で風のざわめきにかき消されそうなほど小さな声で返事をした。
「大輔の事だ」
男も重々承知していたのであろう、特段驚くことも無く頷いた。
むしろこれで無かったら何なのだろうと、若干面白がっていた節もあったのだが、心底苦しそうな猫の表情に、少しだけ感情が揺らいだ。
(猫がこんな顔をするようになるとはなぁ……)
感心したような、悔しいような、己が出来なかったことを簡単に成し上げてしまった存在に、若干の嫉妬すらも覚える。
淡泊な間が空いたのち、三毛猫は視線を一度その人物から外すと、難しい顔をして空を眺める。
二人の間に会話は無かった。
木々が風に揺らされ木の葉がふるえる音、虫のさざめきのみが辺りに響いている。
森の立てるざわざわとしたさざめきも、生物が立てる鳴き声も、二人の間を静かに流れる静止した空気も、自然に身を任せたような心地で。
なんとも感じの良い、不思議な時間が漂っていた。
ふと、風が強く吹いた。
地上を照らしていた月光がゆらゆらと揺れる雲に隠され、次第に辺りは薄暗く、闇に包まれた。
帳が下ろされた空間は、その場の空気を現すように一気に暗く、陰鬱なものへと変化する。
空気が張りつめ、どことなく冷たい風も吹き始めた。
月影が木の葉を照らし、ゆらゆらと楽しそうに揺れていた木々は、大きな恐ろしい物へと姿を変え、乱暴に腕を振るっているようにも見える。
互いの姿の輪郭ほどしか見えなくなった頃合いに、猫は静かに語り出した。
「何も、人間が嫌いだとか、そういうことではないのだ」
猫の姿は闇に隠れてしまっていて、男がその表情を見ることが出来たわけではない。
だがその悔恨の込められたその声に、猫がどのような顔をして話をしているのか、長年の付き合いがある男には予想が付きやすかった。
「ひとくくりに人間といっても、その姿は多様だ。良い人間もいれば、悪い人間もいる。そればかりか良い人間の中にも悪い人間は存在するし、悪い人間の中にも良い人間は存在する。個体差の開きがなんとも大きい。それゆえなんとも、なんとも面倒が臭い」
吐き捨てるようにいった言葉は、猫自身の心情を吐露するように、吐き出した猫自身を攻撃するような厳しい声音で話されている。
猫の語調が段々と厳しいものに変わっていく事を感じた男は、無意識のうちに猫の佇んでいる方へと一歩を踏み出していた。
「お前などはそこが人の子の愉快な点だと一等喜ぶが、私はそれが嫌だ。きらいだ、不愉快だ」
「猫や。わかってはいるだろうが、お前は」
「白野、最後まで聞いてくれ」
自分の内側をわざと傷つけているような猫の言い分に、思わず猫の語りを遮って声をあげた男だったが、猫の感情の高まりを感じ取って、珍しく口を噤むこととなった。
先ほど憎悪の炎は小さくなったと評した男であったが、早くも己の甘い審美眼を叱咤したい感情に駆られた。
小さくなったかに思われた激情は、むしろ憎悪は濃度を増し、不純物の無くなった感情は、恨みによってより強く、美しく鍛え上げられている。
「自分たちが望んだ時だけ、それを祭り上げるだけ祭り上げて、都合が悪くなれば簡単に捨てる。この社もそうだ。人による崇拝が無くなった神は、朝露が消えるが如く、ひっそりと姿を隠すことになる。嫌だ、そんな結末は嫌だ」
泣くような声で叩きつけられる小さな体に宿った大きな思いは、闇に染まる大気を震わせた。
「奴らはそれが悪であるとつるし上げて、無かったことにする。敵視してくる。許してはいない。許せるわけがない。許してなるものか!」
「猫……!」
「だが、そんな私を作りあげたのも人間で、何より……」
だんだんと感情的になる猫をよろしくないと思った男が思わずその語りを諫めようとした時。
猫の激情の糸がほどけるが如く萎んでいった。
その様子を計ったかのように今まで月にかかっていた雲が流れていき、煌々と輝く月が、緩やかな光を放つ月光が、互いの姿をさらけだした。
「私を助けたのもまた、人間なのだ」
懺悔するように、夜露に濡れた地面に体を伏せるようにして、猫はうなだれていた。
