不足人間僕ら
マコト
第1話
机の上には大きなリュックサックと一枚の紙が置いてある。小学生の頃に誕生日プレゼントでもらった勉強机は、6歳の子供には大きすぎるサイズだったけど高校生になった今は、思いっきりスケッチブックを広げられるのが過ごしやすくて堪らない。机の上に置いてある手紙は両親に当てたもので、書いてある文章は一言だけ。「3日以内には帰ります」と。正直言うともっと詳しくどこに行くのかとか、誰と行くのかを書いておきたかったけど書いたらもう旅に出る前から負けのような気がして書けなかった。歌は荷物のチェックを済まし、リュックサックを背負い待ち合わせ場所が書かれたメモを持って家を出た。
待ち合わせのメモには「10:30
「おはよ。2人とももう着いてたんだ」
歌の言葉に2人はこちらへ目を向けた。
「おう。俺もさっき着いたところでさ。紫悠が1番乗りだ」
笑顔で答えるその姿は心なしかいつもより興奮しているように思われる。案の定、アリの心はオレンジ色だ。それはどうやら紫悠も同じようでいつもより目がキラキラしてるような気もする。
「じゃあ行くか」
歌の言葉に2人は頷いた。10時46分発の電車を寂れたホームで待っている間、歌は旅の目的を思い出していた。もともとこの旅は紫悠とアリの2人が計画していたものだった。そこに歌が後から参加することになったのだ。2人とはこの4月、高校に入ってから出会った。話すようになったのは席替えで紫悠と席が隣になってからだから6月の頭くらい。それまで2人とは一度も話したことはなかったけど傍から見ていても2人はクラスの中で、いや学校全体の中で異様なほど目立っていた。なぜって2人の内、1人は女で1人は声を出さないから。アリは4月の自己紹介で自分がLGBTの一つ、性同一性障害だと公言した。性同一性障害とは体の性と心の性が違う人のこと。歌は保険の授業で学んだ知識しかないけれど、この狭い世界でどれだけ性と抗うことが生きづらいかを何となく理解している。それでもアリは女でありながら男として堂々と生きている。その姿は誰よりもかっこいい。そしてもう1人の有名人、声を出さない紫悠。なぜ声を出さないのか理由を聞いたことはないし何より聞くことはタブーのような気がして歌は聞けていない。それはクラスメイトも同じようで、紫悠に話しかける人はいないしまるで腫れ物のように扱われている。ただ1人、アリを除いて。アリの自由奔放さは羨ましいといつも思う。人の目を気にせず生きているような感じだ。だから紫悠とも自然と仲良くなったらしい。ちなみに紫悠と話すときはメモ帳に言葉を書き込むことで成り立っている。それで紫悠とアリと旅行に行くことになった経緯は…。
「おい!歌、もうすぐ電車来るぞ。大丈夫か?」
紫悠の声に歌はハッとした。どうやら思い出すのに夢中になって駅のアナウンスですら
「乗り換えはどこだっけ?」
電車に乗ってすぐにアリが聞いた。案の定、下調べは特にしてこなかったようだ。だが旅が楽しみだったのは事実のようで荷物は紫悠の倍くらいあり、これでもかっていうくらいパンパンに膨らんだ大きなリュックサックに加えてトートバックまで持ってきている。
『後7駅だよ』
アリの質問に隣に座っていた紫悠が答えた。紫悠は喋らないけれどしっかり者なのが目に見えてわかる。だって学校では制服のワイシャツをいつも一番上のボタンまで閉めているし、成績はいつも上位。アリと紫悠は仲こそいいけれどちぐはぐだなと歌はいつも思う。ふと紫悠のメモ帳を見ていたアリが何かを思い出したかのように顔を上げ歌に話しかけた。
「そういえばさっき、何か考え事してたみたいだったけど何だったんだ?」
「ああ、2人との出会いを思い出してたんだよ」
歌の答えにアリと紫悠は疑問の表情を浮かべた。
「なんでそんなこと思い出してんだ?」
「うーん、わからないや」
「ハッ、分かんねえのかよ。まあいいや、駅が近くなったら教えて」
最初からさほど興味がなかったようで、そう言うとアリはリュックサックを空け、持ってきたゲーム機で遊び始めた。歌も乗り換えの駅に着くまで本でも読もうとリュックサックを開けると、真ん中に座っていた紫悠が歌に向けてメモ帳を差し出していることに気づいた。
『歌は本当にこの旅に来て良かった?』
歌の様子を心配したのか紫悠が不安そうな目でこちらを見つめてきた。
「もちろんだよ」
