第5話『過去の話』

 1

 今にも可視化できそうなほどの熱気と、じめじめとした湿気が肌に纏わりつく、なんとも過ごしづらい夏の日。

 いつもよりも早く終わったバイトの帰り。宵の口からだんだん深い闇へと変わりゆく町の道中。街燈へ飛び込んでいく気色の悪い虫と、道端でイチャイチャしているカップルがいる。

 夏になると無限に湧いてくるような、そんな奴らを横目に歩く帰り道。

 ふらふらとした足取りで道を行く青年は、大分重そうなカバンを背負い、肩には大きめの紙袋を下げていた。

 足取りは大分おぼつかない様子であるが、実のところ、それ以上に苛立ちが勝っている。

 この沸き立つ苛立ちは一体どこから来るのか、覚えがあり過ぎて逆に分からない。

 とにもかくにも、この荷物を軽くしたい気持ちでいっぱいであった。

「重い、肩が千切れる、本当に重い……」

 しきりに文句を口に出しながら道を行く姿は幽鬼のようである。

 自分の容量を把握しておくべきと言いたいところだが、如何せん今回は不可抗力だと擁護せざるを得ない。

 友人から本を借りたいと言われ、しぶしぶ持ってきてやった日。通常であるならばレジメが配られることのない授業で、大量の紙の束が突如として配布されたのだ。

 そしてこの想定もしていなかった事態、人がせっかく持ってきてやった本の受け取りを、友人が拒否しやがった。

 彼も彼で思わぬ大荷物に苦戦している事を理解してはいるが、こちらの事情も鑑みてもらいたい。

 もうすでに自分のカバンには本と教材が詰まっている。しかたがなく別の入れ物を探した所、入手する事が出来たのがこの耐久性に欠ける紙の袋だけであった。

 持ち手の持ちづらさと言ったらこの上なし、その上袋が無駄に大きいものだから、手に持つと地面についてしまう。その為に肩に掛けるしか持ち運ぶ方法が無い事が無い。これがまた肉に食い込んで地味に痛いと来たものだ。青年は、中に納まる紙の束がなんとも恨めしかった。

 なぜよりにもよって今日なのだ。

 レジメを配った油ぎった禿げ頭に対し、さらに毛根が断絶しろという呪いを飛ばしながら、またふらふらと歩みを続けた。

 この大荷物で家に帰るのは大分辛い。

 青年の脳裏に無理の二文字がよぎった時、そこから大してかからない場所に、件の友人の家がある事を思い出した。

 このまま無事、家に辿りつける気がしなかった青年は、一時休ませてもらおうと友人宅へと目的地を変更する。

 元はと言えば本を頼んできたのはアイツである。置いて帰れば自分は背中が軽くなり、友人は本を手にする事が出来る、どちらにも利があるではないか。

 どうせならそのまま泊めてもらおうと、コンビニで買った菓子やら飲み物やらを貢物代わりに、疲れた体を引きずるように友人宅へと急いだ。

 ふと、生ぬるい風が頬を撫でる。感覚のあるような、夏特有の奇妙な空気。熱を持ったコンクリートと湿った雑草が混ざり合うような、なんとも言えない不思議な匂い。

 何かが起こりそうな気配が体を擽っていく。

 バイト先のある繁華街から少し入り組んだ路地に入り、格段に街燈が少なくなった。

 細くなる道の先に非現実的な世界が広がっているようで、今、この夏の夜という特別感が素晴らしいもののように思えてきた。

 空を見あげると、騒がしい夏の夜とは対照的にやけに美しい、それでいて寂しげな月がぽっかりと夜空に浮かんでいる。

 触ったら絶対に熱いはずなのに、どこか冷たく感じる硬質的なコンクリ―トから伸びた影が、自分を捕えようと首を伸ばしているようで、それがどこか恐ろしいもののように感じた。

 先ほどまでとは一転、子供の頃にした冒険のような、あのわくわく感はどこかへ消えて行ってしまっていた。


 2

(どうせまだ寝ていないだろう)

 少なくなったスマホの充電が減る事をケチって、連絡もせずに友人の元へと押し掛ける事にした。これまでお互いに家を行ききしていることもあるし、特にこれといって気を使う必要と思っての判断であった。

 不用心だと何度言っても聞かない、ポストに入ったままの銀色の鍵を使いドアを開けると、立て付けの悪い扉がぎぃ、と音を立てて開く。

 狭い玄関の明かりをつけて、足元を見ると女物の赤い靴を発見した。

(うわ、タイミングわる……)