いつも小さい事を気にしてか、猫であるはずなのに体をしっかり起こし、比較的大きく見えるような体制を心掛けている猫が、人に弱みを見せることを何より嫌うあの猫が、小さくなっている。
男には一度も見せたことのない姿であった。
「白野殿、白鷺の君、妖怪の長!」
猫を心配し思わず駆け寄ろうとした男を押さえるように、猫は先ほどと同様に、しかし決意の籠った声をあげる。
そうして体に着いた土や汚れを振って落とすと、毅然と男に向き直り、目を白黒させる男を振り回すよう、途端態度を変えて静かな声で話し出した。
「白野殿、妖怪の長たる貴方への、これまでの無礼を承知で申し上げる」
猫の瞳は先ほどとは打って変わり、敬愛と慈愛など、様々な愛おしい物に変化している。
「私は、私の恩人たる人間、岡本大輔。彼を害そうとするあらゆるものから、彼を守ると決めております。彼の憂いを晴らしたいがため、その根源を滅したいがため、此度の招待もその為でございます」
感情をおさえるよう、冷静に、波が立たぬように猫は話続けた。
それならば不本意とはいえ妖怪を纏める立場にある者として、一妖怪からの言葉を聞き届けなければいけない。
男は、様々な感情を抑えこみ、猫の言葉へと真剣に耳を傾けた。
「一度は人間を恨んだ私ではございますが、元はそも、人間から作られた身。人の醜悪を感じながら人の温かさに触れ、この時まで生きてきた私でございます。人間から疎まれようと、祓い師の連中に殺されかけられようと、敵対だけはしないで生きてきた。だが、此度はそうとも言ってはいられない。私にもう一度愛情を、喜びを、体温をくれた愛し子。その子が泣かねばならないのなら、自分のせいであると、同類が痛めつけられる事で涙を流すのならば、その憂いを晴らすのが我が役目。その為に、あなた様には人の子を、矮小な人間を守ることに力を貸していただきたい」
先ほどのふざけた雰囲気はもうない。
双眸に剣呑な光を携えて、図るように、挑発するように、しかと話をする猫を眺めている。
猫は生唾を飲み込むと、もう一度一人の人の子を守ってほしい旨を伝え、地面に頭がこすりつくほどに、深く、深く頭を下げた。
それから沈黙がどれほどまで続いたのだろうか。
猫にとって永遠とも思える長い時間が続いたのち、男が未だに硬質な声で言葉を発した。
「しばらく考える、楽にしなさい」
そういって猫と向かい合うように地面に腰を下ろすと、男は胡坐をかいて瞑想を始めた。
猫はしっかり時間を取ってからゆっくり頭を起こし、目の前の男に自分が大分甘やかされてきたことを、始めて彼を恐ろしいと感じていることを、数百年の付き合いにおいてようやく理解した。
瞑想は長い事続いた。
猫が一周回って落ち着きと図太さを取り戻し、この待ち時間に飽きてきた頃。
先ほどから感じる既視感、外つ国の言葉でデジャヴというのだったか。昔に似たようなことを体験した事があるなあと、そんなことを考えるようになっていた。
先ほどのしおらしさとは全くの別物の、元通りの猫である。
緊張しているのはしているのだが、正直それよかこの座りの悪い思いを、さっさと片付けたいと思うあたり、猫が猫たる所以であろう。
しばらく考えていたが、男の結論は出ないし、このもやもやは募るばかりである。
そんな最中、一陣の風が山を辿って降りてくる。
何やらこれも覚えのあるような、そんな折にふと猫は既視感の正体にこぎついた。
(これはあれだ、付喪神と成る前の、あの一年に似ているな)
恐れ多くも長の沙汰を待つ間、猫はただひたすらにそんなことを考えていたのだった。
2
猫がこの世に己が生まれた日。付喪神としての意識を確立したあの日。
始めて己が付喪神と呼ばれる妖怪になった日の事を、猫は昨日のように覚えている。
暗闇の中で何か声が聞こえてきて、それは二つや三つの声では無かった。
次第に彼らの会話と呼ばれる意思の疎通から、自分がなにであるのか、どうやって彼らと話せばいいのか、そんなものを学び取った。