そう言うと安心したようで優しそうな笑顔で微笑んだ。そして同時に心の色もピンク色になった。その素直に表される心を見て、本当にこの2人と来れて良かったと思った。歌は生まれながらに人の気持ちが色になって見える。怒っていたら赤、楽しかったらオレンジ、悲しかったら青というように。心の色が見えるのは自分だけだということは幼いながらすぐに気がついたけれど、何も不便なことはないと思っていた。だってみんな言葉のまま、心の色が現れるのだから。だけど中学生に入ってみんなが自分の気持ちをそのまま言わないで、隠すようになってからは知りたくもないことを知ってしまうようになった。頑張って出来上がった絵を友人に見せたとき、言葉では綺麗だと言ってくれたけど友人の心の色はポジティブな感情を表すオレンジでもピンクでもなく黒色だった。黒色の気持ちはその時まで自分に向けられたことがなかったけど、歌の親が隣のおばちゃんの悪口を楽しそうに言っているときと同じ色。つまり、軽蔑の色。誰かに向けられる感情が怖いなんて思う日がくるなんて微塵も思っていなかった。歌はそれから人に絵を見せられていない。中学時代は人が言う言葉と向けられる感情の矛盾に、歌は人との関わりが怖いと思うようになっていった。だけど高校に入って出会った紫悠とアリ。歌は彼らの素直さに救われた。だから2人が旅に出ると聞いて歌も参加したのだ。2人のことをもっと知るために、ずっと弱いままの自分を変わるために。駅はもうすぐ乗り換えの場所に到着する。結局1ページも読まなかった本をリュックサックの中にしまい、歌は降りる準備を始めた。
降りる駅に着くと3人は新幹線乗り場へ向かった。先ほどの駅とは違い、多くの人が道を行き交えっている。3人は迷子にならないよう、紫悠を先頭に歩き始めた。
「本当に人が多いな」
「マジでそれな。暑いし人多いし意味わかんねえ」
アリは暑さでイライラが上乗せされているようだ。そんなアリの様子を見て歌が言った。
「お茶でも買っておく?」
「いや、金かかるし家から水筒持ってきてるから俺はいらねえ。紫悠は大丈夫か?」
アリの質問に紫悠は前を向いたまま首を縦に振った。その様子を確認し、3人は引き続き、新幹線乗り場へ急いだ。新幹線に乗ってしまえばあとはもう目的地に着くのを待つだけだ。3人は徐々に近づいてくるゴールに心を躍らせながら、ホームを歩いた。
ここはどこだろう。目に入る光はなくて、暖かく感じる温もりもない。そしてとても狭い
「メアリちゃんって変だよね。だって女の子なのに俺って言うんだよ」
聞き覚えのある声。あれは小学校のとき同じクラスだったやつ。女の子だからってなんだよ、お前には関係ねえだろ。
「分かる分かる。しかも言葉遣いが汚いし、噂だけど制服の時以外スカート履いたことないんだって!笑えるよね」
また違う声が聞こえる。ネチネチした喋り方で嫌味そうに笑う奴。スカートが履きたくなくて何が悪い。好きなように生きたいだけなのに、それだけなのに面白おかしく時には気持ち悪そうにされる。俺をバカにするあいつらが大嫌いでたまらない。俺は、男だぞ。
「いやお前は女だ」
たくさんの声がアリを追い詰める。冷たくて、痛くて、痛く心にのしかかる。どうしてそんなに責められなきゃいけないんだろう。ただ自分の思うがままに生きてきただけなのに。この世界はルールに当てはまらない人には厳しくてそれはとても辛い。
「アリ!起きて。もうすぐ到着するよ!」
歌に強く肩を揺さぶられて目を覚ました。どうやら夢を見ていたらしい。手のひらは汗でぐっしょり濡れていてなんとも目覚めの悪い旅の始まりだ。心配そうに見つめてくる2人に大丈夫だと伝え、手に残った汗を拭った。
「間も無く
そのアナウンスを聞いて3人は席を立った。到着した場所は出発した地点よりもはるかに北。真夏としては珍しい、涼しい風がアリの頬を撫でる。今からでもこの旅の目的を果たしたいところだったけど、もう太陽が傾き始めてホテルのチェックインの時間が近づきつつあるから出かけるのは明日になるだろう。どこかへ行きたい気持ちを抑えながらアリは先に進む2人の後を追った。ホテルの部屋は3人それぞれ別で取っている。簡易的なベットと必要最低限の家具。高校生の俺たちが支払える金額で泊まれるホテルなんてこんなもんが精一杯だ。ベッドの上に広げた荷物を見て、アリは小さくため息をついた。パッチリと開いた目の先にはリュックサックに入っているくたびれた絵本がある。物心ついた頃からいつもそばに置いてある絵本で、今回の旅の目的を叶える方法を教えてくれた大切な物でもある。絵本の題名は「カリナのお