 奥ではテレビでも見ているのだろうか、電子的な音楽と複数の男性の話声が聞こえてくる。

 どうやら鍵が開いたことにも気が付かないくらい、友人とその親しい女性と思わしき人物は盛り上がっているらしい。

 彼らに気取られないように、邪魔にならないように。

 出来るだけそっと、再びドアを開け外へ出ようをした瞬間、ふと言いようのない不安が胸に淀んでいる。

 聞こえてくる楽しげな女性特有の甲高い声も、どこか聞き覚えのある声のような気がしてならない。

 少しだけ考えたのち、わざと大きな音が立つようにドアノブを離す。

 ガチャン、という金属音がしじまの中に飛び散った。

 一つドアを隔てた向こう側では、異変に気が付く様子もなく、今もなお笑い声が絶え間なく聞こえてくる。

 不審な物音に気が付いたり、何らか怪しむ行動をとったり、もしもそうであったならば引き返し、おとなしく自分のアパートへと向かうつもりではあった。

 だがしかし、ついぞ従順な振りをすることは叶わず。いや、その時点で半分以上分かっていたのかもしれない。

(まさか、な……?)

 自分が思っていた結末では無かったら、誠心誠意に謝って頭を下げよう。そんな思いを胸に秘めながら、意を決し中へと踏み込んだ。

 結果、そこにいたのは、やはり見覚えのある人物で。

 突然現れた俺を見て、まるで幽霊でも見ているかのように驚きを浮かべる表情。その姿を視界に納めた瞬間、俺は自分の腹の中を、何か巨大な生き物が這いまわっているような、形容しがたい感情に襲われた。

 自分伝いに交流のあった二人だから、何か用事があったのかもしれない。何か事情があるのかもしれない。

 一生懸命彼らが悪くならない理由を考えても、散乱した衣服と周りの惨状を見るに、どうしてもそういう事なのだろう。

 荒れ狂う脳内とは裏腹に、やけに理性的な思考が、信じていた者からの明確な裏切りを決定づける。

 気色が悪く、不快だ、反吐が出る、虫唾が走る、自体中の鳥肌が総毛だったようだ。

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い! とにかく理性が認識することを拒んでいた。

 散々喚いて、何か大声で怒鳴った記憶はあるが、それもよくは覚えていない。

 途中でどうでもよくなり、彼の家を出て家路を急いだ。

 今まで苦だと思っていた重みも、大して気にならないくらい、ただ胸にあったのは怒りと痛いまでの悲しみで。

 帰路を急ぎながら、何度頭を振っても、二人の顔が浮かんでは消える。

 怯えたようにこちらを見あげ、泣きながら謝罪を繰り返す恋人だった女と、何を考えているのか良く分からない表情を浮かべる友人だった男。

 何も考えたくなくて、家に帰るや否や荷物を投げ出してベッドへと横になった。夜なのだからセミも鳴いていないというのに、ずっと耳の奥で、何かが鳴り続けているようで、胸が苦しく、頭が痛い。

 一刻も早く眠りにつきたいのに、結局うまく眠ることも出来ず、気が付いた時には朝日が上がってくる時間帯になり、暁の空に紫煙のような雲が薄く広がっている。

 暁から黎明へ装いを変え、着実に支度を済ませていく空。群青だった空が次第にサーモンピンクに染まり、だんだんと眩しい太陽が顔を出した。遥か空の上では薄い雲たちが風に流されて形を変えどこかへ流されていっている。雲に反射した朝日がそこらに飛び散り、プラズマが形成されている。