初めて自分から話しかけた時は、自分の近くにいたのであろう、亀が書かれた古い掛け軸が、やけに嬉しそうに、大げさに喜んでいた事がなんだかやけに記憶に残っている。
彼らは新しい仲間の出現を喜ぶと共に、気を付けることなど、それは口うるさく猫へ知識を供給した。
九十九年が過ぎる前の、ほんの一時。
付喪神であれば誰もが知っている、暗闇の期間が一年ほどある。
周りの者たちと会話もできるようになり、意思の疎通の、自己の確定も、一年の間に行われるのだが、この時期に体を破損させてしまうと、完全な付喪神には成れやしない。
実際問題、猫の周囲にはそうなった先輩連中がおったし、そうなったモノは大抵が十年やそこらでせっかく生まれた自我を無くすことになる。
付喪神は人間のように死ぬわけではないが、補修され、側が治ったとしても、そこに新たに生まれるのは別の自我だ。
損料屋という不特定多数に借りられる寝床に不安はあったもの、猫は値段が高いのか一年近く借りられることなく本当の意味での付喪神に成ろうとしていた。
そんな矢先、猫を借りたいと言ってきた商人の男が来た。
活気の溢れる道すがら、人が行き会う道中。
そんな騒がしい場所で猫は、とある商人の腰辺りで、着物に掛けられて財布に括りつけられていた。
店の付喪神たちが心配する最中、余裕そうにしていた内実、心底ビビりまくっていた猫にその時は訪れる。
猫は百年の時を生きたのだ。
相変わらず四肢は動かない、だが明らかに何かが違った。
いつ、なんどき、からだが欠けるかわからない恐怖と戦っていたあの時と比べれば、ずいぶんと心持ちが楽になった。
何より、自分は曲りなりとも神の末席に腰を据えることが出来たのだ、という自尊心が猫の心を一瞬で埋め尽くした。
だがしかし、そんな心境とは裏腹に、初の視界というものを堪能しようにも、猫の世界はいつまでたっても暗いままである。
顔の方向が内側を剥いていた為に、意識がはっきりしてからも視界は真っ暗なままで、同じ損料屋の付喪神連中が話していた内容と、大分乖離があって酷くおちこんでいた。
ひどくつまらない気分になって、早く貸し出しの期間が終わって、文句をつけてやろうと、自分をからかった事を咎めようとしていたのだ。
そんな中、急に視界が開けた。
橋を渡っている途中、持ち主がスリに合いそうになった時、慌てて抑え込んだ時に偶然猫が外の方を向いたのだ。
持ち主の響き渡る怒号と、顔に当たる冷たい風、橋の上から臨んだ川は、水面に光が反射して輝きプリズマを放っている。
透き通るような青空に、青とはこのような色何なのだなと、付喪神たちが話していたことを、猫は始めて理解した。
人の雑踏、匂い、熱気。
様々な情報が混在していて、視界に入ったモノを片端から注視して過ごしていたら、損料屋に帰る頃には疲れ果てて目を回してしまい、付喪神連中にはひどく揶揄われた。
3
まだただの根付の付喪神だった頃の、遠い、遠い楽しい記憶。
猫は単なる根付ではない。
人の噂から成り上がった、人より存在を塗り固められた、人の欲で仕上げられた、特別製の付喪神である。
前に大輔が猫を調べる折に触れた書物。あれは非常に正確なものであった。
人の噂が噂を呼び、その実はただの根付であったはずなのに、何時しか本物になってしまった哀れな道具。
人が祈りを込めるたびに、禍福がその身を焼きつぶし、己という個の中に、新たな逸話が誕生した。
偶然幸運を手に入れた人間により、良い事を呼び込む便利道具として重宝され、存在の価値と効力が知らぬ間に身に付いた。
猫を損料屋から買い取った商人により、屋敷の中の小さな社の中で、商人の子が孫をこさえるくらいの間、家の繁栄を願ったりした時期もあった。
そして大きくなり過ぎた噂話と、商家は転換期を迎える。
幸運を手に入れた人間を呪った人間が猫の事を、幸を吸い取る曰く付きの道具であるとこき下ろしたのだ。
実際、世間での評判など、悪評が広まる方がはるかに速い。猫は、呪いの道具となって格の高い神社にてお焚き上げをされることになった。