『
1
しかしカリナにはお
そんなある
「お
カリナの
「お
だからずっとお
しかし
カリナはお
そしてカリナは
「
カリナの
その
「そなたの
カリナは
「はい!お
「ではそなたのその
そして
たくさんの
カリナは
たくさんのお
ほんの数ページの短い物語。何度も読んでいるけれどやっぱり終わり方が絵本にしては珍しいと思う。カリナの願い事が叶ったなんて一言も書いてないから。でも、だからこそこの話の内容に興味が湧いたのかもしれない。結果を求めないこの話が面白いと思った。アリはこの旅で紫悠と歌と一緒に崖に向かうつもりだ。カリナが崖に行って願い事を神様に聞いてもらったように、アリも崖に行って自分の願いを伝えたいと思っている。この提案に乗ってくれた2人には心底感謝をしている。紫悠とは高校に入ってから仲良くなった。クラスのほとんどの奴らは紫悠は喋らなくて静かなやつだと思ってるけど、実際はそんなことなくて意外と天然なところもある。アリも声は聞いたことがないけれど、そんなの気にならないくらい紫悠は優しいし話していて楽しい。一方、歌は不思議なタイプだ。俺と紫悠と話す時以外、どこか自信なさそうな顔をしてるいる。でも俺のことを偏見の眼差しで見ることはないし良いやつだと思う。まだ2人とも知り合ってから時間はそんなに経っていないけど、一緒に旅に来れたのがこの2人でよかった。明日の楽しみを心に抑え、アリはいつもより早く眠りについた。
「ねえ、あとどれくらい?」
「わかんねえよ。ただ、真っ直ぐって言われたから歩いてたら着くだろ」
「そんなこと言ったってもう20分も歩き続けて疲れたよ。紫悠もそう思うだろ?」
歌の言葉に笑いながら対応しつつ、紫悠も足を進めた。今日、紫悠たちはこの地域にある
「紫悠はさ、叶えたい願い事とかない?」
ある日、いつものようにお昼を一緒に食べていたらアリが突然聞いてきた。昨日までと違い、目は赤く腫れ上がりどうやら涙を流した後のようだった。アリの様子に少し戸惑いながらも紫悠はメモ帳に一言書いた。
『あるよ』
その文字を見たアリは意を決したかのように、ある提案を持ちかけた。
「俺もさあるんだ。どうしても叶えたい願い事。それでさ一つ、聞いてほしんだけど夏休みに俺と一緒に旅に出る気ない?」
急さ誘いに驚きながらも紫悠はその訳を聞いた。簡単に話すと、アリは
「紫悠!歌!あと少しで
アリの元気な声に紫悠は重たかった足が少し軽くなるのを感じた。
「俺は小さい頃から男として生活することの方が生きやすかったんだ。だってスカートよりズボンの方が好きだし、髪の毛だって短髪が1番良い。自分の名前がメアリなんて女みたいだから嫌いで、だからアリって呼んでもらうようにしてる。俺はこの先もずっと男として生きていきたいんだ。何人、何十人の人に馬鹿にされたって自分の生き方を変えたくない。俺は俺が正しいと思った生き方を選びたい。だから自信が欲しかったんだ。スカートを捨てたのもそれが理由。知ってた?制服はスカートだけじゃないんだぜ?」
昨日までの苦しそうな表情とは打って変わり、楽しそうに笑う姿がそこにはあった。アリの様子を見て、歌も同じく何かを投げた。紫悠の目からはそれはありきたりな紙のように見えたが、その紙は歌にとって大事だったものなのだろうと紫悠は何となく感じた。
「僕は人の気持ちが何となく分かってしまうんだ。それが良い感情だったらいいけど、悪い感情の方が多いんだよね。だから僕は今まで自分に向けられる感情が怖かった。けどアリと紫悠に出会えて、素直に気持ちを向けられることがこんなにも嬉しいんだって気づけることが出来たんだ。だからこれは僕の夢の一歩。いつか最高の絵を2人に見せるからそのときは感想でも教えてよ」
目の前に立つ歌の姿が紫悠には何だか光って見えた。
「ていうか気持ちがわかるって何だよ。エスパーかよ」
アリの突っ込みに歌は笑った。紫悠も2人の様子が面白くてつい声を出して笑ったと思ったが、出したと思った声は空気に溶けて無くなってしまった。分かっていた結果だとしても声が出ないのはひどく悲しい。だけど2人の思いを聞いた紫悠は、足りなかった勇気をもらえた気がしてこの旅の為に書いてきた手紙を2人へ差し出した。2人は紫悠の持っている手紙に気づくとこちらに近づいてきて、静かに読み始めた。