 窓を開けると朝露に濡れた草の匂いがじっとりと薫り、朝戸風が部屋の中へと飛び込んでくる。髪の下で踊る風を押さえつけながら、朝飯の準備の為に窓辺を離れた。


 3

 心に残るしこりもそのままに、学校で自分の身を襲ったのは、昨日まで会話をしていた友人たちのどこかよそよそしい姿だった。

 そしてなぜか当然のようにあの男の姿も見えない。

 あれの場所を訊ねるにも、彼らは若干憤っているようだ。そしてなぜか自分が悪い事になっているらしく、てんで話にならない。

 話の主語が見えず訳を尋ねるに、俺が悪者であるという事しかわからない。

 一体全体自分が何をしたというのだろう。

 問題の人物に会うことが出来ないまま、数日が経過していくうちに、話には背びれ尾ひれがついて被害者であるはずの俺がどんどん悪者になっていく。

 話をしなければならない事は分かっているが、どうしてもあの、友人の家には行きたくない。何とかして学内で話を終わらせたい。

 更に数日後、ようやく学内で捕まえる事が出来た友人は、悪びれた様子もなく自分が問い詰めてもあっけらかんとした様子で、

「お前、あの時俺の事殴ったじゃん? その仕返しだよ、仕返し」

 そう、自分に殴られた腹いせだと、友人であった男はそう言った。

 これまで自分が信じていたものが、何か大切なものが、砂で出来た城のように、跡形もなく、見る影もなく、崩れ去っていく音を聞いた。

 俺はただただ目の前の男が恐ろしいものに思えてならなかった。

 女への情より何より、男への憎しみと悲しみの方が大きく膨れ上がって、暴発寸前の風船のように、俺の感情は変貌してしまっている。

 自分でも、この男に割いていた心の割合が大きかった事に、驚きと戸惑いが隠せない。

「だからって……」

「大輔こそ、あんなに怒るとは思わなかったわ。何? そんなにあの女の事、大事だったの? そうは思えなかったから手出したっていうか、」

 俺の言葉に被せるように、目の前の男は若干苛立ちながら、矢継ぎ早に言葉を発している。

 風の音が、遥か遠く、天空の方から聞こえてくるようだった。

 この世界に、たった二人しかいないような、そんな不思議な感覚に陥って、辺り一面がスローモーションのように見えた。

「てか、誘って来たの、あの女の方からなんだけど。俺殴られ損じゃね? むしろ謝ってほしい位なんだけど」

 彼の口から知らされた事実は、全く予想だにしなかった事でもなく、何となく、やはりそうなんだなと思わせるものだった。

 自分は特に彼女に期待していたわけではないのだろう。友に裏切られたことの方が、大分ダメージがある。

 未だ釈然としない顔をしている祥吾に対し、なけなしの気力を絞り出して、何とか返答した。

「祥吾、お前……そんな奴、だったんだな……」

 気丈に振る舞おうとしたが、若干語尾が震えてしまったかもしれない。

 顔を見たくなくて思わず背けてしまった顔を、いつの間にか至近距離まで近づいていた祥吾によって、顔を掴まれ無理やり上を向けられた。

 鼻が付きそうなくらいの距離に、祥吾の灰色がかった瞳がある。

 驚いて反射的に払いのけてしまった時に、髪の毛を巻き込んでしまったのだろうか、何度もブリーチをかけた色素の薄い髪が数本、風に飛ばされてどこかへ消えた。

「なんだよ、今頃気が付いたのかよ」

 チシャ猫のようににんまりと上がる唇と瞳。一見いつも浮かべていた、いたずらっ子のような笑顔。だがそれは、どこか醜悪ささえも感じる初めて見る顔であった。

 なんとも腹立たしい顔をしている。だが、それがどこか泣いているようにも見えたのは気のせいだったろうか。

 何も言わずに立ち去った祥吾とは、それ以降はお互いに干渉することなく、自分にはしばらくの間悪評がついて回るようになる。だが人の噂も七十五日とはよく言った物で、しばらくすれば一人の女を巡って争ったという男たちの話は皆の記憶から薄れ、俺はまた、バイトに明け暮れる日々に戻った。

 嘘を信じて自分を否定してきた元友人達とも、あれ以降連接触をすることなく、華麗に逃げて過ごしている。

 謝りたいという、薄っぺらい言葉をかけてきたことも無くは無かったが、それで人間の咎が消えることは無い。

 偽善者共も何度目かのアタックをもって、無事、自分に関わる事を諦めてくれたらしく、その後は無事平穏な生活を手に入れた。

 人というのは簡単に裏切る事が出来る生き物なのだ。自分の一時の欲の為、他人を簡単に陥れ、時に信頼すらも利用する。

 所詮、他人は他人であり、己が一番可愛い。

 どうせ裏切られるなら、初めから裏切られる立場にならなければよい。曇りきった審美眼も、初めから使わなければよい。

 内にこもり、己ひとりを見つめ、生きる事が出来たなら、どんなにいい事だろうか。

 だがしかし人間は、決して一人では生きられぬもの。悲しいかな、理想とは遥か遠いものが現実である。


 この捻じれたままに世間に放流されても、己を信じることも出来ぬものが、ましてや他人を信じることなど出来まいて。

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