何をしても動かぬ四肢と、これまで幸を与えてきた商家に対する悲しみが、恨みが、諦念が、困惑が、落胆が、喪失感が、愛憎となり憎悪となり、猫の体を突き動かした。
猫の内から燃え広がった復讐の炎は辺りを一面火の海へと変貌させた。
人体が焼き焦げる匂いと煤が漂う空気。
酸素が無くなり、周りが全て燃え堕ちてから、猫は初めて自分の力を自覚した。
それからというものは、己を滅そうとする人間と怖がって近づいてこないか、喧嘩を売ってくる同族らしきもの。昔のように、ともに当たり合うものすらいやしない。
猫の世界は狭く、寂しく、そして寒かった。
己を守ることが出来るのは己だけ。
そのように生きて早数百年。人間の営みにも変化が起こり、生活の形は大分変化を遂げることになる。
祓い師の数は激変し、危険な目に合うことも無くなり、そもそも自分よりも強いものが、もはや数える程度しか存在していない。
猫は孤独に慣れ切ってしまっていた。
その中で出会った、自分を一個人としてみてくれる人間。
始まりは只の偶然出会った。
己の幸運を使う力もなく、途方に暮れていた霧雨の晩。凍える体に伝わる何百年ぶりの、人体が放つ暖かい鼓動。
幸運とはこのことを言うのだと、自分が曰く付きの道具になってから、始めて自分の効力に感謝をする日が来た。
これは自分のエゴ、巻き込んでしまった事に対する贖罪。
そして、自分を選んで受け入れてくれた、再び愛することを教えてくれた、自分のモノに対する感謝と誠実の気持ち。
自分の中にも、神らしさである強欲があった事を、目にした橋の上からの景色を、分らせてくれた、思い出させてくれた。
この安らぎを、安寧を、他のものを捨ててでも、何を対価にしてでも、守り抜かなければならない。
今まで感じた事の無いような高揚感に、猫は心底驚き、そして真摯に向き合おうとしていた。
それゆえの行動が長たる白野への挨拶である。
大きな群れになればなるほど、上のモノから目下のモノへ、自らが声をかけることは滅多にない。
それゆえに猫は特別であった。
だがしかし、此度は猫個人の問題では済まされない規模にまで、事態は拡張してしまっている。
もうすでに小さな者達には被害が及び、何名かがすでに払われたとの報告が猫の耳にも入ってきて、大輔の家を中心として張られた結界の中に逃げこんできたものもいる。
原因は己とみて間違いないであろう。
大輔に初めにかけた術の存在を奴らに気取られた他にも、先の白野からもたらされた情報にあった通り、大輔個人に対し厄介ない感情を持っている祓いの者がいるという。
自分を含め、なんとも厄介な者ばかりを引き付けるものだと、猫は薄っすらと自嘲気味な笑みを浮かばせた。
4
「猫、君への沙汰を決めたよ」
目の前の妖怪の、烏の濡れ羽色のような髪が、風に揺れては月光に照らされ、不思議な光を放っている。
猫は思考の海から顔をあげると、こちらを面白そうに眺める金色を見つめ返した。
いつの間にか風は止んでいるようだった。
月はさらに力を強め、灰色の陰りを纏ったような青白い光の帯が、辺り一面を撫で上げていく。
天上の支配者は我であると、星すらも霞みそうなほどに強い月の光が、まるで白昼のように存在を誇っている。
「猫、いや、今の名前はたまだったかな? いいよ、君に協力しよう」
彼が言葉を言い終わるや否や、様々な音が痛い位に鮮明に聞こえてくる。
風のざわめき、木々の揺れ、虫の歌声に、鳥の囀り、地中の中からも、ミミズやモグラなどといった生物が土を掘り進める音が、否応なしに聞こえてくる。
「猫も緊張をするのだね」
感心するような男のつぶやきが風に乗って消えた。
猫はようやく、自分の心拍数が上昇していることに気が付く。
先ほど風がやんだと思っていたのも、緊迫感にのまれ聞こえなくなっただけだとわかった時、猫はようやく心を落ち着かせるために呼吸を整えた。
目の前の男は先ほどとは打って変わり、すっかり元の調子に戻ってしまっている。
へらへらとした笑みを浮かべながら、猫に視線を合わせては嬉しそうに体を揺らしている姿は、先ほどの威厳に満ちた様子からは結びつきそうにない。