『僕には父親がいない。
なぜなら中学3年生の秋に人身事故で自殺したから。
理由は会社で受けたパワハラのストレスらしい。
その日も僕はお父さんを見送ってからいつものようにニュースを見ていた。
何も変わらない1日だと思ってた。
朝のニュース速報で、聞き覚えのある路線で人身事故が起こったと放送された。
僕はまたどこかの誰かが死んだんだって思った。
SNSのトレンドには人身事故の影響を話す人が何人もいた。
僕もそれを読んだけれど、確かにって思った。
どうして死ぬ時まで人に迷惑かけて死ぬんだろうって。
だからその日の午後、学校から警察に連絡がきたときまさかって思った。
まさか僕のお父さんな訳ないって。
だけど、病院にあった遺体は間違いなくお父さんだった。
顔も体も見るに耐えなくて全く分からなかったけど、遺体の靴は僕がいつも磨いていた物だったから。
僕はショックだった。亡くなったお父さんにも、僕自身にも。
僕はお父さんの死に共感が出来なかった、むしろ責めることをしてしまった。
その次の日から僕は熱で何日も体を動かせず、ようやく落ち着いた数日後には声が出せなくなっていた。
僕は自分の罪と引き換えに声が出せなくなったんだと思う。
ただ、一つ神様が願いを叶えてくれるのなら僕はお父さん謝りたい。
僕の声はこの先も出なくても良いから、僕が犯した罪をどうか許して欲しい』
読み進めていくごとに2人の表情が暗くなっていることを紫悠は感じた。重たい話を聞かせしまって申し訳ないと思いつつも、自分自身の話を聞いてもらえることができて少しの嬉しみも感じていた。
歌は紫悠から渡された手紙を読んで言葉を失っていた。紫悠のことを知れて嬉しい気持ちも、もちろんあったがそれ以上に紫悠の声が出なくなった原因が辛く悲しかったから。それはアリも同じようでアリの心の色は悲しい青色で広がっていた。だけど、なぜか少しずつ赤色が増えてきてアリは手に持っていた紫悠の手紙をくしゃくしゃにして崖の底へ投げてしまった。
「紫悠がお父さんに思った感情も、お父さんって知らなくて抱いた感情も、偽りのない本当の気持ちだったから仕方ないと思うけどそれが罪なんて俺は思わない。それに手紙を渡してきたってことは俺たちに聞いてもらいたいって思ったから渡してくれたんだろ。紫悠の抱えてる思い、俺たちが聞くし支えるからさ頼れよな」
アリの言葉に紫悠は驚いた表情を浮かべた。どこまでも優しい紫悠は、どこへ向けて良いか分からない思いを全て自らの罪だと抱え込んでいたんだろう。さっきまで真上にいた太陽はいつの間にか徐々に西の方へ流れている。時間の流れを感じながら歌も口を開いた。
「僕もそう思うよ。だって紫悠はいつだって人のことを見て行動をしてくれる。そんなに優しい紫悠をお父さんが許さないわけないし、僕みたいに紫悠に救われた人間もいるんだから」
「ああ。俺もそうだ。宿題忘れたとき見せてくれたり、テストで赤点取りそうになった時教えてくれたり、消しゴム忘れたら貸してくれたり。俺は紫悠にすごい世話になってんだから」
「それは流石に忘れすぎじゃない?」
歌の返しにアリが大笑いした。次に歌。そして2人の笑い声に初めてもう1人、加わった。空っぽになっていた紫悠の声が、音になって笑い声になる。その日、
新学期。9月。歌は学校までの道を歩いていた。暑い夏はまだ健在のようで、額の汗が頰をつたう。すれ違う人々の心の色はまちまちなのはいつも通りだけど、何だか最近は前よりも心の色が綺麗に感じる。そう思いながら歩き進めていると少し先を歩く彼の姿を見つけた。新品のスラックスは、まだあまり履いていないようで
「歌、おはよう」
未だに聞き慣れない彼の声だ。優しくて透き通る声。あの日から紫悠は少しずつ声を取り戻している。
「おはよ。久しぶりだね」
「うん。ところで手に持っているその袋には何が入ってるの?」
「ああ。これね」
一呼吸置いて、歌は答えた。
「これは僕が書いた絵なんだ。紫悠とアリに見せたいなって思って」
歌の言葉に紫悠は嬉しそうに頷いた。3人のお願い事はまだ始まったばかり。
不足人間僕ら マコト @tensaisugipon
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