あきれ返る猫に対し、男は先ほどの猫の様子が大変気に入ったらしい。
気が向いた時にでも、自分に丁寧な感じで喋りかけてほしいのだという。
「誰が通常のお前に対して敬意を払いたいと思うか馬鹿め」
「まったくもう、ひどいなぁ」
辛辣な言葉を吐きかける猫に対し、それでも嬉しそうに男はわらっている。にこにこと村底嬉しそうに嗤うものだから、猫は怒りよりも呆れが先に来たようで、楽し気に笑う男の笑顔に毒気がすっかり抜けてしまっていた。
「一体なんだというのだ……」
「私はね、猫がこのように誰かの為に一生懸命になることが、とてもとてもうれしいのだよ。あんなに廃れていたこの子が、しかも一人の人間の為に、私に頭まで下げに来るだなんて。自尊心の高い昔のおまえが見たら、卒倒ものじゃないかとか考えていたら、どうも楽しくなってしまってね」
猫は心底嫌そうに顔を不細工にゆがめていて、それを見て男はまた、頬が緩んで仕方がなかった。
男は言っても神であるこの猫が一番荒れていた時期に出会い、未だに細々とした交流が続いているという大らかな性格である。
猫に誰よりも向き合い、誰よりも猫を理解してきたつもりであった。
それをぽっと出の、どこの馬の骨ともわからぬ矮小な人間に自分の立場を追われた時は、どのような心持であればよいか分からなかった。なんせ猫も猫で人間が好きで、好きでたまらないという。
例えるならば、やっと反抗期が終わったような事だろう。
そんなもの、うれしすぎて笑いが零れてしまうに決まっている。
やっと猫が、誰かを特別にし、誰かの特別になった。
損得勘定なしの対等な存在が、あの猫に出来たのだ。
これがうれしくないわけがないだろう。
「もういい、用が済んだからあいつの元へ帰る」
すっかり元の対応に戻ってしまった猫に対し、少しだけ硬い声を出した男が猫を引き留めた。
まだあるのかという表情を隠さない猫に男は、
「人の子は皆可愛らしいし、好ましいだろう」
と一見質問のようでいて、なんてことの無い、ただ確認を投げかける。
猫は一瞬静止したのち、やけくそのように声を張り上げた。
「あぁ、本当は人間の事を好ましいと思っている。だがそれよりも、俺は大輔の事が、大切で、愛おしくて堪らない」
これで満足か。
叫びながら足早に己のいとし子の元へ帰ろうとする猫の後ろ姿に、ニヨニヨとした笑みを浮かべ、男はその猫の進む先を嬉しそうに見送った。
難儀な性格の猫に、これ以上心労が降り積もらぬように、梅雨払いをするのが私の役目である。
そして何やら悩んでいる様子のいとし子にも、声を掛けてあげた方がいいだろう。
これから先の未来が楽しくなるのと同時に、少々鬱陶しくなった祓い師共にも、お灸をすえなければならない。
曲がりなりにも妖怪たちの取り纏めとして、弱気者どもを守らなければ。
まったくもって厄介な性質の者同士、引き寄せ合うものなのだなと、柄にもなくセンチメンタルな気分に浸った妖怪の長は、珍しくその姿とその場に合った雰囲気を醸し出していた。
5
大輔が猫を拾い、人ならざるモノたちと関わりを持つようになってから、季節が二つほど移動しようとしていた。
燦燦と照り付けていた太陽は高度を増したように感じるし、秋口に鳴く虫たちが早々に合唱を始めている地域もある。
草花も青々とした姿からは装いを変え、少しずつ色づきはじめる地域が、こちらもあるようだ。
木々が衣替えを終える前に、毎年ビル風の洗礼を受けてから衣替えを始めるのだが、今年は適切な時期に終えることが出来てよかった。
去年までは冷たい北風が、ビルの間を通り抜けていく突風と相まって、これでもかと猛威を振るっていた。
去年まではそれを体験し、慌てて季節の移り代わりを意識していたのだが、なぜか今年はそこまで寒い思いをしていない事に気が付く。
喉の奥に引っかかった小骨のように、微妙に嫌な気持ちが大輔の頭の中をしめていた。
(今年から変わった事、というとなんだ)
そんなことを思いながら帰るいつもの電車の中。
今日は朝から風が強かったからか、いつも自転車で行き来しているのであろうか。手持ちのカバンではなく背負うタイプのカバンを窮屈そうに胸に抱えている人が多くみられた。
人が乗車してくるたびに押され、入口から大分押されてしまった大輔の近くに、気の強そうなスーツの女性が同じように流されて来たわけだが、ちょうど大輔のカバンの持っている位置が女性のおしり付近にある。
昔に一度だけ、痴漢だと騒がれた時の記憶を、思わず思い出してしまった。
あの時の周りの乗客からの白い目と、被害者だという女性の甲高い怒鳴り声。
実際には事実無根であり、大輔は誓ってしてはいないのだが、やっていないと宣言しようにも、女性の勢いと威圧感に心が折れ欠ける。
ちょうどその時、大輔とその女性の対角の位置に座っていた乗客の証言から、実際の犯人は女性の左となりの中年の男であったことが判明した。
大輔の誤解は無事解かされたのだが、目的の駅に着く前に一目散に電車から逃げ出した記憶がある。
その悪夢のような記憶を思い出し、痴漢を疑われることを心底恐れた大輔が取った手段は、カバンを足に挟みつり革を両手でつかむという、なんとも重心の取りにくい体制になった。
その女性に他意はなかったのだろうが、大輔が苦手とする、いかにも仕事の出来そうな、キャリアウーマンタイプの切れ目の女性だったことが、あの時の彼女を連想させるような服装が、彼にそういった行動をとらせたのだろう。
何とかしがみつきながら、滅多に目を向けない釣り看板を眺めていると、荷物置きの場所で小さな赤い鬼のような妖怪が三匹、それに捕まりぶら下がって遊んでいるのが見えた。
(自分の生活に溶けこみ過ぎて違和感が無くなっていたが、そういえばこいつらを見る事も無かったんだよな。そうか、やけに今年は季節の行事をしている気がすると思ったけど、行事の方からやって来るのか)
猫や己の周りにいる妖怪共に限らず、そういった存在達は季節を大切にするものらしい。
何せ行事にも妖怪が生まれることもある。
旧暦の頃からあるような行事がいたりすれば、最近できたような祝日も存在しているらしい。日本人は居ないものを、あたかもそこに存在しているように考えるのが昔から得意なのだろう。
日本古来の人々が信仰していた神道であっても、宗教の考え方としては少々異質なことも、何となく察することが出来る辺り、日本人の価値観は稀有なのだと改めて思い知らされた。
季節の行事が大切なのか、はたまた宴騒ぎが好きなのかはわからないが、そのおかげか今が何月の何日なのか、猫と暮らすようになり、何かしらの妖怪が訪ねてくるようになってからは、これまで部屋に無かったカレンダーを配置し、しっかりと確認する癖が大輔にもついた。
自分の生活が段々と猫に浸食されて行っていることに若干の優越感をこさえながら、カーブに差し掛かった電車が大きく揺れた。
大輔はふらつきながら小鬼たちの事が心配になり見あげたが、彼らはそれすらも楽しそうに遊んでいる。
電車の揺れとブレーキの音により、小さな彼らが発した言葉を理解することは出来なかったが、何やらにこにことしていて楽しそうだ。
大輔がじっと小鬼たちを見つめているのに、彼らも気が付いたのだろう。人間に見つめられていることに驚き慌てて逃げだそうとしている二匹を慌てて止めていた、二匹に比べて落ち着いている一匹が、逃げ出した彼らに何かを話したと思ったら、逃げようとした二匹もようやく気が付いたようで、少し恥ずかしそうにしながら大輔へと笑いかけた。
その愛らしさに大輔が思わず頬がほころびそうになった表情を慌てて引き締めていると、小鬼たちはするすると器用に手すりを降りて大輔の足元へと駆け寄ってくる。
(人間に見られていると気が付いた時は、あんなに慌てていたのに、こいつらも大分俺に慣れたんだなぁ)
この小鬼たちは、今でさえよくアパートへ訪ねてきては集団で菓子を大輔に強請り、猫の分に手を出そうとして猫の制裁を加えられているのだが、その正確な数は妖怪の長と呼ばれる白野をもってしてもわからないほどにたくさんいるし、個体の分別は彼らの中でもざっぱらしい。
そういう妖怪らしいのだが、電車で遊んでいた子たちには、なぜか見覚えがある気が大輔にはした。
いつも他の子よりも多く菓子を持っていく図太い子に、落ち着きがなくいつもふらふらとどこかに行こうとして、もう一人の賢そうな子に止められている子。
一目のあるところで彼らに話しかけるわけにもいかず、足元でじゃれている彼らをじっと見つめていると、擦り傷や土埃に塗れてしまっているような気がする。
荷物置きで遊んでいたのだから、埃とでも見間違えたのかと思い慌てて見直してみたが、やはり怪我をしている。
彼らに理由を尋ねる為、本来降りるわけでは無かった駅で降りると、彼らを連れ人影のない所でスマホを耳に中てながら、出来るだけ優しい声を心掛けて、怪我の事を聞き出した。
手持ちのウェットティッシュで汚れをぬぐってやりながら、会社で配られたお土産のお菓子をあげてみたが、小鬼たちは困ったように互いに顔を見合わせ、首を横に振るだけであった。
妖怪同士は良く喧嘩をするし、小鬼たちも菓子目当てに他の妖怪に喧嘩を売る事はよくあるが、こんなに汚くなるまでやることはまずない。
いったいなぜこんな風に汚れてしまったのだろうか。
猫や白野の話を聞いて、心当たりがないわけでは無かった。むしろ、その可能性であることの方が、大輔は低いと思っていた。
だがいつも姿が見えないのをいいことに悪戯をしているあの子たちの、電車での反応を見るにどうやら、一番真相と遠いと思っていたことが正解なのかもしれない。
最近一人で出歩くときに、やけに妖怪たちがついてこようとするし、どこか遠くから視線を感じるような気がしていた。
妖怪たちが居るのは人間目線を体験したいのだという白野の言葉に納得していたが、よく考えるとあれは遊んでいるのではなく、何かから警戒しているような行動であった。
視線に至っては猫の力が強いため、気のせいなのではないかと思っていたが、この視線は妖怪側にいる自分が気に入らないがための監視だったのだと、今までの出来事がとても腑に落ちる気がした。
本来であるならば、祓い師も小鬼たちのように、人に害をなさない力の弱い妖怪を払うことはしないという。
ならばなぜ、この子たちに傷がついているのか、自分の周りに漂う視線は一体何なのか。
考え込むようにして黙ったその顔が怖かったのだろう。小鬼たちはうろうろと大輔の周りをまわっていたかと思うと、何やら円陣を組み、こそこそとしゃべっている。
元々小さな体から出る声をさらに小さくし、彼らが唯一使える小さな風を起こす術を使って、大輔には話す内容が一切聞こえないようにと、完璧な布陣であるらしい。
傍から見れば、人通りのすくない道の端で、携帯に耳を当てながら難しい顔をしている彼は、着ている服装も相まって小難しい話をしているかのように見えるのだろう。
実際は、小さな小鬼たちが小さくまとまって話し合いをしている様子を笑っては失礼だと、上がる口角を必死に押さえつける為に生まれた鬼の形相なのだが、歩行者があからさまに彼のいる周囲を避けて通っていることが納得の出来るような形相を彼はしていた。
大輔自身も先ほどまで妖怪が自分のせいで怪我を追ってしまっているという事実に、軽く打ちのめされていたのだが、目の前の至福の光景を目に焼き付けるのに今は忙しくなってしまって、難しい事を考える暇が無い。
しばらくすると話し合いが終わったようで、一斉に振り向いてキリっとした顔を作って、鬼のような顔じっと小鬼たちを見ている大輔に驚いてしまったから、カッコよく決めた初めの顔が台無しであった。
まだ少し怯えが残っている様子のまま、小鬼たちは確かに決意した目をして、大輔に事のあらましを語って聞かせた。
「まずは第一として、僕ら妖怪は上の妖怪が絶対なのです」
いつもは落ち着きのない子が、真剣な顔でいうものだから鷹揚にうなずいた大輔だったが、どこか理解の出来ない顔をしていた。
(でも猫は白野に食ってかかっているよな?)
大輔の考えている事が顔に出ていたのだろう、脇からすかさず訂正が入った。
「猫様は特別です。妖怪の世界広しといえども、あれは本当に稀な例です」
「まれ」
「はい、希少な特殊例です」
特殊と言えば自分も特殊なのだろうが、それを比べて鑑みる限り、妖怪の序列は本当に厳しいものなのだろう。
それよりも、こんな小さな小鬼たちにまで言われる猫の破天荒振りである。
この目を猫から授かった当時は、うちに集まってきた妖怪が煮物を取り合う二人を見て、泡を吹いて倒れそうになっていたのにも慌てたが、今となってはそんな騒動もよくある事で片付けられるような、猫譲りの図太さを大輔は手にしていた。
すると今度はいつもマイペースなあの子が、仕方がないなぁという風に脇から解説を入れる。
「僕ら妖怪は上位者に逆らうと、何か酷い事が起こるの」
「なんか酷い事?」
「そう、何か酷い事です」
思っていたよりもざっくりとした説明であった。
思わず聞き返した大輔であったが、真面目な子がダメ押しというばかりに、何か酷いこと。と主張をする。
「何か酷い事。上位者によってその何かの桁が異なるからね、何か、ということにされているんだ」
「本当に妖怪って自由というか、適当というか」
息の詰まる人間社会を三十年近く生きた身としては、たまに妖怪のルールの杜撰さに驚き困ることもあるが、人間と比べなんと自由で強い世界なのだろう。
自分は只猫の力を借りているだけに過ぎない、本来ここにいてはいけない存在なのだとハンコを押されたようで、どこか寂しくも思いもする。
だがなぜ祓い師の話から飛んだのだろうか。疑問符を浮かべる大輔に、切れ味の強い言葉が飛来した。
「妖怪の中で一番偉い白野様が、猫の所の人間を祓い師から守れと命令が出されたのです」
何となくそんな気がしていたが、あの妖怪は懐に一度入れたものに対して些か甘すぎやしないか。
そんなことを呟くと、小鬼たちは嬉しそうな笑顔で辺りを照らした。
「あの猫様が、白野様に対して頭まで下げたそうですよ! 私達妖怪にとっても大事件でした」
感慨深いものを、記憶の海から引き起こすように、楽しそうに、嬉しそうに語る小鬼たちの様子に、こちらも笑みが浮かんでくる。
猫がどんなに自分の事を大切に思っているのか、その為の行動が周りの妖怪たちが傷つく事だと知っていても、どうしようもなく猫の事が愛おしくてたまらなくなった。
猫がどんなに自分を愛してくれているのか、まだ浅い面しか触れていないが、それの底にどれほどたっても足がつかないように思えて、改めて猫の愛情の重さの根本に触れたような気がした。
共に落ちてゆく愛の螺旋の鱗片に触れて、これを真正面から受け止めた白野様はやっぱりすごいのだな。と密かに妖怪たちの中でも、猫と大輔の特殊例を楽しんでいる者達が増えだしたのは良い事である。
だがしかし、妖怪を無作為に狙うことを大輔が気に病んでいるのも事実。
何とかして二人が幸せになれる道が開ければいいなと、小さな鬼たちは頭を悩ませるのであった。
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